二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(6)



 かちんと時計の針がとまった。

 針の細かなぶれをふくめても現実でったのは数秒に満たなかった。

 現在に戻ったモリアは緩やかに視線をあげる。人狼は部屋の隅にうずくまり、アナスタシアも車椅子の車輪を握り締めて途方に暮れていた。


「そう、あなたの後悔は十五年前からはじまっていたのね」


 知られたくなかったというようにアナスタシアが凍りついた。違うの、違うわと細くつぶやき頭を振る。それを遮って、シヤンがくつくつと喉を膨らませるように嘲笑った。


「なるほどねえ。愛だとかなんとかいってましたけど、ひとかわ剝けば不純だらけじゃないですか。幼稚な正義感と欲の塊だった男が罪悪感を抱えた。貴方あなたはそれに取り入って散々庇護されてきたわけですよねえ? 鞄だってあんなふうにぼーっとさげて。あれじゃ盗んでくれといってるようなものですよ。それに気がつかないくらいにはあまやかされてきたわけだ」

「そ、そんなつもり……は」


 ない、といいかけて、アナスタシアは口をつぐんだ。シヤンはこころの隙につけこんで触れられなくなかった傷を愉しげに暴きだす。柔らかく熟んだ傷に爪を刺しこむように。

 アナスタシアを傷つけようとする悪意を感じてか、人狼が低く呻りだす。モリアはみずからの従者を振りかえり、やめなさいと睨みつけたが、彼は他人の傷をえぐることに娯楽を見いだしているようでと続ける。


「そうでしょう? なかみはそんなものでも、愛と言い張れば、素晴らしい夫婦のできあがりだ。ほんと、さいっこうに便利な言い訳ですよね、愛っていうものは……っと、なんですか、姫様」


 モリアに靴のつまさきを思いきり踏まれて、シヤンがさすがに黙った。


「知ったようなことをいわないで。あなたには人のこころなど理解できないくせに」


 きゅっと瞳をとがらせ、モリアはシヤンを睨みあげた。彼は眉ひとつ動かさず、にたにたと悪意のある笑いを浮かべながら肩をすぼめて後ろにさがる。


「アナスタシアさん、どうか彼の言葉は気になさらないで」

「いいえ……いいえ、確かに、その人のいうとおりだわ」


 アナスタシアがさめざめと泣きながらいった。


「ほんとうは知っていたの。あなたがずっと、あの祭りの晩のことに囚われて、苦しんでいたことを。あなたは、優しい人だから。けれどもあれは事故だったのよ。あなたはなにも悪くなかった……ちゃんとそう、いってあげるべきだった」


 そうか──いわなかったのか、彼女は。

 もちろん、約束を破ったあなたのせいだと責めたりはしなかっただろう。だが手術を終えて意識を取りもどした後、病室のベッドにしがみついて謝罪を続けるウィリアムに彼女は、なにも言わなかったのだ。

 ただ、重く沈黙し続けた。沈黙とはある種の肯定だ。


「言いだせなかったの! だってそんなことをいったら、あなたが私から離れていってしまいそうで!」


 彼女は胸のうちに隠し続けていた思いを吐露した。こみあげてきた叫びは悲鳴じみている。いや、それは他でもない彼女のこころの悲鳴だ。


「だって、私にひどいことをしたんだっておもっていれば、あなたは私から離れていかないでしょう? ずっと後悔して自分ばかりを責めて、ずっとずっと、私を愛してくれるでしょう……?」


 人狼が鼻筋にしわを寄せ、低く呻りだす。彼は頭を横に振り、なにか言いたげにぐるぐると喉を膨らませた。


「怒って、いるのね……そうよね、怒ってあたりまえだわ」


 アナスタシアは車輪を握り締めて、人狼となったウィリアムのもとに近寄っていった。人狼はますますに牙を剝きだし、いまに喰いかからんと背をかがませる。

 人狼はずっと妻のことをまもり続けていた。それは確かだ。けれどもいま、人狼の敵意は他でもない妻に向かっているのではないかと思われるほどだった。


「アナスタシアさん、いけません! いまの彼はもとの彼ではないかもしれないのよ」


 モリアが強くひきとめようとするが、アナスタシアはいいえと首を振った。


「彼は彼よ」


 アナスタシアはゆっくりと座席から腰をすべらせて、ずるりと車椅子から降りた。細い腕のちからだけで動かない脚をひきずり、彼女は人狼に向かって進んでいった。壊れたものをかき集めるように板張りの溝に指を掛けながら。

 彼女は愛すべき人狼にその身を捧ぐと決めたのだ。

 人狼が、動いた。

 アナスタシアに覆いかぶさるように人狼が襲いかかり、モリアはとっさにシヤンに号令を掛けようとする。だがいつまで経っても、人狼は瘦せた女の喉許に鋭い牙を突きたてようとも、その腹を爪でひき裂こうともしなかった。ただ、獣となり果てた大きな腕を妻の背にまわして、さりとてその身体を抱き締めることもできず、項垂れた。


「違う、んだ……」


 ごぽりと膨らんだ狼の喉から洩れたのはひび割れた獣の声。それでもそれは、確かに人の言葉だった。

 ほとんどの亡霊は声を持たない。しかしながら彼のように他者を害せるほどに確かな実存をもった亡霊は、時に言葉をもってこちら側に干渉することができる。もっともその言葉を拾いあげることができるのはモリアのような生死の境界にたたずむ者か、かねてから浅からぬ縁のある者にかぎられている。


「確か、に、俺はきみとの約束を破って、それをずっと、後悔していた。だから、結婚した、きみと」

「……ええ、わかっていたわ」


 だからつらかった。だからいえなかったのだ。


「けれど、それだけじゃない。それだけじゃ、なかったんだ……」


 人狼が喉からしぼりだすようにいった。


「愛していた。だからまもりたかった。まもれなかったことが悔しくて、やりきれなかった。だから、責任とか。それだけだったみたいに、いわないでくれ……どうか」

「ほん、とうに?」

「ああ、愛している、いまでもずっと」


 アナスタシアがふわりと人狼を抱き寄せた。人狼は戸惑いを表すように尾を振った。アナスタシアの肩に添えられた狼の腕には、人の手指があった。なぜか。車椅子を押すためだ。ともに歩き続けたかったという想いゆえだ。

 モリアの黄金の瞳は死者と生者を等しく映しだす。抱き締めあうふたりの背をみつめながら、モリアがぽつりといった。


「人の愛は、愛だけで、できているわけじゃないのよ」


 ふたりは確かに愛しあっているのだ。

 それでも死者は、甦らない。甦ってはいけないのだ。

 あたりに散らばった硝子のかけらに視線を落とす。さきほどの騒動でランプが落ちて割れていた。なかでたわむれていた蜻蛉の姿はあとかたもない。砕けてしまったものは再びには戻らない。青い靴でそれらを踏みつけて、モリアは前に進みでる。燭台の火を映し、すそに施された刺繡がちらちらと燃えるようにきらめいた。


「想いがかよったのですね」

「ええ。だから、もう」


 安堵したように微笑むアナスタシアの頰が強張る。


「それでも死者は眠らなければならないわ」


 モリアはさやに収めていた剣をするりと抜き放った。

 それは殺すためのものだ。死者を、死に到らせるための。


「わたしは、死に到れなかった死者を葬るものです。再びに殺すことによって」

「いやよ! 彼を、また殺すだなんて、そんなひどいこと……!」


 アナスタシアが人狼にしがみついて訴えた。けれどもモリアは剣をおろさない。


「死は等しく悲しいものだけれど、死者が死に到れないほどむごいことはないわ。彼は……車にはねとばされたのね。左脚の関節がまがってはならないほうにまがったままだわ。気づいておられたかしら」


 アナスタシアが驚き、慌てて人狼の脚を確かめた。確かに左脚だけが後ろ側に関節がまがっている。それでも人狼は彼女のために駈け、跳ねあがっていた。彼がどれほどの苦痛を抱え、愛する妻のために甦ったのか。彼女はようやくに理解する。


「死に到れないということはいまもまだ、死に続けているということよ」


 魂のありようを変えるほどに彷徨い続けた死者はそのこころがちたりても、かえるべき道筋に着くことができない。まして彼は人を殺している。誰かが葬り、いざなってやらなければならなかった。

 だから──とモリアは続けた。


「どうか、眠らせて差しあげて。彼を愛しているのならば」


 死後も彼の魂を縛りつける願いから解き放ってあげて──と黄金の瞳を潤ませて、彼女は懇願にも等しい声を掛けた。

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