二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(5)



 花は咲いて花は落ちる。

 鼓膜がしびれるほどの音が響いて、モリアが我にかえった。彼女は騒がしい人混みのなかに放りだされていた。人々の歓声につられて視線をむければ、夜の海を挿んだむこう側で花火が続々とあがっていた。


「祭り、ですかね」


 時計を確かめ、シヤンがいった。文字盤は《現在》より十五年前の七月四日を示している。


「おそらくはメイシーズの花火だわ。アメリカの独立記念を祝福するお祭りで、ニューヨークで花火をあげられるのはこの日だけなのよ」


 国を挙げた祝いごとだからか、星条旗の帽子を被ったり花火があがる度にちぎれんばかりに旗を振っているものもいる。

 宵の帳がまたひと際、華やかにいろづいた。ブルックリン橋を飾りつけるように大輪の火の華が咲き誇る。赤から紫に、紫から黄へと移りかわりながら緩やかに散華していった。海にちりばめられた光のくずまでもがまぶしく、赤や青のなみが躍るさまは自由の旗がひるがえっているようにモリアの瞳には映った。


「ウィリアムのことを捜さないと……あら」


 アベニューを埋めつくすほどの群衆のなかから、モリアは幼い頃のアナスタシアを見つけた。十三歳前後か。車椅子ではないものの、印象はいまと変わらなかった。ふわふわとしたコットンキャンディーのようなスカートを履き、花の髪飾りをつけている。子どもなりに一所懸命におしゃれをした、といった微笑ましい雰囲気だ。

 その隣には年齢の割に肩幅と上背のある少年がつき添っていた。引き締まってがっちりとした身体つきは野生の狼を思わせた。あれがウィリアムだ。

 彼は十数年後にアナスタシアと結ばれて、不運な事故でようせいし亡霊になり果てる。

 目の前の彼はそんなことは知らない。祭りの混雑ぶりに戸惑っているアナスタシアの頭をぽんぽんと撫で、彼は晴れやかに笑いかけていた。

 おれが側にいるから、だいじょうぶだよ──

 はぐれないように手をつないで寄り添い歩くふたりは仲むつまじく、はたからみればきようだいにも見える。


「追いかけましょう。ふたりになにがあったのか、確かめないと」

「はいはい。……面倒くさいですねぇ、まったく」


 花火を振り仰ぐ人の群を搔きわけて進むモリアの後を、だるそうに欠伸あくびをしながらシヤンがついていった。

 公園のまわりには天幕がところ狭しと張られ、ホットドックやレモネード、クレープなどを販売している。風むきで漂ってきた火薬の煙に食べ物の香りがまざって、程よく食欲をそそる祭り独特のにおいが立ちこめていた。昨日まではなにもなかったところに、おもちゃ箱から取りだしたような安っぽい遊園地ができている。回転木馬が底抜けに明るい音楽を奏でながら子どもたちを乗せ、ぐるぐるとまわっていた。木馬にまたがっていたのはウィリアムの友達だったようで、一緒に遊ぼうよ、と誘いかけてくる。きらきらと賑やかな遊園地にこころを惹かれて、彼は一瞬だけなやんだ。だが背後にいたアナスタシアがためらいがちに彼の服のすそをつかむと、ウィリアムはこまったように笑いながら、また今度なと友達に手を振った。

 賑やかすぎるアベニューから離れ、ふたりはのんびりと買い食いをすることにしたらしい。かわべりの手すりにもたれてアナスタシアは粉砂糖がたっぷり掛かったファンネルケーキを頰張り、ウィリアムが銀紙に包まれた熱々のホットドックを食べている。頰に砂糖をつけて無邪気に笑うアナスタシアはわいらしかった。

 幸せそうだ。されどもありふれた幸せほど壊れやすいものだ。

 騒々しい歓声がすぐ側を通りすぎていき、ふたりがなんだろうと振りかえった。ウルフガルドの特撮劇だよと聞こえて、特撮劇好きなふたりはとっさに顔を見あわせる。「アーニャ、観にいこうよ」といったのは瞳を輝かせたウィリアムだった。「観たい……けど。たぶん、あっちには人がたくさん集まってるよね。ごめんね。私は、むり。咳がとまらなくなったら……いや、だから」

 アナスタシアがそういうと、彼は表情を硬くして、重く黙ってしまった。我慢ばっかりだ──言葉にはせずとも曇った瞳がそう訴えている。彼もまだまだ幼い。ほんとうは我慢に慣れていない年頃のはずなのだ。


「やっぱり、私なんかが一緒だと迷惑、だよね。お祭り、楽しめないよね……」


 アナスタシアの言葉には、すぐに否定して欲しいという懇願が透けていた。ウィリアムはため息を、というよりは肺につめていた呼吸を押しだすように洩らし、重い沈黙を取り消しにするみたいに穏やかな笑顔を取りつくろった。


「そんなことないよ。そうだね、騒がしいところはだめだもんな」


 けれどもまだ、声の端々が硬かった。それに気づいていないのか、わからないふりをしているのか。アナスタシアは空を指差して、はしゃいだ声をあげた。


「あ、ねえ! 最後の花火だよ!」


 細い火の緒が天に向かって伸び、最高度に達したところで光と極彩が炸裂する。空から溢れんばかりの花火が連続して打ちあがった。滝のように緩やかな流線を象って天の頂から流れるもの、百雷を想わせる激しさで細かく弾けて散るもの。あまりの華やかさにモリアすら歓声をあげたくなるほどだった。

 しかしながら空が明るければ明るいだけ、地上は影になるものだ。

 不意にアナスタシアが困惑して、あたりを見まわした。花火に気を取られているうちにウィリアムがいなくなったのだ。モリアも空を振り仰いでいるうちにウィリアムのことを見失ってしまっていた。ちかくに彼がいないとわかって、アナスタシアは青ざめると、悲鳴じみた声をあげて彼を捜しはじめた。頼りにしていた彼がいなくなっただけで彼女はおろおろとふらつき、目線までさだまらなくなっていった。

 彼はきっと特撮劇を観にいったに違いない。

 アナスタシアもおなじ考えにいきついたのか、劇がやっている橋のむこうに急いだ。人混みにまれたせいか、それとも動揺したからか。彼女は階段に差し掛かったところで背をまげて激しく咳こみはじめた。

 ちょうどその時だ。階段の真下がにわかに騒がしくなった。ひったくりだ──と誰かの声がして、女物の鞄を抱えた若い男がなりふり構わない様子で階段をあがってくる。男はあろうことか、邪魔だと怒鳴ってアナスタシアを突きとばした。もともとふらついていたアナスタシアは体勢を崩して足を踏みはずす。


「……っあ」


 モリアがとっさに階段を蹴り、彼女に手を伸ばす。助けを求めて差しだされたアナスタシアの腕をつかみかけたところで、モリアが後ろに強くひき寄せられた。

 アナスタシアが悲鳴をあげながら二十段もの階段を真っ逆さまに落ちていく。

 底まで落ちたとき、彼女の身体からはかなしいほどに軽い音がした。脚がぐちゃりとひしゃげて路上に拡がる。ひとつだけ、打ちあがり損ねた花火のように。


「シヤン……どうして」


 彼女を助けられたのに──息を巻いて振りかえるモリアを、青い双眸があざわらった。


「なぁに、あせっているんですか? 契約違反をしてもらってはこまりますよ、姫様」


 忘れていたわけじゃありませんよねえとシヤンにくぎを刺され、モリアはぎりっと唇をかみ締めた。

 そうだ。時計の針を巻きもどして刻を渡るのならば、他の時間軸でひとたびでも係わったものの《過去》に影響を及ぼしてはいけない。それが決まりだ。

 アナスタシアの死がよぎり、彼女はこの十五年後にいるのだと思いだす。だが彼女はいま、車椅子だ。この転落事故が要因だった。

 彼女のことが気に掛かったのか、劇を観ずに引きかえしてきたウィリアムが人だかりを押しのけながら走ってきた。胸騒ぎにかられるように事故現場を覗きこんだ彼はひずんだ絶叫をあげる。落ちていくときにけっきょく誰にもつかまれることのなかった腕を、いまさら彼はつかんで、鼻水まじりの後悔の涙を流し続けた。

 なぜ、ウィリアムがあれほどまでに掏摸に憎悪を燃やしたのか、わかった。それだけではない。彼の愛が何処から生まれたものなのかも、とげが刺さったような胸の痛みとともにモリアには理解できてしまった。

 そのとき、ぐにゃりと風景がねじれた。

 最後に聴こえたのはサイレンの音と、後悔に押しつぶされた少年の叫喚だった。

 時計の針がまわり、もとの時間軸を指す。青い時間の渦につつまれたモリアの鼓膜にふっと、変声期をすぎたばかりの少年の独白が横ぎった。


「護ってやるって、約束したのに。なんでちゃんと側にいてやらなかったんだ。ただでさえ身体が強くないのに。これから一生、車椅子だって。おれのせいだ。おれの。だからおれが、責任を、取らないと──」

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