二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(4)

 モリアがいった。重く、静かな響きをともなって。


「そのためにはまず彼を呼びださなければ。人狼はあなたを護るときにだけ、現れます。ちょっとばかり乱暴な手段を取ることになりますが、どうか許してください」


 そういうとモリアはおもむろに隠しもっていた剣を抜いた。

 細かな彫刻が施された銀製の剣だ。剣身は緩い曲線をかたどっている。そのかたちはどうしてか、死神の携える鎌を連想させた。モリアは剣を軽やかにまわして、アナスタシアの喉許に剣の先端を突きつける。アナスタシアが思わず悲鳴をあげかけたのがさきか──ランプの配線が火を噴き、室内のブレーカーがいっせいに落ちた。

 闇のなかで低い獣の呻り声があがる。──現れた。モリアが身構える暇もなく、人狼は闇の帳を破り、襲いかかってきた。

「っ……」モリアは椅子ごとはじきとばされ、板張りの床にたたきつけられた。

 背が弓なりになるほどの衝撃に一瞬、呼吸ができなくなる。きやしやな娘の身体はそれだけで骨が折れ、肺が破れてもおかしくはなかった。一拍遅れてあがったアナスタシアの悲鳴がやけに遠くに感じる。それでも気絶してはいられなかった。

 生臭い息がモリアの睫毛をさかでする。血に飢えた狼の眼がすぐ側に迫っていた。モリアは素早く剣を振りかざして、その牙に喉を喰い破られることを阻む。

 再びに雷が弾け、稲光のなかにそびえたつような人狼の全貌が浮かびあがった。牙を剝きだしにした大顎。筋骨で盛りあがった肩から背までの輪郭は、がんぺきとりでほう彿ふつとさせた。愛する人をまもるための砦だ。

 鍛えあげられた鋼の如き腕が振りおろされる。モリアが撲殺されると思われたそのとき、彼女の影がぬうと壁に延び、確かな輪郭をもって浮かびあがった。人狼が驚いたように動きをとめた。おそらくは感じ取ったのだ。すでに死に傾いているものの勘で──これはおそろしいものであることを。

 何者にも殺すことのできない死者にも、恐れるべきものはある。

 影のどんちようを振りほどいて、そこに美しい青年が立ち現れた。

 白い肌にからすのようにくらい髪。線の細い鼻筋から程よくとがった顎に到るまで完璧にかたちづくられたその貌は、水晶に彫りこんだ異境の神じみていた。細身に張りつくえんふくは新月の晩よりも黒い絹であつらえられている。常闇を従えるように彼は悠然と、地につまさきを落とした。

 ちかり──硬質な光を放って、青年のひとみが動いた。

 青だ。それは魂までもてつかせるような、底のない青だった。


「やってくれるじゃないですか、亡霊の分際で」


 青年は人狼にむけて腕を掲げ、指の先端から青い光の弾を放つ。銃弾でも無傷だった人狼が青い光に被弾した瞬間につんざくように絶叫する。輪郭をとどめられなくなり、いったん撤退を余儀なくされたのか、赤紫の霧がぶわりと拡がり暗闇に紛れていった。

 青年はため息をつくと柳眉をまげてモリアを振りかえる。


「ったく、むちゃなことをする姫様ですね。面倒をかけさせないでくださいよ」


 すでに身を起こしていたモリアは、彼の非難にふわりと唇の端を持ちあげた。


「だってあなたが助けてくれるでしょう、シヤン」


 薔薇が咲き綻ぶような。な少女のきようまんを匂わせた微笑だった。

 シヤンと呼びかけられた青年はあきれたとばかりに肩を竦めたが、えて否定せずに頷いてみせた。


「ええ、そうですよ。俺は貴女あなたの従僕ですからねえ」


 彼は貴族がするように右脚を後ろにひいて頭をさげた。ずいぶんと芝居掛かった身振りだが、類まれな美貌を備えた彼ならば様になる。

 モリアは服のすそをはたいてから、華奢な背をりんと張った。ぜんとたたずむ娘の背後にシヤンがつく。彼女に服従していることを表すように。

 まずはあかりを──とモリアにうながされ、シヤンが指を鳴らせば、ショップのなかにならべられていた古びたしよくだいに火がともった。あかりを受けてふたりの姿がくっきりと浮かびあがる。ありえないことの連続にあっけに取られ、茫然としていたアナスタシアが震えながらモリアの胸を指さす。狼の爪で服が裂け、はだけている。


「あ、あ……あなた、それ……」

「あぁ、これですか」


 シヤンが唇を歪ませるようにつりあげた。

 彼は後ろからモリアの腰を抱き寄せると胸許に結ばれたリボンをするりとほどき、絹の綻びを横に拡げるようにひき裂いた。モリアは羞恥に堪えるようにきゅっと眉根を寄せながらも、じっとなされるがままになっている。

 裸の胸には娘にあるべき膨らみがなく──ただ、剝きだしのろつこつだけが、あった。

 鳥かごのような骨のあいまからは薔薇を想わせる青や紫、純白の花がこぼれんばかりに咲き誇っている。そのさまはあたかも告別の花を捧げた棺だった。心臓や肺は花に埋もれてしまっているのか。もとから収まっていないのか。


「どうですか? 彼女のほうが、よほどに死者みたいでしょう」


 彼は娘の細い顎をすくいあげるようにしてつかんだ。黒手袋の指に絡んだ銀糸の如き髪がさらりと、胸許に垂れる。紫がかったはなびらが微かにそよめいた。

 アナスタシアは言葉を絶し、ただ愕然と娘をみる。


「美しいとは想いませんか、ねえ?」


 心臓のない骸の胸。細い肋骨と咲きこぼれる花の群──。まるで悪夢だった。生と死の境界に縛られているような。

 ひどく異様だ。それでいて娘の姿は、息をのむほどに美しかった。

 滅びを想起させるものは時に強く人をきつける。おそろしいから美しいのか、美しいからおそろしいのかはわからずとも。


「美しいはずがないわ。それでもこれは、わたしがえらんだことよ」


 モリアは従者のらちな指を振りはらい、暗がりに向かってひとつ、踏みだす。

 部屋の隅で散り散りになっていた赤紫の霧がかたまりはじめていた。それはぼこぼこと脈動を繰りかえしながら、また狼の姿を取ろうとしている。

 娘は祈りでも唱えるように亡霊へと声を掛けた。


「愛する人をまもれなくて、とても、とても無念だったでしょうね……」


 言葉だけではなく、相手の悔恨にこころから寄り添うように。


「それでも、どれだけ悲しくともあなたは、死んだのよ」


 死者は眠るべきだ。

 それが生者のおごりにすぎなくとも、彼女はそのことわりを振りかざす。どうか安かれと。

 人狼は牙を喰いしばり、その言葉を拒絶するように呻った。亡霊となったその顔つきに彼が人間だった頃の面影はない。真横に裂けた顎からは舌が垂れ、真っ赤な獣の眼が爛々と輝いている。

 彼は、強くなりたかったのだ。愛する妻のために。

 それはわかる。けれどもほんとうにたったそれだけで、狼にならずにいられないほどの、強い後悔を遺すだろうか。


「あなたはなぜ、死してなお死に到れなかったのかしら」


 鈴のような調べを奏でて、モリアが人狼にただす。人狼は黙して語らない。


「そう……ならば、確かめさせて」


 モリアが振りかえるまでもなく、シヤンは彼女の意にそって動いていた。しゃらりと鎖をしならせ、彼は絹のジャケットから古びた懐中時計を取りだす。透かし彫りのちようの意匠が蓋に施された銀時計だ。弾けるように蓋がひらかれる。星の描かれた文字盤には九つの針がついていた。明らかに時間を計るものではない。


「時計よ、時計。彼の死者の魂を縛りつけるそのときに、わたしを導いてちょうだい」


 時が進むごとに人は死に向かっていく。時間とはすなわち、死神である。時が命を死に進ませるのだ。故に死に到れない由縁はその者の生きた時間のなかにこそ、刻まれるものだ。生と死は永遠のあわせ鏡なのだから。

 モリアの詠唱に従い、九の針がばらばらにまわりだす。針はそれぞれ、年月日、時分秒、緯度経度、方角を表している。右まわりに急回転するものもあれば、左にかちかちと時を刻むものもあった。まわりの風景が時計に吸いこまれるようにして歪んだ。アナスタシアの困惑した叫び声までもが遠ざかっていく。

 くして彼女は、死者の時に遡る。


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