就職内定がひとつも取れなかった俺の末路。

403μぐらむ

第X話

「ありがとうございました。また来年もよろしくおねがいします。では失礼します」

 得意先への納品と年末の挨拶を終えて一人会社の営業車に乗り込む。


 エンジンを掛けて一息つく。

 

 俺は二〇年落ちのこの車がスクラップになるわけでもなく健気に働いている姿を自分に重ねてみるとどうにもこうにも落ち着きがなくなる。この先歳をとってもこの会社で俺は使い古されていくのかと考えるとやや気が重くなるからなんだよ。


 

 俺、藤富宣治ふじとみせんじがこの会社に就職したのは今から八年前。大学四年の一二月になっても内定が一件もなく、このまま就職浪人かもう一年間学生を繰り返すかの瀬戸際に立っていたんだ。どっちに転んでも闇しかなかったわけで。


 どっちにするか決めかねていたところに転がり込んだのが今の会社の就職内定。景気が良くなったらすぐ転職するつもりだったのに気がついたら八年も過ぎて、あと三日、この年末には俺も三〇歳の大台に乗ってしまう。うだつが上がらないとは俺のことかと気分もお寒くなるってもの。


「ここ一〇年は毎年一人だな……」


 親からは毎年、米などの食料品と二~三行の簡単な手紙が誕生日には送られていている。誕生日プレゼントらしいが、実用品とはね。実にありがたいんだけど……。


 対する俺は、就職してからは盆も含め年末年始休みも三回しか帰省していない。

 なぜかって?


 昔の知り合いに会いたくないから。


 こんな惨めな姿は見せられないよ。


 俺の故郷はここよりも更に田舎だからか、中高の同級生なんかみんなやることがないんだかどいつもこいつも男も女も結婚して子持ちだ。三〇にもなって恋人もおらず独り身なんて肩身の狭い思いなんてわざわざしに行きたくはない。


 それが分かっているから親も俺には特になにも言ってこないんだよ。惨めだよな。




 一九時。次の納品がある会社に到着する。だいぶ遅れたが、こちらの会社の工場は三六五日二四時間稼働なので問題はない。

 それに今年はこれで納品はおしまいだ。俺はもう帰社せず直帰の予定。年始の五日まで家でごろごろするだけだ。営業車も自由に使えるけど行く宛がないので駐車場に置いておくだけだろう。



「さてと。今日は彼女はいるかな? って、今日は遅れたからさすがにもう帰ってしまったか」


 実はこの会社に俺のお気に入りの女の子がいる。一方的に俺が気に入っているだけでこれと言って会話らしい会話もしたことがないんだけどね。

 食品工場なので真っ白な作業着に髪の毛を全て覆う白い帽子。そこから見える顔には化粧っ気は殆どない。どちらかと言うと言葉少なめな地味な娘という印象をうけるかもしれない。

 でも長いまつげに大きな黒瞳、可愛らしい鼻に少し薄めな唇。決して太っているわけではないのにぷっくりと可愛らしい頬に俺は一発でやられてしまった。


 背はたぶん一六〇センチに届かないほど、スタイルなんかは残念ながらだぶついた作業着のせいで全くわからない。


 名前は佐伯さん。

 それしかわからない。


 それだって受領書のハンコに『佐伯』と書かれるので知っているぐらいだ。

 ここ半年ばかりは、ほぼ佐伯さんが俺の納品を受け付けてくれる。

 他の人が居ても必ず佐伯さんがわざわざ来てくれるので『もしかして俺のことが』なんて思うのはアラサーおじさんの悲しい性なのかな?


「こんばんは。スズキ商事の藤富です。納品に伺いました」

 段ボール箱四つをカートに乗せて工場事務所の扉をくぐる。


「おう、藤富くん。仕事納めなのに今日は遅かったね。愛しの彼女はもう帰ってしまったぞ?」

 そう俺のことを揶揄って来たのはこの会社の生産課長の太田さん。


 やっぱり帰ってしまったか……。事務所には課長一人しか居なかった。


「なんだよ。そんなにあからさまにがっかりしないでくれよ。はい、受領書のお返しっと」

「やめてくださいよ、太田課長。そんなんじゃないですから」


 この太田課長は俺の思いに気づいてしまった、気づかれてしまった人だ。


「大丈夫だよ。僕は何も言わないから。色恋沙汰はセクハラ案件になるからさ。僕だって自分の身が一番大事だからね」


「あっ、はい、ありがとうございます。また来年も、よろしくおねがいします」

 受領書を受け取った時点で今年の仕事は終わり……じゃなかった。日報を書かないと。



 とぼとぼと工場の駐車場に停めた営業車のもとへ戻り車内で日報を記す。


 どうせここが最後なんだから日報なんて家で書いてもいいんだけど、家には仕事は持ち帰りたくないんだよね。


 車内灯をつけてカリカリとペンを走らせていると、コンコンと窓を叩かれる。


(やべっ。アイドリングストップ厳守なのにエンジンかけて長いこと停めてた!)


「あっ、すみません! すぐに発車しま……す?」


 窓を叩いてきたのは食品工場の守衛さんでもさっきの大田課長でもなく一人の女性だった。


 駐車場のLED照明に照らされていたのは濡羽色の長い髪を一つにまとめキャメルカラーのダッフルコートにブルーのストライプが鮮やかなマフラーをもさっと首に巻きつけて俺のことを覗き込む佐伯さんだった。


「あ、れ? さ、佐伯さん?」


 まさかもう今日は会えないかと思っていた佐伯さんのまさかの登場に頭が追いついて来ない。


「あ、やっぱり藤富さんだ! 良かった。違っていたらどうしようかと思ってたの」


 俺は慌てて車から出る。


「こ、こんばんは。今日はちょっと納品件数が多くて、遅れました」


 混乱したせいか納品時刻が遅れた言い訳なんてしている俺。


「くすくす。そうだったんですね~ 今日はもう来ないのかと思っていたんですけど、待った甲斐があります」


 え?

 聞き間違いでなければ、佐伯さんは俺のことをと言ったよな?


 え?

 待った?


 え?

 な、なんで?


 さらに俺の混乱は拍車をかけた。


「あ、え、あ、その……」

「ふふふ。ねえ、藤富さん、寒いのでおとなりに乗ってもいいかしら?」

「あ、ああ。すみません。寒いですよね! いま助手席を片付けまちゅ」


 恥ずかしい。噛んだ……。


「ふう。温かいですね!」

「すみません、散らかっていて」


 工場の駐車場にいつまでも停めていたら今度こそ守衛さんに怒られるということで車を発進させた。


「あ、あの。佐伯さん、どうしました?」

 なんとも抽象的で的を射ない質問なんだ⁉


「まあ、細かいことはお食事でもしながらではどうですか? あ、その交差点を右に」

 駐車場を出てからは佐伯さんの指示で車を走らせている。


「食事ですか?」

「あれ? もうお夕飯は食べてしまいましたか?」


「いいえ、まだですが」

「もうっ、藤富さん! 話し方がカタイよ! お仕事ではないんだから敬語はナシで!」


 あれ? 佐伯さんって結構明るい人だなぁ~ いや、これはこれですごくいいけど……。


「あ、はい、じゃなくて、うん。ご飯食べま……食べよう。どこ行けばいい?」

「ふふ。じゃあね、次の信号を左折して五〇〇メートルぐらい行った先の左側に駐車場があるから、ソコに車を停めてあとは歩きで!」


「りょーかい……って! そこ俺んちのアパートじゃん!」

「バレたか!」


 俺んちに佐伯さんが来るってことよりも、なんで佐伯さんが俺んちを知っているのかが不思議すぎる!


「ねえ、なんで俺んちを知ってるの?」

「それも含めて全部後で教えるからね。ご飯の材料はさっきのエコバックに全部入っているから気にしないでね!」


 佐伯さんが車に乗り込むときなんかでかい袋を持っていたと思ったらご飯の材料だったのか?


 ん?


 あれ?


 材料を買い込んでたってことは、今日は絶対に俺んちに来るつもりだったってこと?


「あ、あの……さ。なんで? どう、して?」

「もう、藤富さんはせっかちさんなの? 全部ご飯を食べてからって言っているでしょ? それとも私のつくる料理は食べられないってことなのかな?」


 俺のことをうるうるとした瞳で見つめられるとなにも否定できなくなる。


「い、いただきます……」


 弱っ!


 ちなみに既に車は駐車場に停めてますのでご安心を。




「ごちそうさまでした」

「お粗末様でしたぁ」


 お粗末なんてとんでもない。

 材料はそこらへんのスーパーで売っているような普通の食材なのに。調理の方法でここまで美味しくなるとは驚き以外になにもない。



 *


「さて、と。帰りましょうか?」

「おい、待て。全部話すんじゃなかったのか?」


「覚えてたか!」

 こんなに短時間で忘れるわけがない。


 この混乱の始末はきっちり払ってもらわないとな!


「じゃあ、お支払いは私の身体で……」

「? は? はぁあああああああ?」


 だめだ。完全にペースを乱されている……。


「もうっ、冗談……じゃないけど」

 なんだ、やっぱり冗談か。最後の方は消えかけた声だったので聞き取れなかたけど。


「え~っとですね。藤富さん」

「おう、なんでしょ?」


「単刀直入に全部前置きふっとばしてはっきりと言います。


 藤富さん、私はあなたのことが好きです! 


 ずっと前から大好きでした」


「……は? ……へ? 今なんて?」


「もうっ、もうっ! 何度も言わせないでっ、あなたのことが大好きです! 私とお付き合いしてください!」


「あ……はい」

 佐伯さんの勢いに押されたってのもあるけど、俺も佐伯さんのこと好きだったので……。

 それにしてもさすがに色々端折り過ぎじゃないか?


「では、OK頂いたので、私は用事があるのから帰ります」

「切り返しはっや!」


「そうですよ。もう大人のお付き合いなんですからウダウダ言っている場合じゃないです!」

「お、おう。そうか……」


 佐伯さんに送っていこうかと言ったら『一人で帰れるから平気』と断られた。


 佐伯さんが見送りは玄関先でいいって何度も言うので仕方なく自宅の玄関先で彼女と別れる。



「………佐伯さんが俺の彼女。おれの、かのじょ――うおおおお」


 少し落ち着いてくるとなんとも言えない感情がこみ上げてきて何故か腕立て伏せを五〇回ほどやって汗だくになった。


 彼女にはいろいろと聞かなきゃいけないような疑問があるけれど、この三時間ほどを一緒に過ごしただけで佐伯さんが素晴らしい女性であることは再認識できた。ただあまり話さない地味な女の子ではなかったとだけは上書き更新しておこうと思う。



 年末休暇に入ったあくる朝。

 トントントンというリズミカルな音に目が覚めた。


 寝室から出てみるとそこには亜衣莉がエプロンをつけて台所に立って包丁でなにかを切っている最中だった。

 亜衣莉とは佐伯さんのことね。せっかく恋人同士になったんだから名前で呼び合おうってなったんだよな。


「あ、おはよう宣治くん♪」

「お、おはよう。あ、あいり」


 あれ、俺、昨日の夜ドアの鍵を締め忘れたのかな? いや、このアパートは田舎に似つかわしくないオートロックシステム完備なのでそれはありえないな。ちなみにこのアパートの所有者はうちの会社のスズキ社長だよ。


「なにいっているの宣治くん。私、合鍵もらったよ⁉」

「あ、あれ? そうだったっけ?」


 昨夜はだいぶ舞い上がっていたから記憶が定かじゃないな。まあ、亜衣莉が鍵を持っているぐらい特に問題もないので構わないが。


「もう少しでできるから顔を洗ってきて」

「うん、分かった」


 誰かに朝食を用意してもらうのなんて久しぶりだし、なにより休日の朝に起きたのも久しぶりかもしれない。


「うん、うまい。うん、うまい」

「もう、一つ一つ褒めなくてもいいよっ」


「だって本当にうまいから」

「あ、ありがとう……えへへ」


 鮭のみりん焼きにほうれん草のおひたし、お新香に豆腐の味噌汁。

 何よりも炊きたての御飯にできたての可愛い恋人。


 昨日と今日で世界が変わったかのような変化がある。


「どうしたの? ほっぺたなんてつねって」

「夢じゃないのかなって……」


「ふふふ。ちゃんと起きているし、私は宣治くんの目の前にいるよ!」


 食事の後、身支度も整えたらお出かけ――とはならず、部屋の掃除となった。


「もう、昨日は遅かったから何も言わなかったけどお部屋汚すぎだよ、宣治くん‼」

「言い訳のしようもございません……」


 男の一人暮らし、しかも部屋に誰かを呼んだことなど一度もなく自分と両親以外では佐伯さ……亜衣莉が八年目にして初めてだった。


「はぁ、まあいいけど! 今日はお出かけしないで一日かけてこの部屋を掃除するつもりだったから気にしないで。じゃあ、片付けちゃいましょ?」

「はーい」


「返事は短く!」

「はい……」


 交際二日目にして完全に尻に敷かれている気がする。嫌じゃないけど。

 けれど年下の娘に指示されるのもどうかとは思うよ。情けないしね。

 あれ? そういえば亜衣莉は何歳なんだ?


「ねえ、あいり。あいりって何歳なの?」

「二四歳だけど………。ぬ? あれっ? もしかして宣治くんって気づいてない系?」


 えっ、二四歳なの? それも衝撃だけど、気づいてない系ってなんのこと?


「なんか俺、おかしなこと言ったかな?」

「ううん。いいよ、そういうことか……。なるほどなるほど」


 亜衣莉はニヤニヤといたずらっぽい表情をして俺のことを見てくる。ほんと何?

 なにか知らないうちにやらかしちゃったのかな?


「ねえ宣治くん。私のこと好きになったのっていつ? どこで?」

「え? な、なんだよぉ藪から棒に」


「いいから、いいから!」

「えっと……。工場に納品に行った俺を受け付けてくれたとき、君の笑顔に一発でやられました」


「おうぅ。へへ……そう来たか⁉ じゃあ、私の行動は間違ってはいなかったんだね」


 亜衣莉は一瞬照れた後、なにかゴニョゴニョと言っていたけど聞き取れなかった。



 午前中は主に洗濯や布団干し、午後は本格的に掃除をして夕方には見違えるような我が家に変身した。


「見違えるな……。八年前はこの部屋もこんなだったんかな? まったく覚えていないや、ははは」


「宣治くんはこっちに来た当時のことは何も覚えていないの?」


「う~ん。何もってわけじゃないけど、ほぼそんな感じかなぁ……。無我夢中と言うより五里霧中って思いだったからなぁ」


 都内の大学に通っていた地方出身の大学生が、卒業も間近に一つも内定が取れず、最終的に縁もゆかりもない地方の中小企業にやっとのことで入社する。そのような状況下でなにを思いなにを考えたのか?


 その日その日を絶望せずに生きるのに精一杯だったんだろうなぁ~


 *


「ね、宣治くん。夕ごはんはなにがいい?」

「え? 夕飯まで作ってくれるの? 流石にそれは申し訳ないよ」


 亜衣莉は朝も俺が起きる前に、昼も洗濯の合間に、ご飯を用意してくれた。そして夜までも食事の用意をしてくれるという。


「いいんだよ。私がしたいからしているんだし、宣治くんの奥さんになったら毎日きちんとするつもりだよ?」


「はへっ、お、奥さん?」


「そっ。奥さん。私は宣治くんの妻になる気満々だし、それ以外は考えてないのでよろしくね! それとも私じゃ嫌かな?」


「い、嫌なわけ無いだろう。願ったり叶ったり、だよ……」


「ふふ、よかったぁ~ 嫌だとか考えられないなんて言われたらどうしようかと思ったんだぁ」


 そこまで?

 ということは、まさかこれってプロポーズだよな⁉


「いいの、俺で?」

「寧ろ宣治くんじゃないと嫌だよ。宣治くんにフラれたら私は一生独りでいるもん」


 亜衣莉は俺の気持ちを覗き込むように『いいのかな? こんな可愛い彼女が一生独り身なんて』なんて真剣なのかふざけているのかよくわからないことをきれいな瞳で見つめながら言ってくる。



 彼女は地方にある工場とはいえ食品大手の『サハク食品工業』本社工場勤務。

 俺はこの地域でこそ名が通っているが、所詮は地方商社の『スズキ商事』勤務。

 ちょっと格差を感じる。


 ――俺のどこがいいのか聞いてみたけど教えてくれなかった。


「もうっ、私は宣治くんが好き。宣治くんのお嫁さんになりたい、一生一緒にいたい! じゃだめなの?」


「お、おう……。問題はないな。俺もあいりのこと好きだし」


「じゃあ、この話はおしまいね。夕飯はコロッケでいい? さっきじゃがいもが箱であるの見つけたから」


 強引に話を終わらせられたけど、そういうのも長く一緒にいれば分かってくるだろうし気長に考えていけばいいかな?


「ああ、母親が今回は誕生日にいつも送ってくる誕プレを早めに送ってきたやつだな。じゃがいも一箱って一人暮らしの男になにを送ってくるんだか、だよな」


「だよね。そうだ! 夕飯は一緒に作ろうか? そうすれば宣治くんの申し訳無さも和らぐかもよ⁉」



「食った食った……。食いすぎた……。もう無理……」

「そりゃそうよ。いくらなんでも食べすぎでしょ?」


「だって、あいりのご飯美味しすぎるんだからしょうがないよ」

「! もっ、もうっ! 不意打ちは禁止ね!」


 亜衣莉は真っ赤な顔して俺の腹に顔を埋めぐりぐりしてくる。最近ブヨブヨし始めたし、今はお腹いっぱいでパンパンなんでぐりぐりは止めてほしいんだけどなぁ。

 プロポーズとかしてくるくせに、ご飯を褒めたら毎度照れるなんて亜衣莉のツボがわからなすぎる。


 *


 洗い物を終えてのんびりしている。時間はもう八時過ぎ。


「なあ、あいり。今日は帰るのか?」


 昨日はすぐ帰っちゃったけど、今日はどうなんだろう?

 着替えの入ったかばんとか見た記憶ないけど……。


「宣旨くんは私に帰って欲しい? それとも――?」

「……そういうのズルくない?」


「ズルだもん」

「仕方ないな、おいで」


「ん」

 俺が腕を広げたらその中にスポッと抱きついてくる。


 なんだろう。

 昨日今日の関係って感じがしないんだよね。付き合い始めたの昨日なのに。

 なんだかずっと前から知っているような?

 はて?


「……帰りたくないよ」

「うん。一緒がいいな」


「もうもう、なんで宣治くんは私が言ってほしいこと言うのかな?」

「え? 言わないほうがいいの?」


「そういうことじゃない!」

 ほんと工場で会う佐伯さんとは全く違う人のように亜衣莉は甘えん坊。


 可愛すぎ。


「じゃあ着替えとってくるよ」

「取ってくる? 車にでも置いてあるの?」


「こんなに寒いのに車に置いていたらお着替えが冷えちゃうよ。部屋に置いてあるんだよ?」


 ふ~ん。まあそうだよね。真冬だも………………ん?


 ん?


 部屋に――置いて、ある?


 何処の部屋? 俺んちじゃないのは確かだよな。


「部屋って、どこ?」


 亜衣莉に聞いてみると彼女は壁の方を指差す。

 意味がわからず俺が首をかしげていると亜衣莉が説明してくれる。


「私、隣の部屋の住人ですよ」

「………は? はぁああああああああ? いつから? えっ、えっ???」


「大学卒業してからずっとなんで一年九ヶ月?」

 結構前から居たんだね。俺、全く気づかなかったよ。


 お隣さんが亜衣莉?


「あいりってストーカーなの?」


「一種そうかもだけど、別にずっと付きまとっているわけじゃないよ? まあ、でもこうやって結婚できるように仕向けたのは間違いないかな?」


「あ、ああ。そうなんだ」

「幻滅した?」


「ううん。案外そうでもない」


 不思議と嫌な感じはしないんだよな。普通はそう思わないんだろうけど。


「そっか。嬉しい! じゃあ、本当は宣治くんに自発的に気づいてほしかったんだけどにぶチン宣治くんじゃ無理そうなんで――――ちょっと待っていて。ヒント出してあげるから」

 亜衣莉はそう言って部屋を出ていった。




 混乱しながらも存外に冷静で居られることに自分のことながら驚いていると、玄関のドアが開いた音がした。亜衣莉が戻ってきたみたいだ。


「ただいま! 宣治くん、これならどうだ⁉」

「おかえり、あいり。って、ん? ええっ‼ アイちゃん」


 戻ってきた亜衣莉は八年前からよく知っているアイちゃんの姿で現れた。


 アイちゃんはいつも真っ黒ストレートの髪を三編みにして肩口から胸に流していた。彼女は視力が悪いらしく分厚い丸メガネをかけた田舎娘だった。

 亜衣莉は丸みのあったアイちゃんの身体をセータの中になにか入れていることで当時のような丸みを再現している。胸だけは当時と変わらぬ主張の激しいデカメロンのままだけど。


 ここ数年はあまり会うこともなかったけど間違いなく亜衣莉はアイちゃんだ。


「そう、宣治くん。もう分かった?」

 俺は頷くことしかできなかった。


 アイちゃんと出会ったのは八年前。


 彼女は俺が新卒で入社したスズキ商事の社長の一人娘で当時一六歳の高校生だった。


 当時は東京から来たってことで物珍しかったのか、周りにちょっと年上の同世代が居なかったせいなのか俺は彼女にはだいぶ懐かれていたと思う。


 でもその頃の俺ときたら将来の展望が開けない状況だったしあまり記憶もはっきりしないんだよな。アイちゃんは覚えているけどアイちゃんと何をしたとか何を話したとかは全く覚えていない。


「え? アイちゃんの名字は鈴木だよな? 社長の娘さんだし⁉ なんで佐伯なの?」


 たぶんそこは突っ込むところじゃないんだろうけど、疑問に思った最初がそれなんだからしょうがない。


「ねぇ、私は自分のこと佐伯なんて一回も名乗ったことないよ? 宣治くんが勝手にサエキって呼んでいただけだよ?」


「えっ、だって受領書のハンコが佐伯ってなってたよ?」


「佐伯って書いてサハクって読むんだよ? 知らなかった? 佐伯食品工業株式会社さはくしょくひんこうぎょうかぶしきがいしゃ。私のひいおじいちゃんの設立した会社で今の社長は私のお母さんだよ?」


「は、はいぃ??」


 知らなかった……。サハク食品工業は会社の何処を見ても『サハク』か『sahaku』のどっちかしか見ていないもん。そういや社長さんは鈴木初桃すずきはつみって書いてあった気がする。


 うちの社長の鈴木とサハクの鈴木をイコールで結べと言われても無理でしょ?


 鈴木なんてありふれている姓だし、中小企業の社長と大企業の社長だよ? 無理言わないで!


「ちょっと待って」

「うん、待ってあげる」


「あのさ、俺、社長の娘と付き合っているの?」

「どっちの社長のことを言っているかわかんないけど、両親どっちも社長だし、そうだね。間違いないね」


「マジか、両方か……」

「マジよ、両方よ……」


「えっと、あいり。俺と結婚したいって本当? 冗談でしたぁ、とかない?」


「ないよ! 私は本気も本気。明日にでも婚姻届出してしまいたいぐらいずっと宣治くんのこと好きだったんだよ?」


 知らなかった……。


 出会って結構早い段階で亜衣莉は俺のことを好きになっていたそうだ。


 それからずっと俺のことを思っていてくれて、社長とは彼女が大学を卒業して、更に俺が独身で、かつ腐らず真面目に仕事を続けていたら俺の三〇歳の誕生日の三日前に告白してもいいって約束だったらしい。


 その時、断られないように亜衣莉は自分磨きを欠かさずダイエットに美容に勉強も仕事も一生懸命に取り組んできたという。


 大学を卒業して、母の会社に就職してイチ事務員として働いているときに俺が納品の担当になった。つっか多分ウチのスズキ社長の差し金なんだろうけどね。


「ぜんぜん私に気づかないんだもん。忘れられたかと思って落ち込んだんだよ」

「わかんないよ。すごく可愛くなっているし、あの白衣だぞ? 気づけっていうのは無理じゃない?」


「か、可愛い……。で、でも、好きだったんでしょ? サエキさんのことは?」

「うぐ……。アイちゃん、いじわるだ」






「あいりは俺が初めてだったのか?」

「うん。だってずっと宣治くんしか見てなかったから」


「そっか」

「うん。でも宣治くんと夫婦になれるなんて嬉しくて仕方ないよ」


 ベッドの中で裸のまま抱き合いながらのピロートーク。亜衣莉が可愛くて仕方なかった。


「あ、でも社長になんて言おう」

「ん? 特に何か言う必要はないと思うよ。今日は両親とも宣治くんのご実家に行って結納を済ませてきているから」


「え? 結納?」

「うん。昨夜パパについでに私のプロポーズにOK貰えたって伝えたら、早速今日は本人不在だけど結納は済ませたってメールが有ったよ。宣治くんのご両親も喜んでくださったって言ってたよ」


 結納ってだいたい男の方から出向いていくもんじゃないのかな? よく知らんけど。それにしてもうちの親もこの荒唐無稽な話を本人に確かめもせずそのまま受け入れちゃうんだ。俺も親のこと言えないけどこれは本当に血筋だよな。


「ははは。そっか……」


「ふふふ。これでみんなに認めてもらって夫婦になれるね」

「そうかいつの間にか結婚内定なんだな。じゃあ、結婚式はいつしようか?」


「えっ、大晦日の宣旨くんの誕生日に式を挙げてそのまま入籍だよ? 予約は済んでいるけど、衣装合わせがあるから明日は大忙しね!」


 式場はサハク系列のホテルだそうだ。既にスズキ商事がすべて用意を行い会場のセッティングも済ませているそうだ。


「スズキ商事で用意って、俺以外の従業員はみんな知っていたのか?」

「全員じゃないけど、あそこの会社親族ばかりが働いているかね。みんな私のおじさんおばさんみたいなもんだよ?」

「おっふ……。色々と既に確定済みだった」




 俺は八年前何処の会社にも見向きもされなかった。しかし、ただ只管真面目に働いていたら、大企業と中小企業の跡取りに内定するとはあの頃の俺には想像すらつかなかったな。





「宣治くん。子どもはね、一人っ子は絶対にナシで、最低でも五人欲しいんだけど?」

「そうだね。とりま内定出しといて……」


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