二十一世紀の人狼は眠らない AD2003 New York(2)
†
セントパトリック大聖堂──。
大理石で築きあげた壁に
その華やかさから現在では信仰の場としてだけではなく、観光地としても人気を誇っていた。だがいまは観光の賑わいは絶え、
大聖堂の玄関階段には喪服の列が続いていた。なかで葬儀が行われているのだ。
ハンカチを握り締めて泣きはらした瞳をしたものもいれば、いまだに故人の死を受けいれられないのか、
道路を
「捜し物の手掛かりはつかめましたか、姫様」
何処からともなく、声を掛けられた。硝子に映る娘の鏡映が延びて、上背のある影が浮かびあがる。細身の男だ。
「いいえ……おそらくは、はずれだわ。あそこには確かに思いの遺った骨董が集まっていたけれど、お父様の気配は感じ取れなかった。例の事件は捜し物とは無関係だわ」
モリアがもう一度、さきほどの雑誌の
ここに書かれたあの事件が起こったのが、さきほど訪ねたアンティークショップであった。モリアが捜しているものと、なんらかの係わりがあるのではないかと疑っていたのだが、結果は空振りだった。
「だったら、こんな騒々しいところに用はないんじゃないですかねぇ」
「確かに賑やかね。めまいがするくらいに」
細い肩をすぼめて笑いながら、モリアは排気ガスを吹かす車の渋滞を眺めた。
通りのむこう側の信号機はまだ青にはならない。潮が満ちるように人々の行き交う横断歩道の白線は靴底とタイヤにけずられて、ところどころが擦りきれていた。それだけ人通りのある路地なのだ。舗道のアスファルトには吐き
「けれども、死者がいるわ。死してなお死にきれなかった死者が」
どれほど
暇をもてあますようにふらふらと横に揺れていた影がとまり、僅かな沈黙の後でこらえきれないとばかりに背をまるめて笑いだす。
「いやあ、さすがは姫様、慈愛に満ち溢れていますねえ。くくく……ほんとに物好きというか。とっくに殺された死者のためにこんな面倒そうな事件に進んで巻きこまれていくんですから」
あからさまに彼女を馬鹿にしている声の調子だ。たいするモリアの声は透きとおった水晶のように硬かった。
「死者のためではないわ。まして生者のためでも」
葬列は終わり、大聖堂からは鎮魂の
その調べにひとつ、祈りの語句でも乗せるかのようにモリアは続けた。
「わたしはただ、死者は等しく眠りにつくべきだと想うだけよ」
†
タイムズスクエアは眠らない街だ。
ひと昔前までは危険な地区とされていたこのあたりもいまでは観光地となり、華やかな賑わいをみせている。大規模な劇場や映画館などの娯楽施設がずらりとならび、横幅のある大通りだというのに、誰かとぶつかりながらでなければまともに進めないほど混雑していた。
大都会には
地上二十階建ての高層ビルの壁にあるビルボードでは、一流デザイナーの奇抜な服を纏ったモデルが都会の人の群を蹴散らすようにピンヒールの
群衆のあいまを縫うようにすりぬけ、世界の交差点ともいわれる大通りをあてもなく
時間とは
時とはすなわち、死だ。
死者は地に眠る。魂が天に導かれようが地獄に落ちようが、骸は等しく土に横たわる。死とは平等に巡るものだ。征服されたものも征服したものも、誰もが最後には死に到る。富めるものも貧しきものも息絶えれば平等に朽ちるのだ。地上に命が息づくかぎり、死は生者の足許にあり続けるのかもしれない。なればこそ、人は絶えず他者の死を踏みつけているともいえる。いまこの瞬間に日暮れの交差点に溢れかえる人の群もまた。
「あら……あれは」
モリアは人混みのなかに見覚えのある車椅子を見つけた。ひとつにまとめて編みこんだブロンズのおさげにそばかすの散った頰。黄緑のスヌードを首
想像を超える混雑ぶりに気分が悪くなってしまったのか、道の端に車輪を寄せて動けなくなっている。声を掛けようとモリアは歩道を渡り近寄った。
そのときだ。アナスタシアが不意に悲鳴をあげた。女物の鞄をつかんだ若者が乱暴に人だかりを
──誰か助けてと叫んだアナスタシアの声は都会の
赤紫がかった霧の塊のようなものが、掏摸の背に重く覆いかぶさっていた。
モリアはその霧に覚えがあった。アンティークショップの鏡に映りこんでいたものだ。あのときは無害だったその霧は、いまは殺意を漲らせている。
霧はぐにゃりと歪んで、鋭い牙のならんだ大顎をかたどると掏摸の肩にがぶりと喰らいついた。掏摸の若者がひきつれた叫びをあげる。同時に血しぶきが噴きあがった。
慌ただしい都会の人間もこれにはいったい何ごとだと驚いて振りかえる。群衆の視線がいっせいに集まったところで放物線を
若者の、腕だった。胴体からもぎとられた腕が何度かバウンドして、車道に転がった。溢れた血潮がアスファルトに拡がり、白線を赤にぬり替えていく。
「ひっ……きゃあああああああ」
一瞬の沈黙を経て、誰からともなく絶叫をあげ、逃げだした。
魚の群に石を投じたかのように賑やかだった町は恐慌に陥る。歩道だけではなく車道を無理やりに突っ切って逃げるものもおり、事態を知らない運転手の怒号とクラクションとがあちらこちらであがる。逃げだす群衆に押され車椅子から転落したアナスタシアは、動かない脚をひきずりながら身を起こし、悲痛な声をあげて誰かに訴え続けていた。
「いやっ、なんで……そこまですることないわ! ねぇ、お願いやめて!」
赤紫の霧の塊はぼこぼこと沸きたつように脈動しながら膨らみ、狼の形態を取った。
血に飢え、ぎらぎらと野蛮に輝く赤い
だがあれはただの狼ではない──人狼だ。
その証拠に狼は、ふたつの脚でアスファルトを踏み締めている。腕はごつごつと骨張り獣の毛に覆われているが、獣にしては異様に長い五指が備わっており、もとは人間であったことを表していた。
人狼が遠
音波に
ばちんと、タイムズスクエア一帯の電気がダウンする。
停電だ。光の氾濫のようなネオンもいっせいに絶え、入れ替わるようにずうんと確かな重さをもって夕焼けが落ちてきた。
電光の絶えたタイムズスクエアのど
掏摸があげた絶叫はぶつんと、狼の
気絶しかけていたアナスタシアが頭を振りみだし、奇声をあげた。精神に負荷が掛かりすぎたのか、激しい
「やめて……ね、お願いよ、どうか」
アナスタシアは
彼女の言動にモリアは、強い違和感を
──アナスタシアは、あの人狼の素姓を知っている。
サイレンが響いてきた。通報を受けてかけつけてきた警察官は、血潮にまみれた人狼をみて、とっさにパトカーの窓から銃を撃つ。
銃弾が人狼の腹を貫通した。アナスタシアが絶叫する。だが人狼はよろめきもしなかった。銃弾は人狼をすり抜けてアスファルトの表を
アスファルトを蹴りつけ、人狼が車道に突進していく。パトカーは煙を噴きあげて急後退するが、人狼のほうが
復旧したネオンがいっせいに点り、夕焼けが遠ざかった。人狼が他の者に危害をおよぼすようならばすぐに動くつもりで構えていたモリアは、なおも人狼の向かった方角を
パトカーから二人組の警察官がよろよろと降りてきた。常識の範疇からはずれた異常事態にまったく理解が追いついていないのが、力のない肩つきから窺える。警察官たちは
アナスタシアは事件現場にいた重要参考人としてパトカーに乗せられていったが、証拠もないため、今晩のうちに釈放されるだろう。
誰もいなくなった世界の交差点に青の娘だけがぽつんと、たたずんでいた。
彼女は絶えず境界線上にいる。幻想は彼女の現実だ。逆も然り。異常な事態にも動じることなく、細かなピースを組みあわせ、ひとつの解を導きだしていた。
「そう。そうだったのね、あの人狼は──」
アンティークショップを訪れて喋ったときから、モリアはアナスタシアがなにかを隠していることに気づいていた。例の強盗殺害事件は実に不可解だ。ニュース雑誌の記事によれば、現場には犯人の指紋が残されていた。だが指紋鑑定の結果は公表されなかった。そこにあってはならない指紋だったからだ。それを認めることは、非現実の肯定になる。人類が築きあげてきた概念の崩壊だ。
故に警察は早々に捜査を打ちきった。
「────彼女の旦那様だわ」
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