二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(3)
†
取り調べが終わり、アナスタシアが帰ってきたのは午後十一時をすぎた頃だった。
真昼とは打ってかわって人通りの絶えた舗道に落ちる建物の角張った影は物寂しさを漂わせている。
「ごきげんよう」
夜の帳を破ってモリアが声を掛けると、アナスタシアは驚いたように振りかえる。だが睫毛の重さに堪えかねるようにアナスタシアはすぐに瞳を細めた。隠しきれない疲れが滲んでいた。
「例の人狼はあなたの旦那様だったのですね」
哀傷をいたわるように、かといって言葉を濁すことなくモリアはいった。
アナスタシアが瞳を見張る。
「あなたは……なにかご存知なのですか。だったらどうか教えて。彼はいったい、どうなってしまったの……なんでこんなおそろしいことに」
夫は確かに死んだはずだ。それがなぜ、あんなかたちで甦り殺人を犯すのか。
「非常におつらいことですが、あなたの旦那様は亡霊となってしまわれたのですよ」
亡霊──とアナスタシアはつぶやいた。
声が
人狼の素姓を言いあてられたとき、彼女の瞳には
「モリアさん……といったわよね、あなたはいったい」
「わたしは死に到れなかった死者を葬るものです。かならずやご夫妻の御力になれます」
モリアは刺繡に飾られた服のすそをつまみ、綺麗な辞儀をして微笑む。最後だけは睫毛をふせ、底のない憂いを漂わせて。
「悲しいけれど」
風が吹きつけてきた。遠くから漂ってきたマメナシの香りは何処となくなまぐさく、狼の呼吸を想わせた。
†
昔の話をしてもいいかしらとアナスタシアはいった。
趣のある猫脚のテーブルをはさんで、アナスタシアとモリアは向かいあわせにすわっていた。テーブルには
柔らかなあかりのなかに浮かびあがるアナスタシアの頰は、ひどくやつれていた。誰にもいえない恐怖を胸のうちにかかえ、不安を募らせてきたことがわかる。乾いた唇をすぼませ、僅かに濡らしてから、アナスタシアはぽつぽつと喋りだす。
「ウルフガルドという特撮映画があってね、人狼が、登場するのだけれど、他の映画と違って彼は正義の味方なの。愛する人を護って悪の組織と戦うのよ。それがとっても格好よくて。子どもの頃に彼と一緒に夢中で
アナスタシアが鼻を
「私は幼い頃から病弱で、ちょっとはしゃぐとすぐに体調を崩してしまうから家にこもりきりだったの。学校にいくようになってからも風邪をひいたり発作がひどくなったりしてはおやすみばかりで、友達ができなくて、いじめられたりもしたのだけれど、いつも彼がかばってくれた」
「それが旦那様だったのですか」
「ええ、ウィリアム……というのだけれど、彼はお隣さんで同い年だったのにしっかりとしていてね、私は彼の後ろばかりついてまわっていたわ。私みたいな子どもになつかれて面倒だったはずなのに、それでも彼は優しくて。いざという時に私をまもれるようにといって、中学生の頃から格闘技を習いにいったりしてくれたのよ」
ウィリアムについて語るアナスタシアの声は何処となく弾んでいた。仔犬が飼い主の脚にまとわりつくような、そんな姿がありありと頭に浮かぶ。実際そんなふうに彼女は愛する人の背を慕い続けてきたのだろう。
「私にとってのヒーローは昔からずっと、彼だった」
頼れる者がいるということは幸福だ。
しかしながら、その幸福は前触れもなく崩れ去った。彼の、死によって。
「ほんとうに優しい人だったの、それなのに……どうしてこんなことに。犯罪者だからって人を殺すような、おそろしいことをする人じゃなかったのよ」
モリアは充分な沈黙を経て、言葉を挿んだ。
「生きている者は行動する際に様々なことを
扉にはめこまれた青みがかった硝子がかたかたと軋んだ。アナスタシアが身震いする。すきま風のせいか、暖房のない部屋のなかはうすら寒い。
「亡霊とは死に到れなかった魂のことです。魂とは血とおなじく、わたしたちの身体の隅々まで流動しているもの。生きているかぎり、魂はこの身を流れ続けています。死を迎えると魂は肉体から解き放たれます。その後の魂が何処に向かうのかはわたしにはわかりません。地獄に落ちるのか、約束の地に向かうのか、
「死の滞るわけはそれぞれにありますが、旦那様が後悔なさっているのは他でもなくあなたのことです」
愛する妻をひとりにしてしまった、その後悔。だがそれだけではないと彼女は続けた。
「ほとんどのものは愛する人を
想いが強すぎるのだ。もはや愛執といえるほどに。
「なにか、心あたりはありませんか」
アナスタシアの瞳孔のなかでざわりと、不安の影が渦を巻いた。
なにか、あるのだ。彼女が認めたくないなにかが。
「その……きっと、私が悪いのだわ」
彼女は不自然に頰を強張らせた。笑おうとして失敗したようなひきつれかただった。
「葬儀のときにひどいわがままを、いってしまったの。護ってくれると約束したのに、また約束を破るの……なんて。あんなことをいうつもりは、なかったのに。だってあまりにも突然で。あの人の死を受けいれられなくて」
こころにもない恨み言を投げつけてしまったのだと、アナスタシアは後悔をこぼす。
「強盗が殺されたときは……ごめんなさい、不謹慎だとわかっているのだけれど、ちょっとだけ
だが実際に人狼が強盗を殺していなければ、アナスタシアはどうなっていたかわからない。口封じのために殺されていたかもしれなかったのだ。けれど掏摸の事件はそうではない。掏摸は鞄を盗んだが、アナスタシアそのものに危害を加えるつもりはなかった。報復にしても殺すのはあまりにもいきすぎだ。
「旦那様の未練はなくなるどころか、ますますに強くなってきています。このままでは取りかえしのつかないことになってしまう。それはあなたにとっても、彼にとっても、望ましいことではないはずです」
「どうすれば、彼をとめられるの」
「ひとつだけ、死に到れなかった死者を葬るすべがあります」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます