二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(3)



 取り調べが終わり、アナスタシアが帰ってきたのは午後十一時をすぎた頃だった。

 真昼とは打ってかわって人通りの絶えた舗道に落ちる建物の角張った影は物寂しさを漂わせている。


「ごきげんよう」


 夜の帳を破ってモリアが声を掛けると、アナスタシアは驚いたように振りかえる。だが睫毛の重さに堪えかねるようにアナスタシアはすぐに瞳を細めた。隠しきれない疲れが滲んでいた。


「例の人狼はあなたの旦那様だったのですね」


 哀傷をいたわるように、かといって言葉を濁すことなくモリアはいった。

 アナスタシアが瞳を見張る。またたくうちに瞳が潤んで、下睫毛の際からしずくがこぼれた。ごめんなさいといいながら、彼女は涙をふき取る。常識では理解できない事態に見舞われて、積み重なっていた疲れがせきをきって溢れだしたのだ。


「あなたは……なにかご存知なのですか。だったらどうか教えて。彼はいったい、どうなってしまったの……なんでこんなおそろしいことに」


 夫は確かに死んだはずだ。それがなぜ、あんなかたちで甦り殺人を犯すのか。


「非常におつらいことですが、あなたの旦那様は亡霊となってしまわれたのですよ」


 亡霊──とアナスタシアはつぶやいた。

 声がこわっている。当然だ。人狼に亡霊。それらは恐怖を娯楽とする際に空想するものであって、現実の日常を侵すものではなかった。されどもすでに彼女の現実は崩壊した。アナスタシア自身もそれを理解している。

 人狼の素姓を言いあてられたとき、彼女の瞳にはかすかなあんがよぎった。ああ、やっとこの事態を理解してくれる人が現れた。助けてくれるに違いないと。


「モリアさん……といったわよね、あなたはいったい」

「わたしは死に到れなかった死者を葬るものです。かならずやご夫妻の御力になれます」


 モリアは刺繡に飾られた服のすそをつまみ、綺麗な辞儀をして微笑む。最後だけは睫毛をふせ、底のない憂いを漂わせて。

「悲しいけれど」

 風が吹きつけてきた。遠くから漂ってきたマメナシの香りは何処となくなまぐさく、狼の呼吸を想わせた。





 昔の話をしてもいいかしらとアナスタシアはいった。

 趣のある猫脚のテーブルをはさんで、アナスタシアとモリアは向かいあわせにすわっていた。テーブルにはきのこを模したエミール・ガレのランプが飾られている。暖かみのあるあかりがコーヒーにミルクをまぜこむように緩く影をかす。はくを想わせるカメオ彫りの硝子には躍動感に満ちた蜻蛉とんぼの群が描かれていた。あるがままの生の躍動と、その裏にある死を愛したガレの思いが時を経てもせることなく残されている。

 柔らかなあかりのなかに浮かびあがるアナスタシアの頰は、ひどくやつれていた。誰にもいえない恐怖を胸のうちにかかえ、不安を募らせてきたことがわかる。乾いた唇をすぼませ、僅かに濡らしてから、アナスタシアはぽつぽつと喋りだす。


「ウルフガルドという特撮映画があってね、人狼が、登場するのだけれど、他の映画と違って彼は正義の味方なの。愛する人を護って悪の組織と戦うのよ。それがとっても格好よくて。子どもの頃に彼と一緒に夢中でてた。さっきはリメイク版の映画を観にでかけていたのよ。なんだか懐かしくてね。それがこんなことになるなんて」


 アナスタシアが鼻をすする。目蓋はうっすらとだが、腫れていた。そばかすを隠すためか、ちょっとばかり厚めに重ねていたファンデーションが取れて三十歳前後にしては幼げな素顔が表れている。モリアは黙ってところどころで頷き、聞きに徹していた。


「私は幼い頃から病弱で、ちょっとはしゃぐとすぐに体調を崩してしまうから家にこもりきりだったの。学校にいくようになってからも風邪をひいたり発作がひどくなったりしてはおやすみばかりで、友達ができなくて、いじめられたりもしたのだけれど、いつも彼がかばってくれた」

「それが旦那様だったのですか」

「ええ、ウィリアム……というのだけれど、彼はお隣さんで同い年だったのにしっかりとしていてね、私は彼の後ろばかりついてまわっていたわ。私みたいな子どもになつかれて面倒だったはずなのに、それでも彼は優しくて。いざという時に私をまもれるようにといって、中学生の頃から格闘技を習いにいったりしてくれたのよ」


 ウィリアムについて語るアナスタシアの声は何処となく弾んでいた。仔犬が飼い主の脚にまとわりつくような、そんな姿がありありと頭に浮かぶ。実際そんなふうに彼女は愛する人の背を慕い続けてきたのだろう。


「私にとってのヒーローは昔からずっと、彼だった」


 頼れる者がいるということは幸福だ。

 しかしながら、その幸福は前触れもなく崩れ去った。彼の、死によって。


「ほんとうに優しい人だったの、それなのに……どうしてこんなことに。犯罪者だからって人を殺すような、おそろしいことをする人じゃなかったのよ」


 モリアは充分な沈黙を経て、言葉を挿んだ。


「生きている者は行動する際に様々なことをてんびんに掛けます。倫理にのつとって選択したり、よくも悪くも利害という値で計算をしたり。けれども死者はたったひとつの望みを遂げるためだけに動きます。あなたを、まもりたかった。おそらくはその強すぎる想いが、彼を亡霊にしてしまった」


 扉にはめこまれた青みがかった硝子がかたかたと軋んだ。アナスタシアが身震いする。すきま風のせいか、暖房のない部屋のなかはうすら寒い。


「亡霊とは死に到れなかった魂のことです。魂とは血とおなじく、わたしたちの身体の隅々まで流動しているもの。生きているかぎり、魂はこの身を流れ続けています。死を迎えると魂は肉体から解き放たれます。その後の魂が何処に向かうのかはわたしにはわかりません。地獄に落ちるのか、約束の地に向かうのか、りんをたどるのか。ひとつだけ確かなことは死が滞るとその魂はかならず、亡霊になってしまうということです」


 あわれむようにモリアは睫毛をふせる。


「死の滞るわけはそれぞれにありますが、旦那様が後悔なさっているのは他でもなくあなたのことです」


 愛する妻をひとりにしてしまった、その後悔。だがそれだけではないと彼女は続けた。


「ほとんどのものは愛する人をのこして死に逝きます。未練のない別れなどありません。旦那様があのようなかたちになったのには他にわけがあるはず」


 想いが強すぎるのだ。もはや愛執といえるほどに。


「なにか、心あたりはありませんか」


 アナスタシアの瞳孔のなかでざわりと、不安の影が渦を巻いた。ぞうがん細工の天板に刻まれた細かな傷をなぞるように、彼女はせわしなく目線を動かす。

 なにか、あるのだ。彼女が認めたくないなにかが。


「その……きっと、私が悪いのだわ」


 彼女は不自然に頰を強張らせた。笑おうとして失敗したようなひきつれかただった。


「葬儀のときにひどいわがままを、いってしまったの。護ってくれると約束したのに、また約束を破るの……なんて。あんなことをいうつもりは、なかったのに。だってあまりにも突然で。あの人の死を受けいれられなくて」


 こころにもない恨み言を投げつけてしまったのだと、アナスタシアは後悔をこぼす。


「強盗が殺されたときは……ごめんなさい、不謹慎だとわかっているのだけれど、ちょっとだけうれしかったのよ。ああ、彼が護ってくれたんだって。約束どおり、これからも護ってくれるんだって。人が殺されたのにひどいわよね……けれども後になってこわくなったの。強盗とはいえ、彼が、人を喰い殺したなんて」


 だが実際に人狼が強盗を殺していなければ、アナスタシアはどうなっていたかわからない。口封じのために殺されていたかもしれなかったのだ。けれど掏摸の事件はそうではない。掏摸は鞄を盗んだが、アナスタシアそのものに危害を加えるつもりはなかった。報復にしても殺すのはあまりにもいきすぎだ。


「旦那様の未練はなくなるどころか、ますますに強くなってきています。このままでは取りかえしのつかないことになってしまう。それはあなたにとっても、彼にとっても、望ましいことではないはずです」

「どうすれば、彼をとめられるの」


 すがるようにアナスタシアが車椅子から身を乗りだす。


「ひとつだけ、死に到れなかった死者を葬るすべがあります」

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