二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(7)

 アナスタシアは青ざめて震えながらしばらく沈黙していたが、静かに人狼を繫ぎとめる腕をほどいた。このまま縋り続けていてはまた彼を縛ることになってしまう。これまで罪悪感という鎖で彼のことをてんばくしてきたように。


「ねえ、あなた。おぼえているかしら」


 アナスタシアがぽつりと喋りかけた。声は細かったがしっかりとした響きがあり、これまでとは違った印象を受ける。彼女のさだまったこころの、ありようが表れていた。


「あなたが事故にあった日の朝、結婚してからはじめてけんをしたわね。前の晩に私が勝手に出掛けたことを知ったあなたに、俺が一緒じゃないと危ないっていわれて。お互いに縛りあうのはやめましょうよっていったわ。言葉がたりなかった。ほんとうはわたしに縛られなくてもいいのよっていいたかったの。あなたがいなくても、ちゃんとできるようになって、あなたを安心させたかった。けっきょくそれきりになってしまって」


 彼女は項垂れた。なみだに濡れた唇から重い息と一緒に言葉をこぼす。それは彼がもう紡ぐことのできない失意で、後悔だ。ため息は生者の権利なのだから。


「ばかよね。明日があると信じて疑わなかったの。これまで続いてきたように、漠然とこれからも続いていくものだと。ましてあなたがさきに逝ってしまうだなんて」


 あえぐように狼がいった。取りかえせない幸福を懐かしむように。


「……偶然手にいれた、十五世紀頃のめずらしいゆびを、きみに、贈りたくて、帰り道を急いでいた。後ろから急に車が……すまない、仲直りが……したかったんだ」


 誰もがきっと理由もなく、明日を妄信している。この一瞬にも地続きの何処かで誰かが死んでいることは知っていても、それが自分や愛する人に降りかかってくる雨だということを考えない。


「ずっと、あなたに頼ってばっかりだったわ。でも、もうだいじょうぶよ」


 力強くそういってから、アナスタシアは幼子のように頰を歪めた。いったんとまりかけた涙がまた頰をつたい始める。彼女は雫をひとつふたつとぬぐいながら苦笑した。


「……ごめん、ウィリアム。ほんとうはだいじょうぶじゃないわ……けど、頑張るから。ちゃんと、幸せに向かって進んでいくから」


 彼女の最愛の人は、死んだのだ。

 それでも彼女はまだ生きている、悲しいけれど。


「だからまちあわせをしましょう。私は、できるかぎり、ゆっくりといくから」


 祈りめいた約束を抱き締めて人狼はすうと穏やかな面差しになる。終始飢えているかのように強張っていた顎が緩み、彼は笑った。それは獣のかたちをした微笑だったが、そこには彼女の横で生きていた頃の面影が確かにあった。

 アナスタシアは身を乗りだしてその鼻さきにくちづけをたむけた。棺に花を落とすように。


「それではわたしが葬りましょう」


 青い服をはためかせ、モリアは剣を構えなおす。その、すくりと張りつめた背筋からは死にたいする敬意が漂っていた。愛する人の最期をその瞳に焼きつけようとしていたアナスタシアは唐突に思い到る。

 モリア──彼女の纏っているあれは、喪服だと。アナスタシアは夫とともに旧時代の芸術について勉強したことを思い出す。現代では黒をもちいるが、西洋中世期においては青こそが喪を表していた。それゆえ青は死と地獄の色として忌み嫌われた。

 青き喪に服し、モリアは死者を葬る。黄金の双眸には溢れんばかりのなみだを湛えていた。亡霊の嘆きを想って、彼女は瞳を濡らしている。

 死は幸福ではなく、死は救いではない。それでも、せめてもの。


「どうか、やすらかに」


 人狼にむけて、剣が振りおろされた。


「……愛していた、アーニャ」


 それが最期の言葉だった。

 貫かれた胸からひびが入り、人狼の身体がぼろぼろと崩れた。青いたまのようなものが解き放たれる。珠はりんこうを散らしながら浮かびあがった。

 モリアの胸が共鳴するように淡く輝きだす。

 彼女はとうにほどけていたリボンを抜き、胸許を開いた。剝きだしの肋骨に咲いていた花から細かな青い光の群が舞い散り、それらは亡霊の魂を誘うように取りまく。魂はくるくると躍るようにまわってから、まだ暗いニューヨークの空に舞いあがっていった。

 アナスタシアは濡れた頰を持ちあげ、笑って、愛する人の魂を最後まで見送る。彼が再びに彷徨ってしまうことのないように。

 静寂が落ちる。剣をさげた娘は最期に、敬意と慈愛と哀悼をもって美しい辞儀をした。品格の漂う、とても綺麗な所作だ。

 リン──鈴の響きをともない、彼女は剣を鞘に収めた。

 亡霊を斬ったその剣は血に汚れることはなかった。血潮とは命の雫だからだ。亡霊は血を流さない。かわりにモリアの瞳からはとめどなく、なみだがこぼれた。


「ありがとう……あなたのおかげで彼がやっと、眠りにつけたわ」


 暫くもくとうを捧げて、気持ちの整理がついたのか、アナスタシアが感謝の意を述べる。

 前触れもなく廻転琴オルゴールのような音が響きはじめた。シヤンがジャケットから懐中時計を取りだす。蓋をあければ、九つの針がせわしなくまわり続けていた。


「他の時代に捜し物があらわれたみたいですよ。この経度ですと……そうですね、今度は十八世紀頃のパリになりますね」

「あら、懐かしいわね。前に一度訪れたときは冬だったかしら」


 にわかには信じがたい言葉にアナスタシアが呆然とたずねた。


「あなたたちは……何処からきて、何処にいくの」


 白銀の髪に青き喪服。明星のような瞳に底知れぬ悲しみを漂わせながらも、なげな微笑を湛える娘。その背後につかえた、美しくもおそろしい影のような従者。死神か。そうでないのならば彼女たちはいったい、何者なのか。


「わたしたちは何処からでもあらわれ、何処にでも向かいます、死に到れなかった死がそこにあるかぎり。時間を渡り国境をまたぎ距離を越え──いわば時の異邦人なのです」


 謎かけのようでアナスタシアは何度も瞬きをした。わざと理解できないように語っているのか、それとも他にふたりの素姓を語る言葉がないのか。


「ごめんなさい。私には理解が追いつかないわ」


 そのことをとても残念に思うといい添えて、アナスタシアは首を緩く振る。


「せめてなにか、お礼にできることがあればいいのだけれど」

「お礼なんて……それならば、ひとつだけ伺いたいのですが、彼の贈ろうとなさっていた指環は受け取られましたか?」

「え……いいえ、彼は事故の後、普段の仕事鞄しかもっていませんでした。鞄のなかにも財布と携帯と、後は虫眼鏡などの仕事道具くらいしか。他に荷物をもっていたとしたら、事故の拍子に何処かに転がっていってしまったとしか」


 すうと瞳を細めて、モリアはなにもかも理解できたとばかりに頷いた。

 アナスタシアは最後に指を組み、恩人の前途を祈る。想像もつかない旅だが、それでも祈ることくらいは許されるだろうと。


「どうか、幸運を」


 細やかな祈りを背にけ、ふたりはアンティークショップを後にした。




 重い木製の扉を抜け、空を振り仰げばいつのまにか夜が終わり、朝が訪れていた。

 東から段々と紺青の帳が解けて白藍に移ろいはじめている。うすぼんやりと明るんできた空に高層ビルの硬い線が墓標のように浮かびあがっていた。


「愛、ねえ」


 街路に植えられたマメナシがはらはらと散りはじめている。朝のしめった路上に張りついたはなびらをわざと踏みつけて、シヤンがせせら笑うようにいった。


「どうせ百年も経てばどっちも死に絶えるのに。無駄なことをしますよねえ、にんげんって。だから愚かなんですよ」

「あら、散ると知りながら花を愛することは悪いことではないわ」


 なみだの痕を残した頰を綻ばせてモリアがいった。


「ふうん、俺には理解できませんね」

「そう、だったら理解できるまで考えてみてはいかが?」


 人差し指を柔らかな唇にあて、彼女はからかうようにうっそりと瞳を細める。いとけなく清らかでありながら、何処となく妖しげな微笑を振りまいて。シヤンは毒気を抜かれたように眉をもちあげ、続けて愉快げに唇を歪めた。


「だったら」


 彼は歩きながら背をかがめてモリアの瞳を覗きこむ。これまでガレージに映っていた細身な影がずるりと、地に落ちた。


「貴女が教えてくださいよ。にんげんがどんなものなのか。あんたが、この俺に」


 瑠璃を砕いたような双眸が昏い光を滲ませた。

 ぞっとするほどに美しい、魂を凍らせる青だ。

 されど誰もが身をすくませるような視線にさらされても、娘はいささかもおびえない。青は、彼女にとって畏怖すべきものであっても恐れるべきものではないのだと、胸を張って示すように。


「ええ、教えてあげる。時間はいくらでもあるもの、あなたにもわたしにも」


 あさもやにけむる明けがたの町角に、背格好の違うふたつの影が伸びる。まだヘッドライトをつけた車がつむじ風を吹きあげ、通りすぎていった。電光看板はすでに眠りについている。晩のうちに新たに描き加えられたガレージのらくがきばかりがあざやかだ。

 穏やかで静かな、ありふれたチェルシーの朝だった。けれどもこの朝はきっと、誰かが迎えたくて迎えられなかった朝だ。

 死は平等だ。命あるものは決して、死から逃れることはできない。朝が来れば夜が訪れるように。愛と憎しみが背中をあわせて円舞曲を踊り続けるように。

 だからこそ、彼女はいのるのだ。死が等しくやすらかでありますように──と。

 マメナシの枝が傾いでまたひとつ、はなびらが果敢なく舞いあがった。

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