二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(2)


 セントパトリック大聖堂──。

 大理石で築きあげた壁にごうしやな飾りを施したゴシックリヴァイヴァル様式の建築物は物々しく、それでいて何処か悲しげに高層ビルのあいまにたたずんでいた。窓にせんとうアーチ、何階層にも積みあげられた細い塔。壁からせりだした角のある柱から屋根の端を縁どる飾りに到るまでが美しく、美を究めることにほんの一瞬の怠慢も許さぬといった誇りに満ちている。

 その華やかさから現在では信仰の場としてだけではなく、観光地としても人気を誇っていた。だがいまは観光の賑わいは絶え、となくしめやかな雰囲気が漂っている。

 大聖堂の玄関階段には喪服の列が続いていた。なかで葬儀が行われているのだ。

 ハンカチを握り締めて泣きはらした瞳をしたものもいれば、いまだに故人の死を受けいれられないのか、うなれてぼんやりとしているものもいた。重厚な玄関扉はがいせんもんのような厳かさで国旗の掛かった棺を迎える。

 道路をはさんだ高層ビルの硝子張りの壁にもたれるようにして、ひとりの娘が葬儀の列を見つめていた。モリアだ。ゴシック調の青い服を纏った彼女は、新旧の建築物がならぶ町角にあって異様な雰囲気を漂わせていた。慌ただしい雑踏は特に娘を振りかえることもなく、通りすぎていく。他人の死を気にとめないのとおなじように。

「捜し物の手掛かりはつかめましたか、姫様」

 何処からともなく、声を掛けられた。硝子に映る娘の鏡映が延びて、上背のある影が浮かびあがる。細身の男だ。


「いいえ……おそらくは、はずれだわ。あそこには確かに思いの遺った骨董が集まっていたけれど、お父様の気配は感じ取れなかった。例の事件は捜し物とは無関係だわ」


 モリアがもう一度、さきほどの雑誌のページを取りだす。

 ここに書かれたあの事件が起こったのが、さきほど訪ねたアンティークショップであった。モリアが捜しているものと、なんらかの係わりがあるのではないかと疑っていたのだが、結果は空振りだった。


「だったら、こんな騒々しいところに用はないんじゃないですかねぇ」

「確かに賑やかね。めまいがするくらいに」


 細い肩をすぼめて笑いながら、モリアは排気ガスを吹かす車の渋滞を眺めた。

 通りのむこう側の信号機はまだ青にはならない。潮が満ちるように人々の行き交う横断歩道の白線は靴底とタイヤにけずられて、ところどころが擦りきれていた。それだけ人通りのある路地なのだ。舗道のアスファルトには吐きてられたガムが貼りつき、道ばたのゴミ箱からはスチール缶が溢れだしていた。しめやかな喪服の列とは真逆の、雑然としたけんそうだ。


「けれども、がいるわ。死してなお死にきれなかった死者が」


 どれほどいんしんを極めた都会でも、あたりまえのように死は、あるのだ。

 暇をもてあますようにふらふらと横に揺れていた影がとまり、僅かな沈黙の後でこらえきれないとばかりに背をまるめて笑いだす。


「いやあ、さすがは姫様、慈愛に満ち溢れていますねえ。くくく……ほんとに物好きというか。とっくに殺された死者のためにこんな面倒そうな事件に進んで巻きこまれていくんですから」


 あからさまに彼女を馬鹿にしている声の調子だ。たいするモリアの声は透きとおった水晶のように硬かった。


「死者のためではないわ。まして生者のためでも」


 葬列は終わり、大聖堂からは鎮魂のさんが響いてきた。硝子張りの高層ビルのあいまに旧いパイプオルガンの演奏が反響する。

 その調べにひとつ、祈りの語句でも乗せるかのようにモリアは続けた。


「わたしはただ、死者は等しく眠りにつくべきだと想うだけよ」





 タイムズスクエアは眠らない街だ。

 ひと昔前までは危険な地区とされていたこのあたりもいまでは観光地となり、華やかな賑わいをみせている。大規模な劇場や映画館などの娯楽施設がずらりとならび、横幅のある大通りだというのに、誰かとぶつかりながらでなければまともに進めないほど混雑していた。

 大都会にはたそがれは訪れない。きらびやかなネオンが地上を満たして夕焼けなどひと吞みにしてしまうからだ。のけぞるほどに振り仰いでようやっと、高層ビルに細く切り取られた空が視界に入ってくる。いっそのこと、日が暮れてからのほうが昼よりもまぶしかった。

 地上二十階建ての高層ビルの壁にあるビルボードでは、一流デザイナーの奇抜な服を纏ったモデルが都会の人の群を蹴散らすようにピンヒールのかかとを振りおろしている。その隣にある大型ビジョンには現在上映中の映画の宣伝がながれ、赤いマントをつけたおおかみ姿のヒーローがヒロインを抱き締めながらほうこうをあげていた。

 群衆のあいまを縫うようにすりぬけ、世界の交差点ともいわれる大通りをあてもなく彷徨さまよいながら、モリアはこの街が経てきた時間を想像する。

 時間とはあしもとにあるものだ。いま、青い革靴の踵を落としたそのアスファルトの底に、時は埋めたてられている。先住民族の墓を踏みならし、貿易のために大陸から渡ってきた多様な民族の骨を折り重ねて、この大都会は築かれた。

 時とはすなわち、死だ。

 死者は地に眠る。魂が天に導かれようが地獄に落ちようが、骸は等しく土に横たわる。死とは平等に巡るものだ。征服されたものも征服したものも、誰もが最後には死に到る。富めるものも貧しきものも息絶えれば平等に朽ちるのだ。地上に命が息づくかぎり、死は生者の足許にあり続けるのかもしれない。なればこそ、人は絶えず他者の死を踏みつけているともいえる。いまこの瞬間に日暮れの交差点に溢れかえる人の群もまた。


「あら……あれは」


 モリアは人混みのなかに見覚えのある車椅子を見つけた。ひとつにまとめて編みこんだブロンズのおさげにそばかすの散った頰。黄緑のスヌードを首もとに巻いて、小さなかばんを膝に掛けている。あのアンティークショップの、アナスタシアだ。

 想像を超える混雑ぶりに気分が悪くなってしまったのか、道の端に車輪を寄せて動けなくなっている。声を掛けようとモリアは歩道を渡り近寄った。

 そのときだ。アナスタシアが不意に悲鳴をあげた。女物の鞄をつかんだ若者が乱暴に人だかりをきわけながら息をきらして逃げていく。だ。

 ──誰か助けてと叫んだアナスタシアの声は都会のけんそうに吞まれた。モリアがとっさに掏摸を追いかけようとしたのがさきか、掏摸が前のめりにつんのめって倒れる。帽子を被った掏摸の頭が人の垣に埋もれた。急ぎすぎてアスファルトの段差にでも蹴つまずいたのだろうか。やっとのことで人のあいまから掏摸の姿を捉えたモリアは瞳を見張った。

 赤紫がかった霧の塊のようなものが、掏摸の背に重く覆いかぶさっていた。

 モリアはその霧に覚えがあった。アンティークショップの鏡に映りこんでいたものだ。あのときは無害だったその霧は、いまは殺意を漲らせている。

 霧はぐにゃりと歪んで、鋭い牙のならんだ大顎をかたどると掏摸の肩にがぶりと喰らいついた。掏摸の若者がひきつれた叫びをあげる。同時に血しぶきが噴きあがった。

 慌ただしい都会の人間もこれにはいったい何ごとだと驚いて振りかえる。群衆の視線がいっせいに集まったところで放物線をえがいて鞄が路上に落ちてきた。鞄にが、ぶらさがっている。

 若者の、腕だった。胴体からもぎとられた腕が何度かバウンドして、車道に転がった。溢れた血潮がアスファルトに拡がり、白線を赤にぬり替えていく。


「ひっ……きゃあああああああ」


 一瞬の沈黙を経て、誰からともなく絶叫をあげ、逃げだした。

 魚の群に石を投じたかのように賑やかだった町は恐慌に陥る。歩道だけではなく車道を無理やりに突っ切って逃げるものもおり、事態を知らない運転手の怒号とクラクションとがあちらこちらであがる。逃げだす群衆に押され車椅子から転落したアナスタシアは、動かない脚をひきずりながら身を起こし、悲痛な声をあげて誰かに訴え続けていた。


「いやっ、なんで……そこまですることないわ! ねぇ、お願いやめて!」


 赤紫の霧の塊はぼこぼこと沸きたつように脈動しながら膨らみ、狼の形態を取った。

 血に飢え、ぎらぎらと野蛮に輝く赤いに、頭頂からとがって突きだした獣の耳。裂けた顎には獲物をかみちぎり喰らうための牙がならび、粘りけのあるよだれが滴っている。剛い毛で覆われた隆々たるきよは人の身のたけをゆうに超えていた。

 だがあれはただの狼ではない──人狼だ。

 その証拠に狼は、ふたつの脚でアスファルトを踏み締めている。腕はごつごつと骨張り獣の毛に覆われているが、獣にしては異様に長い五指が備わっており、もとは人間であったことを表していた。

 人狼が遠えをあげる。荒々しくも苦痛をにじませた咆哮だ。

 音波にさらされ、硝子張りの高層ビルが細かく振動する。逃げ遅れた人々は頭をかかえ、うずくまった。モリアもあまりの音響に眩暈めまいを覚え、耳をおさえて歯を食いしばる。人狼の踏み締めたアスファルトに亀裂が入り、地をうように電がさくれつした。

 ばちんと、タイムズスクエア一帯の電気がダウンする。

 停電だ。光の氾濫のようなネオンもいっせいに絶え、入れ替わるようにずうんと確かな重さをもって夕焼けが落ちてきた。

 電光の絶えたタイムズスクエアのどまんなかにたたずむ人狼はひとしきり吼えてから、再びに牙をき、掏摸の若者の喉にかみついた。

 掏摸があげた絶叫はぶつんと、狼のあぎとに砕かれて途絶える。

 気絶しかけていたアナスタシアが頭を振りみだし、奇声をあげた。精神に負荷が掛かりすぎたのか、激しいせきがせりあがってきて彼女は身体からだを折りまげる。パールベージュのネイルが施された爪を頰に食いこませ、がたがたと震えながら、それでも彼女は惨劇から視線を剝がせずにいた。人狼はとうに動かなくなった掏摸をしつようにひき裂き続けている。やり場のない怒りと飢えをぶつけるように。


「やめて……ね、お願いよ、どうか」


 アナスタシアはせながら息も絶え絶えにそればかりを繰りかえす。

 彼女の言動にモリアは、強い違和感をいだいた。あれは怪物だ。常識の域から遠く離れた──なのにアナスタシアの言葉からは、親しい誰かを制するような響きがあった。下顎を真っ赤にらした狼は、懇願するアナスタシアを振りかえり、低くうなりをあげる。どうか、みてくれるなといわんばかりに。


 ──アナスタシアは、あの人狼の素姓を知っている。


 サイレンが響いてきた。通報を受けてかけつけてきた警察官は、血潮にまみれた人狼をみて、とっさにパトカーの窓から銃を撃つ。

 銃弾が人狼の腹を貫通した。アナスタシアが絶叫する。だが人狼はよろめきもしなかった。銃弾は人狼をすり抜けてアスファルトの表をえぐる。

 なる武器をもってしてもは殺せない。すでに死んでいるものだからだ。

 アスファルトを蹴りつけ、人狼が車道に突進していく。パトカーは煙を噴きあげて急後退するが、人狼のほうがはるかに機敏だ。されど人狼が警察官に襲いかかることは、なかった。人狼はパトカーのルーフを踏みつけ、なかで震えあがっている警察官を無視して、車を足掛かりにビルの壁をけあがる。停電するまで狼のヒーローが映しだされていたディスプレイを踏みくだいて、人狼はやすやすと隣のビルに跳び移ると、黄昏で陰る摩天楼の彼方かなたに姿をくらませた。

 復旧したネオンがいっせいに点り、夕焼けが遠ざかった。人狼が他の者に危害をおよぼすようならばすぐに動くつもりで構えていたモリアは、なおも人狼の向かった方角をにらみ続けていたが、完全に気配がなくなったのを確かめてふっと緊張を緩めた。

 パトカーから二人組の警察官がよろよろと降りてきた。常識の範疇からはずれた異常事態にまったく理解が追いついていないのが、力のない肩つきから窺える。警察官たちはみちばたにうずくまっていたアナスタシアをみて顔を見あわせ、ますますに青ざめた。おそらくは、例の事件を思いだしたのだ。

 アナスタシアは事件現場にいた重要参考人としてパトカーに乗せられていったが、証拠もないため、今晩のうちに釈放されるだろう。

 誰もいなくなった世界の交差点に青の娘だけがぽつんと、たたずんでいた。

 彼女は絶えず境界線上にいる。幻想は彼女の現実だ。逆も然り。異常な事態にも動じることなく、細かなピースを組みあわせ、ひとつの解を導きだしていた。


「そう。そうだったのね、あの人狼は──」


 アンティークショップを訪れて喋ったときから、モリアはアナスタシアがなにかを隠していることに気づいていた。例の強盗殺害事件は実に不可解だ。ニュース雑誌の記事によれば、現場には犯人の指紋が残されていた。だが指紋鑑定の結果は公表されなかった。そこにあってはならない指紋だったからだ。それを認めることは、非現実の肯定になる。人類が築きあげてきた概念の崩壊だ。

 故に警察は早々に捜査を打ちきった。


「────彼女の旦那様だわ」


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