帝国海軍最後の出撃

陸奥長門

第1話

 微かに明るくなった空の下、荒れる北海に数条の航跡が長く伸びている。その数は4。

 旗竿に二頭の獅子が背中合わせにあしらわれた『帝国』の軍艦旗が翻っている。横幅が狭く細長い艦体が鋭い剣先を想起させる、精悍な趣の駆逐艦であった。

 それが4隻、夜明け前の海上を疾駆していた。

 その先頭の駆逐艦『Z31』の艦橋で漆黒の軍服を纏い、軍帽を目深に被った妙齢の女性が仁王立ちしていた。袖章から少佐と分かる。

 軍帽の庇によってその容貌の全体を把握するのは困難であったが、女性特有のほっそりとした顔に、すっと通った鼻筋。きゅっと引き締めた唇は、思わず目線を向けてしまう程の魅力がある。そして彼女を”強い存在”と印象づけるのは目だ。

 蒼く透き通った瞳は彼女の純粋さと意志の強さを物語り、切れ長の目と長い睫毛は、余人を引きつける魅力がある。身長は160㎝ほどと、この場にいる誰よりも小柄であるのに、存在感は一際高い。舞台に立つ主演女優もかくや、と思わせる美女であった。


 彼女は首から提げている懐中時計を手にとると、蓋をあけ時刻を確認する。

「艦長、現在はどのあたりだ?」

 若く張りのある声に応えて『Z31』艦長は「航海長、現在位置報せ」と下令する。

 海図台の前で帝国北東部沿岸から大小ブリテン島を示す海図の一点を指示棒で指しながら、

「ヴィルヘルムスハーフェンよりの方位290度、200浬です」

 航海長は報告する。彼女はその言葉に頷き、もう一度時刻を確認する。

「夜明けまで約40分・・・。そろそろ敵艦隊と接触するかもしれん。後続の艦はどうか」

 艦長は見張員に確認させる。

「『Z35』、『Z43』、『Z44』、続航しています」

 年若い水兵が声を張り上げる。

「皆、ついて来てますな。即席の艦隊で、夜間行軍とは少々不安ではありましたが。『Z19』が落伍した時は作戦遂行は危ういと危惧したものです」

 傍らに立つ偉丈夫が少佐に耳打ちする。この男の袖章は軍曹であった。

 彫りの深い顔立ちに、よく日焼けした肌。口ひげをたくわえた口は大きい。鋭い眼光と、右目の下にある傷跡が、この男に歴戦の戦士の風格を与えている。

「『Z19』は仕方あるまい。この時勢だ。もはやヒトの努力でどうにか出来る域を超えている。4隻の艦が出撃できただけでも暁光だろう」

 少佐は周囲に気付かれないよう小さく溜息をつくと、そう口にした。

「この時勢ですか・・・・。たしかに」

 軍曹も僅かに眉を顰めながら同意した。

「嘗て欧州に覇を唱えた我が帝国も、最早死に体だ」

 少佐が自嘲気味に呟いた。士気に関わるので、艦橋内の将兵には聞こえないように配慮はしているつもりだった。だが、この軍曹にだけは本音を漏らしてもよいと思っている。なにせ、この精悍な男は彼女が産まれる前より家に仕える、家族と言ってよいほどの親しい存在だからだ。


 最早死に体―――

 少佐の言葉は不謹慎と糾弾されるだろうが、しかし事実だ。

 今から4年ほど前、膨張政策を推し進める帝国は嘗ての領土を取り戻すべく、隣国へと軍を進駐させた。これに周辺諸国は反発。帝国の軍拡と膨張政策に懸念を抱いていた大国「ブリテン連合王国」が宣戦を布告すると、周辺国もそれに同調した。

 帝国の編み出した新戦術に対応が遅れた周辺諸国は、次々と帝国に膝を屈した。帝国は占領地を拡大。嘗て欧州を席巻した古帝国を凌駕する、大国となった。この時点で帝国に対抗出来うる大国は連合王国のみとなった。

 緒戦勝利の余勢を駆って勇躍連合王国の拠点、ブリテン島へと侵攻を開始した帝国軍であったが、連合王国は当時世界一の海軍戦力を擁しており、帝国海軍は苦戦することになる。

 連合王国との散発的な海戦が勃発するのみであったが、喪失艦艇の想定外の多さに海軍部は悲鳴をあげた。開戦から2年あまりの時点で、稼働艦数の5割を喪ったとなれば、海軍部の心中を察して余りある。以後、海軍の活動は低調の一途を辿ることになる。

 開戦3年が過ぎた頃、戦局に一大転機が訪れる。ブリテン連合王国は「世界の工場」と呼ばれた合衆国を連合軍陣営として参戦させることに成功したのである。

 開戦以来、連合国軍陣営の後方支援として大量の武器・弾薬を供給し続けていた合衆国は、安全保障の観点から対帝国を見据えた自国軍の拡充を推し進めていた。その総兵力は参戦の時点で世界最大であるともっぱらの噂であった。優等ではないが、戦場で使うには申し分ない性能の兵器を大量生産できる国力は、帝国にとっても無視できないものである。

 斯くして合衆国を陣営に加えた連合国軍は、帝国の占領地であるフランセーズ共和国の沿岸に上陸作戦を敢行した。後に「史上最大の上陸作戦」、「流血の惨事」として語られる連合国軍の一大反攻戦が始まったのだ。

 占領地が拡大した結果、長大な海岸線を得た帝国であったが、その全てに万全な防禦体勢を布くのは不可能だった。時間も、物資も人的資源も不足している。広大な土地を有していても、現代戦に不可欠な石油は到底全軍に潤沢に行き渡る量を賄えることは出来ず、戦略物資である鉄を含む鉱脈も、当時機械化機動部隊を支える車両のタイヤに使うゴムなどの戦略物資も、そのほとんどが連合王国の支配地で採れる物であって、帝国は常に物資欠乏に喘いでいたのだ。

 その間隙を衝かれたのである。戦略上、上陸適地であったノルマンディー海岸には帝国も守備兵を配置していた。守備兵は果敢に上陸阻止戦を戦ったが、圧倒的な物量の前には如何ともし難く、遂には上陸を許し、連合国軍はここに橋頭堡を築いた。

 それから1年余り。潤沢な補給と大量の兵員が津波のように押し寄せ、帝国軍はじわじわと押し戻された。帝国軍の前線では弾薬どころか糧秣も欠乏し、今や陸戦の王者と云われる戦車も燃料がなく遺棄される始末である。

 開戦以来の歴戦の兵士は次々と戦病死し、あどけない顔をした若年兵の姿が目立つようになった。訓練も不十分で、高性能の戦車を開発しても、それを扱う兵士の練度不足により、連合国軍の戦車に各個撃破される場面が多くなった。最新の戦車が充分な試験もせずに前線に送られるため、故障が頻発する。敵に撃破されるよりも故障で動けなくなる戦車のほうが多いなどと皮肉まじりに云う現場指揮官の顔は、憔悴によりさながら幽鬼のようであったという。

 そして現在。連合国軍は嘗ての国境を越え、首都ベルリンへと迫っている。帝国は少年兵や老人を「国民義勇兵」として招集し、防衛に努めているが、そんなものは焼け石に水で敵軍の侵攻をほんの少しだけ遅滞させるのが精一杯であろう。女子供を戦場に送り出すなど、最早末期としか言いようがない。表だって口にする者はいないが、「敗戦」という言葉が現実味を増している。

 そのような状況での今回の出撃だ。

 無線傍受及び現地スパイの情報提供によって、連合国軍が大規模な補給船団を組み連合王国のエディンバラ港に集結中、とのことであった。

 首都陥落の危機的状況のなか、敵に増援がなされたら、更なる苦境に陥ることになる。万難を排してこれを撃滅すべし、と帝国軍参謀本部は海軍へ下令した。


「それでたった5隻の駆逐艦が出撃、となる。1隻が落伍したので4隻だがな」

 少佐は吐き捨てるように言った。

「各地の燃料廠のタンクの底をさらってまで集めたのが、駆逐艦5隻分だった、と」

 軍曹の言葉に少佐は頷いた。

「稼働する艦艇で出撃可能なものが駆逐艦だった。戦艦は軒並み沈められ、残ったのは旧式の前弩級戦艦のみ。巡洋艦に至っては損傷修理も満足に行えない為、これも稼働できず。残る選択肢は駆逐艦だった、というわけだ」

「旧式とはいえ、戦艦の火力は捨てがたいものがあるのでは?」

「ツェンダー軍曹、動力が石炭との混焼罐だぞ? 石炭はまぁ調達できるかもしれないが、戦艦1隻を動かすだけの重油しか無いのだ。それに鈍足の戦艦1隻が出撃したとして、敵軍港のはるか手前で補足され、撃沈されてしまうのがおちだろう」

 ツェンダーと呼ばれた軍曹は得心した、といった表情で頷いた。

(上層部は片道分の燃料しか積載しなければ、倍の数の艦を出撃させることが出来る、と考えていたのだがな)

 少佐は胸中で呟いた。


 彼女はヴィルヘルムスハーフェン軍港にある方面艦隊司令部への出頭を命ぜられ、方面艦隊司令長官からその命令を言い渡される時、その方針に異議を唱えた。

「ご命令とあらば我が将兵は決死の覚悟で戦場へ赴くでしょう。しかし片道分の燃料しか無い必死攻撃となれば、士気に関わります。明日への希望があるからこそ人は戦うことができるのです。命を懸けることが出来るのです。それとも閣下は兵をただの捨て駒だとお考えか」

 彼女は語気を荒げることなく、静かに進言した。落ち着いた声だけに、そこに込められた理不尽さに憤る迫力があった。

 少佐の言に司令長官の顔が赤黒く変わる。いち少佐の分際で抗命するとは何事か。彼は怒りのあまり、そう激昂しそうになったが、話の分かる参謀が取りなした。

「エーデルシュタイン少佐、貴官の懸念は理解する。だが敵の大船団を相手取るとならばそれ相応の兵力が必要だ。その事について何か所感はあるか」

 50代前半と思われる、胸元に参謀飾緒を掲げる少将が問うと、

「数が多ければ良いというものではないと考えます。数が多ければ統率が困難になりますし、敵に発見される確率も高くなります。勿論敵の根拠地へ向かうのですから遅かれ早かれ発見はされます。しかし発見が遅れれば敵の対処時間は限られるでしょう。少数精鋭が疾風の如く浸透し敵に物理的、心理的打撃を与え、引く。陸軍が実現した電撃戦、それを海上で披露して御覧いれましょう」

 エーデルシュタイン少佐―――ブリュンヒルト・ゲーア・フォン・エーデルシュタインは、はっきりとした声で断言した。

「それを実現できる兵力はいかほどか?」

 少将の問いに、ブリュンヒルトは応えた。

「足の速い新鋭の駆逐艦を5隻ほど。反復攻撃が可能な航続距離をもち、武装も強力な教導駆逐艦が望ましいと考えます」

 その答えに満足したのか、少将は司令長官へ具申した。

「閣下。少佐の案は採用に値すると考えます。ここで徒に兵を喪うのは望ましくないと小官も愚考します。まだ先は長いのです、来るべき反攻に備えるべきかと」

 少将の言葉に司令長官は腕を組み目を閉じて沈思する。

 この時のブリュンヒルトと参謀の考えはほぼ同様なもので、すなわち成功の見込みの薄い作戦に貴重な人的資源を消費したくないというものだった。司令長官への具申は、結局の処上層部への面従腹背そのものであり、これは方便であった。

 およそ1分間の沈黙の後、司令長官はゆっくりと頷いた。

「よろしい。それでは少佐、貴官の責任に於いて作戦を立案し提出したまえ」

「は! 作戦を立案し提出いたします」

 踵を打ち付け、帝国式の敬礼をする。

「皇帝陛下に栄光あれ」

 その場にいた者が唱和するなか、ブリュンヒルトは退室した。


「司令?」

 ツェンダーの言葉に、ブリュンヒルトは思考を現実へと切り替えた。

「これより敵の勢力圏下へ入る。見張りを厳とせよ」

 払暁が近いとはいえ、空と海面の堺が辛うじて確認できる状況で、敵艦を目視するのは難しい。だが今回出撃した艦には、激戦を生き抜いてきた手練れを配している。これは生きて帰ることを前提とした人選である。死を前提とするならば、優秀な人材は後方へ残すつもりだったのだ。

 誰もが緊張で口を噤むなか、機関の駆動音と艦首が波を切る音、そして風切り音だけが艦橋に響く。

 どれだけ時間が経過したのか、不意にスピーカーから

「こちらレーダー室。本艦よりの方位15度に反応あり」

 との報せが入ると、即座に艦長がマイクを握り

「距離と数を報せ!」

 と下令した。

「距離、32000メートル。数は10。速力16ノット。反応から駆逐艦クラスと判断します!」

「本艦よりの方位15度に、排煙を確認!」

 レーダー士官とマストトップの見張員から同時に報告が入る。32000メートルはほぼ水平線だ。目視による艦種の判別は困難であろう。

「連中、来ましたなぁ」

 レーダーにより確認できただけで10隻。此方の倍以上の敵を前にしても艦長は落ち着いていた。

「敵船団の護衛艦隊の一部が邀撃にでたのだろう。艦長、やれるかね」

 もとより敵地へ殴り込みをかけるのだ。今更敵が出てきても、さしたる動揺はない。

「反航しますか。それとも同航で?」

「時間が惜しい。このまま突っ切る。反航でいこう」

「連中、見逃してくれますかな?」

「それは期待しないほうがよい。ここまで出張ってきたのだから、そう易々と行かせてはくれんだろう」

 現海面はヴィルヘルムスハーフェンと敵港とのほぼ中間点だ。そしてこの時間帯。ここまではブリュンヒルトの思惑通りだ。

 しかし、ここからどうなるかは―――

「艦長、反航戦だ」

「了解。反航戦でいきます。 主砲右砲戦。最大戦速!」

「主砲、右砲戦。了解!」

「速度、最大戦速!」

 艦長の命令に、砲術長と航海長が応答する。と同時に「Z35」「Z43」「Z44」へと無線にて命令が伝達された。

 ブリュンヒルトが座乗する旗艦「Z31」が速度をあげ、主砲である15センチ単装砲が僅かに右へ旋回する。艦は急速に戦闘態勢に移行した。

「『Z35』、『Z43』、『Z44』、続航します」

 艦橋見張員が僚艦の動きを報せてくる。ブリュンヒルトは双眼望遠鏡で前方を見る。

 敵艦隊も増速しているのだろう、海面に浮かぶシミのような影が艦の形へと変わりつつある。

「敵艦隊、巡洋艦1、駆逐艦9と認む」

 マスト見張員から報告が入る。

「巡洋艦が居るのか」

 ブリュンヒルトは呟いた。

 「Z31」は駆逐艦に搭載された砲としては大きな砲口径15センチ砲を単装で前部に1基、艦橋を挟んで後部に2基装備している。列強の駆逐艦砲が12.7センチであることを考えると、大きな打撃力をもつと言える。しかし、相手が巡洋艦となると話は変わる。それが重巡洋艦なのか軽巡洋艦なのか現時点では分からないが、備砲は15センチを超える。

 相手の数が多いことに加え、砲威力も大となれば、最悪全艦撃沈もあり得る。それを回避するには―――

「司令、魚雷を使いますか?」

 ブリュンヒルトの懸念を察したのか、艦長がそう問うてくる。ブリュンヒルトは首を横に振り、

「いや……魚雷は敵船団に使う。艦長、まことにすまないが、砲だけで戦ってくれ」

「了解。砲のみで戦います。砲術長、発砲の時宜は貴官に任せる。主砲といわず機関銃といわず、使える火器は全て使え」

「了解しました!」

 艦長の命令に砲術長は返答する。心なしか気分が高揚しているように見えた。

 連合軍の攻勢によって海軍が事実上崩壊して1年ちかく。幾隻かの艦船は残っているものの、海軍は兵力を温存する方針に舵を取り、砲戦の機会などもう無いと思っていた。海軍将兵は髀肉の嘆をかこっていたのだ。その鬱憤を晴らすかのように砲術科員は、いや、乗組員全員が闘志をむき出しにしているのだろう。

「やれそうですな」

 ツェンダーの言葉に、ブリュンヒルトは大きく頷いた。


 ブリテン王立海軍軽巡洋艦「バーミンガム」。急遽編成された第1迎撃艦隊の旗艦である。

 その戦闘艦橋にこの艦隊を指揮する司令部がおかれていた。

「敵艦隊、増速。進路変わらず!」

「おやおや。連中、やる気だね」

 見張員の言葉に、長官席に座る中年の男が肩をすくめる。

「ここまできて、引き返すなどありえない。連中は我らをやり過ごすつもりでしょう」

 その傍らに立つ男がそれに応える。濃紺の軍装の袖章から中佐だと分かる。

「敵は駆逐艦が4隻。対する此方はこの『バーミンガム』をいれて10隻だ。普通なら引き返すと思うが、艦長」

 この状況で尚、緊張感に欠ける問いを発する司令官に、「バーミンガム」艦長アーロン・マクミラン中佐は苛立ちを感じた。しかしそれを表情に出すほど愚かではない。

「この攻撃に戦略的な価値はありません、司令。少数の駆逐艦が攻勢に出たとて、戦況に何程も寄与しないからです」

「だが彼等はやってきた」

「おそらく政治がらみでしょう。或いは国民に対するパフォーマンスかも」

 司令は顎髭を撫でながら、ふむ、と頷いた。

「負けた時の言い訳、か。 或いは起死回生の秘密兵器でもあるのかも」

 司令の言葉にマクミラン中佐は、つと視線を上に向け、何かを考える素振りをする。

「例えソレが切り札だとしても、手遅れです。陸軍が皇帝の籠もる宮殿を大砲の射程に入れたと聞きます。例え秘密兵器があったとして、彼等はもっと早い段階で出すべきでした」

「はやり、政治だな、これは」

 司令は大きく溜息をついた。

(政治には関与したくない、か……)マクミラン中佐は胸中で呟いた。

 代将の階級章を付ける司令官を「古き良き時代」の遺物だと中佐は捉えていた。

 ブリテン連合王国は島国である。外敵は海からやってくる。必然、海上に於ける戦力を整える必要があり、古王国時代から海軍力の整備に力を入れてきた。

 その長い歴史のなかで育まれた気風は、一種の「社会風土」を形成する。それは「自分たちは政治に左右されない」というものである。

 これは政治を無視するのではなく、海軍という「権威」を政治利用させない、という意味である。

 兎角大きな力を得た者は、その力をふるいたくなるものである。それが政治家、または貴族。或いは王家であっても、力を背景に強権を発布すれば国が乱れる。だから海軍は自分たちの「力」を自覚しているが故、政治とは距離を置くことを良しとした。

 そのような歴史と伝統を誇る海軍軍人は多い。

 そのような考えを古いと感じるのだ。

(所詮、戦争とは政治の一形態に過ぎぬ。ならばその力をふるうに何の躊躇があろうか。如何に良政を布こうとも負けてしまっては意味がないのだから)

「………ときに、帝国軍は将旗の他に家紋をマストに掲げるという。それが確認出来るかね?」

 ふいに代将が問うた。マクミランは見張員に確認させると、

「交差した剣の中央に薔薇のような紋様があります」

 との報告がもたらされた。

「ほう。『ルサルカ』か」

「ルサルカ?」

 マクミランが首を傾げると、司令官は戯けるように語り始める。

「『ルサルカ』とは、伝説上の生物………まぁ、妖精のようなものだよ。それは美しい女の姿をしていて、歌や踊りで男を魅惑するんだ。虜にされた男はそのまま水の中に引きずり込まれてしまうという。つまり、我々を海の藻屑にする悪魔のような存在だよ」

「? と言うことは、『ルサルカ』とは、女なのですか」

「そうだよ。艦長、君は軍の広報で読んだことはないかね? 帝国海軍には勇猛な女指揮官がいらしい」

「………あぁ、読んだ記憶があります。 しかし、それはあくまで噂でしょう。帝国のプロパガンダではないでしょうか?」

「帝国には戦乙女がついている、と。 まあ、確かに戦意昂揚にはなるかもしれないね。しかし、この『ルサルカ』に沈められた艦があるのも事実だ。事の真偽はどうあれ、彼の『ルサルカ』は英雄であるに違いない」

「その英雄が、このタイミングで出撃してきた、と」

「英雄だから、さ」

 そう言うと、司令官は肩を竦めた。

「例えそれが英雄であろうと、女であろうと、立ち向かってくるのであれば、撃滅するのみです」

 マクミランはそう言うと、軍帽の庇に手をかけ、位置を調整する。

「やるのかね?」

「はい。この方が指揮に専念できますので。それでは司令、事前の作戦計画に則って行動を開始します」

「うむ」

 代将が頷くのを見て、マクミランは艦橋要員の中へと歩を進める。それを目で追いながら、彼は呟く。

「まったく、『速成培養』はせっかちだね。………いや、真面目に過ぎる、のかな」

 マクミランは帝国が軍備拡張を始めた頃に入隊した世代の軍人である。日々強さを増す帝国に対し危機感を抱いた連合王国も軍備拡張へと邁進した。

 兵器は量産できる。それだけの資源やインフラを連合王国は持ち合わせていた。海軍では大は戦艦から、小は哨戒艇まで多くの艦艇を建造し、平時の2倍近くまで兵力は膨れあがった。

 だが、それを運用する兵士が不足した。フネはあるのに、それを操る人員が居ないのだ。特に問題となったのが、艦艇の実質的なトップ―――艦長を任せられる士官の不足だった。そこで、軍部は士官の大量育成を始めた。

 指揮官には、冷静な判断力と、何よりも戦場全体を把握し適切な指示を出せることが重要となる。あらゆる情報を総括し、答えを導き出すには高い知性が必要と思われた。そこで、現役の大学生からも軍へ入隊できるよう法律が改められたりもした。

 通常4年かかる軍学校の教練課程を2年に短縮するような、強引な手法も取り入れられた。代将の言う「速成培養」とは、このことを揶揄している。

 兎に角時間との戦いで、徹底した合理化がすすめられた。結果、この時期の士官はまず「合理的か否か」を考えるようになったし、ならざるを得なかった。一見、迅速な判断の出来る良い人材のように見えたが、合理的であることが必ずしも正解であるとは限らない。代将の世代から見ると、思考が硬直化し、応用力に欠ける。戦局の急激な変化に対応できず、多くが死傷した。

 実際、マクミランの世代の死亡率は60パーセントを超える。その中で生き残っているマクミランは優秀なのだろう。それは代将も認めている。

「若い者から死んでいく。わたしのような老兵こそが、若い世代の盾となるべきだろうに………。『ルサルカ』よ、君はこの戦いに何を思う?」


「体の良い厄介払いだな」

 刻々と変化する状況を睨みつつ、ブリュンヒルトは呟いた。

 この戦いは名目上は帝国の「反撃」である。この大儀を為すには相応の「格」が必要であると判断された。

 「指揮官先頭」とは海軍国ブリテン連合王国の伝統であるが、多くの海軍がこの思想の影響を受けていた。帝国の「大作戦」であるならば、それ相応の体裁を整える必要があったのだ。この文脈でブリュンヒルトに白羽の矢がたった。ブリュンヒルトは小なりとも貴族の嫡子であり、現場の指揮を執れる指揮官でもあった。逆に言えば、小さな没落貴族に全てを押し被せてしまえ、というのが上層部の本音だった。

 軍上層部に近ければ、この戦争は「敗北」だという現実がみえてくる。己の栄達と保身に長けた貴族連中が、今更このような火中の栗を拾うような真似はしない。有力貴族は連合国陣営に便宜を図るよう謀略を巡らせていると噂されるくらいだ。そのような状況だから、弱小貴族に損な役が回ってくる。貴族の中でのパワーバランスがそうさせるのだ。

「結局、あの方も私を庇いきれなくなったということか………」

 海軍総司令官も最早往事の力はないらしい。それだけ、軍部も混乱しているということだ。


「敵距離20000メートル!………19500メートル!」

 見張員の声に、ブリュンヒルトは双眼望遠鏡で前方を注視した。この距離になると薄闇でも、艦型が判別できるようになる。

 双方が最大戦速を出している。相対速度は時速120キロメートルを超える。みるみる内に距離が縮まっていく。

「18000メートル! 敵の後続、面舵!」

「なに?!」

 艦長が身を乗り出す。

「巡洋艦1、駆逐艦5、面舵をとりました!」

「どういうことだ………」

 艦長が怪訝な表情を浮かべる。

「艦長、敵は我々を現海面で潰すつもりだろう。1隊は反航戦、反転した1隊は同航戦の構えだ」

 ブリュンヒルトの言葉に、艦長は唸り声をあげた。

「数が多いと、戦術の幅が広がりますな。やはり戦争は数、か」

 そう言っている間に、艦首方向側1門の15センチ砲がゆっくりと右舷側に向いていく。砲術科員は、既に敵艦への照準を済ませ発砲の時宜を待っているようだ。

「16000メートル」

 砲術科の報告と同時に、15センチ砲が火を噴いた。

 「Z31」に主砲として採用されたクルップ社製15センチ速射砲は、45.3㎏の砲弾を秒速875メートルで撃ちだし、毎分最大8発を発射可能だ。

 敵艦を射界に収める1門しか射撃できないが、その砲声は鼓膜が破れんばかりに強烈だ。

 敵1番艦の周囲に弾着の水柱が幾本か立ち上がる。後続する僚艦も射撃を開始したようだ。その水柱が崩れるよりも早く、敵艦の艦上に主砲発射の閃光が走る。前部に背負い式に配置された単装砲2門が射撃を開始したのだ。

 「Z31」が2度目の射撃を終えた時、敵弾が右舷艦首付近に弾着した。距離は遠く、驚異とは言えない。3度目の射撃を終えた時、艦を包み込むように多数の水柱が突き立った。敵の2,3,4番艦も砲撃に参加し、Z31を狙っているようだ。

 「Z31」の3射目も敵1番艦の手前に弾着する。第4射を撃つ前に、再び敵弾弾着に伴う複数の水柱がたつ。これはかなり近くに弾着したらしく、飛沫が前甲板に降りかかる。

「危ない危ない」

 艦長の呟きが聞こえてきた。ブリュンヒルトは黙って前方を見据える。敵駆逐艦4隻が前部2門の主砲を発射しながら近づいてくる。共に高速で接近しながらの射撃のため、命中弾を得るのは難しい。しかし敵艦が発射可能な主砲の数は、此方よりも優っている。僚艦は敵艦と同じく前部2門の主砲が発射可能だが、「Z31」は大型の主砲を採用した結果、前部に1門しか搭載できなかった。この1門の差がどうでるかは、神のみぞ知る、といったところか。

「8000メートル」

 射撃を開始した時点から互いの距離が半分まで縮まった。双方、命中弾を得ていない。15センチ砲弾、12センチ砲弾は、ただ海面を沸き返らせるだけだ。既に艦隊砲戦としては至近距離といってよいほどで、主砲の砲身はほぼ水平になっている。こうなると射界が広がり、命中率も高くなる。

「そろそろだな」

 艦長の呟きをブリュンヒルトは聞いた。

 敵味方双方の砲口が同時に火を噴き、褐色の煙が後方に流れる様がはっきりと見えた。音速の倍する速度で互いの砲弾が交錯する。続く発砲よりも先に、航進にともなう揺れとは違う衝撃が、「Z31」を震わせた。

 艦首付近に赤い火の玉が出現したかと思うと、鋭い爆発音と共に、前甲板の板材が空中高く舞い上がった。

「被害状況報せ!」

 艦長が大音声で下令するのと同時に、「敵1番艦に命中弾」と見張員からの報告が重なった。おそらくは僚艦の戦果だと思われるが、帝国側もただやられっぱなしではないことを証明したのだ。

「艦首甲板に命中1。錨鎖庫破損せるも、戦闘航行に支障なし」

 応急指揮官を兼任する航海長が、戦闘の喧噪に負けじと声を張り上げる。「了解」とだけ艦長は応えた。

 その間にも砲火の応酬は続いている。敵1番艦の艦上に続けざまに砲弾が命中する。小規模な爆発が連続し、火災が発生したのだろう、黒い煙を引きずり始めた。しかし敵1番艦は弱った様子を見せない。数秒おきに前部2門の主砲を発砲しながら、此方へと向かってくる。

「3000メートル」

 砲術長がその距離を読み上げた時、艦橋横から15センチ砲とは違った発砲音が伝わってきた。3.7センチ機関砲が発砲を開始したのだ。軽快な連射音と共に、曳光弾が赤い尾を曳きながら敵1番艦に殺到する。

 駆逐艦は小型の船体に戦艦ですら撃沈可能な魚雷を装備し、その機動力を活かして必殺の魚雷を撃ちこむべく、敵に肉薄する事が可能なように設計されている。軽量化の為に極力装甲板を薄くしているのだ。3.7センチ機関砲弾であっても、命中すれば大きなダメージを与えることができる。しかしそれは、「Z31」にも当てはまる。

 敵艦隊は既に右斜め前方2000メートルを通過中。最早真横に来ているようなものだ。敵艦の舷側に多数の光が明滅する。敵も機関砲を使用したのだ。

 思わず身が震えるような、空気を切り裂く音が聞こえてきた。同時に艦橋全体が鉄の棒で乱打するような音で包まれる。敵は艦橋を中心に狙っているようだ。

 何かが壊れるような、金属的な音が連続するなかで、艦長が呻き声を上げてその場に崩れ落ちる。

「艦長!」

 隣に控えていた砲術長が一声叫ぶと、艦長へ身を寄せる。ブリュンヒルトが周囲を確認すると、敵1番艦は既に視界から消え、2番艦が正横に見えていた。艦橋を囲む鉄板に複数の小さな穴があいている。敵の機銃弾が貫通したのだ。敵2番艦も後続する3,4番艦も機関砲を射撃しているのだろう。艦橋はまるで打ち鳴らされる鐘の中にいるかのようだ。

「司令! 艦長が……」

 非常灯の薄明かりの下でも分かる程、航海長の顔は青ざめていた。ブリュンヒルトは素早く2人の下へ駆け寄る。

 航海長の腕の中で、艦長は苦悶に顔を歪ませている。喉や胸元の動きから、まだ生きているようだ。後ろから「衛生兵!」と叫ぶマリウスの声が聞こえてくる。

「艦長、わたしの声が聞こえるか?」

 ブリュンヒルトは努めて冷静な声で語りかける。ここで自分が取り乱したら、戦闘の続行が困難になりかねない。

「し……れい、申し訳………ありません」

 艦長は乱れた息の中、ブリュンヒルトに応える。

「よい。これ以上喋るな。すぐに衛生兵が来る。なに、この程度の傷、すぐに治るさ。しばらく病院で余暇を楽しんでこい。海軍病院は綺麗な看護婦が看病してくれると、もっぱら評判だぞ?」

 艦長の回りにはみるみる血だまりが広がっていく。顔色も蝋人形のように白くなっていた。

「わたし……は、妻も子供も……いましてね。   それに……司令ほどの………美人が、それほど……居るとも思えません」

「なんだ? わたしを褒めても考課表の点数はあがらんぞ。 それだけ軽口がたたけるなら大丈夫だ。もう少しだけ辛抱しろ」

 艦長は震える唇で、笑みを浮かべると、

「司令………あとは、頼みます」

 と言うと意識を失った。同時に衛生兵が艦橋へ駆け込んできた。屈強な水兵が2人付き従っている。

 衛生兵は水兵に担架を作らせると、素早く艦長をそこへ寝かせ、ブリュンヒルトへ顔を向ける。

「艦長を、頼む」

 ブリュンヒルトの言葉に、衛生兵は敬礼をすると、足早に艦橋から出て行った。他にも負傷者がいたらしく、艦橋が少し広く感じられた。

 ブリュンヒルトはゆっくりと艦橋内を見渡す。皆一様に口を閉ざし、沈痛な表情を浮かべていた。そして彼等はブリュンヒルトをじっと見つめている。

 この艦内で最上級者は中佐である彼女なのだ。皆、ブリュンヒルトの言葉を待っているのだ。

「これより、わたしがこの艦の指揮を執る。 戦闘中だぞ、現状を報告せよ!」

 裂帛の気合いでもってブリュンヒルトが一喝すると、はじかれたように各々が職分を果たそうと動き出す。

「1番機銃座、沈黙。主砲は全門使用可能」

「機関に異常なし! 全力発揮可能」

「『Z35』、『Z43』、『Z44』、続航しています! 『Z44』に火災煙」

 各部から報告が上がり出す。

「『Z44』が……」

 「Z44」は単縦陣の殿にあたる。敵は航過する際、最も長時間狙える「Z44」に攻撃を集中したのだろう。

「後部見張りより艦橋へ。敵艦隊面舵。1、3番艦に火災発生中」

「『Z44』より通信。チェザーレ射撃不能。火災は鎮火の見込み。機関全力発揮可能、とのことです」

 その言葉を聞いてブリュンヒルトは頷く。

「まだまだやれるな。 全艦、このまま突っ切る! 我に続け!」

 多少やられもしたが、脱落する艦もなく、艦隊は目的地を目指して進撃できる。艦長が斃れたのは想定外だったが、ブリュンヒルトは巡洋艦の艦長を務めた経験もあり、不安は感じなかった。

 ふいに「敵艦! 左正横に6隻。 並びは巡1,駆5。 距離6000メートル!」と見張員からの報告がはいる。ブリュンヒルトが左を見ると、自分たちと併走する敵艦が見えた。

「直前に分かれた方か。しかも巡洋艦が相手、か……」

 ブリュンヒルトの呟きと「敵艦、発砲!」の報告が重なった。

「左砲戦。本艦と『Z35』は敵1番艦、『Z43』は敵2番艦。『Z44』目標敵3番艦!」

「目標、敵1番艦。射撃開始!」

 ブリュンヒルトが命令を下すと、砲術長が射撃指揮所へ下令する。眼前に見える1番砲が左舷側に旋回すると、砲身を持ち上げた。

 駆逐艦にとって巡洋艦は大敵だ。此方の2艦をもって相手取ると決めた。敵4番艦への攻撃は出来なくなるが、最も大きな脅威を排除することを優先する。

 「Z31」が主砲を発砲すると同時に、左舷に複数の水柱が突き立った。水柱の太さから、15センチクラスの砲弾だと分かる。

「敵巡洋艦はサウサンプトン級と認む」

 射撃指揮所からの報告に、ブリュンヒルトは眉を顰める。サウサンプトン級は15.2センチ砲を3連装4基、12門を装備する。毎分5発を発射できると仮定すると、1分間に70発の砲弾が降り注ぐ。命中率1割としても7発は命中する計算だ。装甲など無きに等しい駆逐艦にとって、それは恐怖以外のなにものでもない。

「掌雷長、雷撃は可能か」

 ブリュンヒルトは魚雷発射管制室への送話器に問うた。

「ご命令あれば、いつでもいけます。 使いますか、こいつを?」

 海軍に奉職して20年を超えるベテラン士官の、快活な答えが返ってきた。白髪交じりの髪を短く整え、良く日焼けした顔に立派な口髭を蓄えた男の顔を思い浮かべると、ブリュンヒルトの口元に自然と笑みが浮かんだ。

「状況次第では使う。その時に備えてくれ」

「了解」

 その遣り取りの間にも、敵弾が弾着する。今度のは、先程よりも近い。飛沫が甲板に降りかかるほどだ。敵の射撃は精度を増している。このままでは遠からず命中弾がでてしまうのでは―――そんな焦りがブリュンヒルトの首筋に、チリチリと電流を流されるような感覚を与える。

 15センチ単装砲3門の発砲と同時に、敵弾が弾着する。前甲板を挟んで4本の水柱が立ち、崩れた海水が艦体に降り注ぐ。

「挟叉された………」

 砲術長の呻き声が聞こえた。敵1番艦は3射目で「Z31」を射界に捕らえたのだ。これからは20秒程で12発の15.2センチ砲弾が「Z31」に降り注ぐ。

―――ここは勝負に出るべきか。

 ブリュンヒルトが歯を噛みしめた時、「後部見張より艦橋へ。『Z44』大火災。隊列から落伍していきます!」との報せが飛び込んできた。

 隊列の最後尾に位置する「Z44」は、敵3番艦を攻撃している。敵4、5番艦は何者にも邪魔されず「Z44」へ攻撃を集中できたはずだ。先の反抗戦の時点で5基の主砲塔のうち2基が使用不能となっていた「Z44」は、大きく攻撃力を削がれている。こうなるのは、時間の問題だった。

「『Z44』より通信。現在使用できうる主砲塔2基。第一罐室に浸水、出しうる速力20ノット。貴隊は我を顧みず作戦を遂行されたし。帝国と皇帝陛下に栄光あれ ――以上」

―――すまぬ。

 ブリュンヒルトは数秒目を瞑ると、顔を上げ、

「全艦取舵、進路300度。左魚雷戦用意! 距離2000メートルで雷撃する」

と大音声で下令した。

「取舵、300度 了解」

「左雷撃戦。距離2000メートルで雷撃します」

 航海長と砲術長が復唱し、砲術長は魚雷発射管制室への送話器に向かって指示をだす。

 操舵手が舵輪を反時計回りに回す。駆逐艦は舵の効きがよい。艦首が左に振れると、海面を弧状に切り裂きながら艦が左へと進路を変えてゆく。

 直後、多数の水柱が「Z31」を包み込んだ。敵巡洋艦の砲弾だ。大量の水飛沫によって視界を奪われたが、砲弾の命中に伴う衝撃は感じなかった。敵艦は「Z31」が直進すると睨んで、その未来位置に狙いを定めたのだろうが、「Z31」は転舵によってこれをかわすことに成功した形だ。

「危ない危ない」

 砲術長が額の汗を袖で拭いながら呟いた。

 左正横に見えていた敵艦隊が、正面に見えた。

「このまま突き進め!」

 ブリュンヒルトは右腕をまっすぐ前方の敵艦隊へと突き出すと、皆を鼓舞するよう叫んだ。艦橋内は、それぞれの思いを込めた声で包まれた。ある者は挑発的に。ある者は必死に。それらが一塊となって空気を震わせる。

 帝国海軍が装備するG7a型魚雷は、雷速44ノットに調定した場合6000メートルを馳走可能だ。つまり現海面で雷撃しても敵艦まで到達できる。だが6000メートルの遠距離から雷撃しても、命中は望み薄だ。「Z44」が脱落し、「Z31」「Z35」「Z43」はそれぞれ8本、合計24本しか魚雷は使えないのだ。必中を期すなら、敵艦へ肉薄するしかない。

 4000メートルを縮めるのに凡そ1分強かかる。実際は追いかける形になるので、1分半から2分ほどは掛かるだろう。隊列の先頭をゆく「Z31」に攻撃が集中するならば、中小口径砲弾が200発近く撃ち込まれることになる。圧倒的な弾量だ。

―――せめて、雷撃までは保ってくれ。

 ブリュンヒルトは懐中時計を持つ手に力を入れる。これは亡き父の形見だ。父が、きっと見守ってくれている。そう信じる事で、心を奮い立たせる。時計の針はあと数分で、日が昇る事を報せていた。


「敵4番艦、落伍します」

 王立海軍邀撃艦隊旗艦「バーミンガム」艦橋内に見張員の声が響く。艦橋内に安堵の溜息が漏れた。

「敵はあと3隻だ。気を緩めるな」

 マクミラン艦長は釘を刺すように言う。現状は確かに此方に有利だ。だが、何が起こるか分からないのが世の常だ。敵弾の1発が艦橋を直撃し、要員全員が戦死して形勢が逆転することだって、ないとは言い切れない。

―――敵は殲滅する。

 この1点について、彼は妥協しない。 マクミランが右正横の敵艦隊を凝視した時、「バーミンガム」の3連装4基12門の15.2センチ砲が発射される。30センチを超える戦艦の大砲に比べれば小さな砲だが、12門同時に発砲した時の轟音は、耳をつんざく程に強烈だ。基準排水量9100トンの艦体が、発射の反動で微かに震えるのが分かる。

「中るかな?」

 司令の呟きが聞こえた気がしたが、直後、

「敵艦隊取舵。此方に向かって来ます!」

「なんだと?」

 見張員の報告に、マクミランが応えた瞬間、敵1番艦が多数の水柱に包まれ、視界から消えた。

―――轟沈か。

 その期待は、そそり立つ水柱を突き崩すようにして敵艦が現れることで裏切られた。

 敵艦隊が突撃してくる。距離を詰めて命中率を上げるつもりか。それとも相打ち狙いか?

「艦長、敵は雷撃してくるぞ」

 司令の言葉に、マクミランは声を張り上げる。

「目標、敵1番艦。此方に近づけるな!」

「目標敵1番艦、了解。 射撃開始!」

 砲術長の復唱と同時に、「バーミンガム」の主砲が火を噴いた。照準調整用の各砲塔1門ずつによる交互撃方ではなく、最初からの斉射だ。敵の意図が雷撃ならば近づける訳にはいかない。圧倒的な火力で敵を牽制する方がよいと、砲術長は判断したのかもしれない。

「さすがは『ルサルカ』だ。 沈むなら我々諸共ということか?」

 司令の言葉にマクミランは応えない。

(この科学文明時代に、そのような迷信などナンセンスだ。貴様が死神のような存在だったとしても、人間である以上超常的な力などあるはずがない。貴様はただの人間だ。それを、このわたしが証明してやる)

 マクミランは、眼前に迫ってくる敵艦を睨み付けた。 視線でもって相手を殺すかのように。



 進路変更後の最初の敵弾は、左後方にまとまって落下したらしい。敵艦の発砲の様子から斉射を行ったようだが、照準がうまく定まっていないようだ。

「連中、こちらの意図を察したようだな。確実に命中させるより、牽制を優先したか?」

 ブリュンヒルトは不敵に笑った。雷撃の射点に到達するまで2分弱。此方にとっては永遠にも思える時間だが、相手にとっては僅か2分だ。2分間で我々を倒さなければ、今度は彼等が窮地に陥る。いちいち教範通りに命中精度をあげている暇はないはずだ。

「いけるか?」

 ブリュンヒルトは独語した。お互いが併走しての同航戦ならば、照準が定まれば比較的命中弾を得やすい。しかし刻々と相対位置が変化するこの状況では、一度撃つたびに照準調整をしなければならない。しかし、お互いの距離が近くなれば、それだけ命中させやすいのも確かだ。遠くの的を狙うより、近くの的に中てやすいのは、拳銃であっても大砲であっても変わらない真理だ。

 およそ10秒後、今度は前方に水柱が噴き上がる。今度も弾着位置は遠い。

 「Z31」もただ撃たれているわけではない。前方に指向可能な1番砲を負けじとばかりに発砲する。クルップ製48口径15センチ砲は、45.3キログラムの砲弾を初速875メートルで撃ちだし、22000メートルの射程をもつ。熟練の砲員ならば毎分8発を撃つことができる。

 しかし1番砲は単装のため、一度に1発しか撃てない。これでどれ程敵に打撃を与えることができるか疑問だが、こちらも牽制にはなる。撃たないよりも撃つほうが、遙かに有用なのだ。

 今度は右舷艦橋付近に敵弾が弾着する。今度は至近弾だ。艦橋の防弾硝子に飛沫がかかる。続けて左舷側に無数の水柱が立ち上げる。こちらは水柱の大きさから駆逐艦の小口径砲弾によるものだと分かる。敵は1番艦のみならず他の艦も「Z31」を狙っているようだ。

 三度水柱が衝き上がる。今度は左舷側の1番砲付近だ。舷側を擦らんばかりに大量の海水が噴き上がり、第一砲塔に瀧のように降りかかる。艦橋の幾人かが息をのむ気配が伝わってきた。

「敵距離5000メートル」

 射撃指揮所からの報告がスピーカーから響いたと同時に、衝撃に艦橋が震えた。

「敵弾、命中!」

「被害状況、報せ!」

 衝撃の大きさから、巡洋艦の15センチ砲ではなく、駆逐艦の12センチ砲だと分かる。「お返しだ」とばかりに1番砲が咆吼をあげた直後、先程とは比べものにならない強烈な衝撃が襲ってきた。伝説上の巨人が、手にした巨大なハンマーを打ち下ろしたかのようだ。金属が限界を超えてねじ曲がり、引き裂かれ絶叫をあげる。艦橋内の者達は後ろから突き飛ばされたように、前のめりになった。

 ブリュンヒルトは思わず唸り声をあげた。今の一撃は巡洋艦によるものだ。艦の重要部位が破壊されたのではないか―――そんな恐ろしい予感に肌が粟立つ。

「後部マスト倒壊、ブルーノ使用不能!」

 ダメージコントロールチームを束ねる運用長からの報告があがった。

 3基の主砲塔の内、1基が使用不能になったのは痛いが、まだ艦は全速で航進出来るし、最大の武器である魚雷も失われていない。

「まだまだだ」

 ブリュンヒルトは歯を食いしばり、前方の敵艦を睨む。敵艦の艦上には発砲に伴う光が明滅している。その度に「Z31」を海底へ引きずり込むべく、大量の砲弾が「Z31」へと殺到するのだ。

「敵距離3000メートル」

 視界の前後左右に多数の水柱が林立するが、あれから「Z31」への命中弾はない。一番砲塔はおよそ7秒毎の発砲を続け、艦は獲物の喉元を食い千切るがごとく、じりじりと間を詰めていく。

「どうした、ジョンブル共」

 ブリュンヒルトが唇の端をつり上げた時、後方から轟音が聞こえてきた。

―――何事か―――

 ブリュンヒルトが後方へ視線を向けようとした時、

「『Z35』、轟沈!」

 見張員の絶叫が聞こえてきた。

 「Z35」は隊列の2番艦の位置にあった。おそらく魚雷発射管に敵弾が命中、誘爆したものと思われた。

 G7a魚雷に充填されている280キログラムの炸薬は、大型艦の艦腹に大穴を穿つ威力をもつ。それらが一度期に連鎖爆発を起こせば艦体の小さな駆逐艦など、ひとたまりもなく粉砕されてしまったに違いない。一瞬にして300人以上の将兵が戦死してしまったのだ。

 何よりも、これで残った2艦合計16本の魚雷しか撃てない。命中率の低さを数でカバーするのが難しくなってしまった。敵の砲撃の精度が増しているのも問題だ。このままでは射点につくまでに、艦隊が全滅するおそれもある。

(ここで撃つか)

 そんな考えがブリュンヒルトの脳裏に浮かんだ時、艦橋前で発砲を続けていた1番砲塔が閃光に包まれた。ブリュンヒルトが目を見開いた瞬間、彼女は強烈な衝撃に突き飛ばされた。


―――どのくらいの時間が経ったのか?

 薄暗い視界のなか、ぼんやりとブリュンヒルトはそんな事を考えていた。

 体が重い。………何かが覆い被さっているかのような。

「う………」

 起き上がろうと腕に力をこめた時、自分を覆っているものに気がついた。

「副官?」

 顔を上げると、マリウス・ツェンダー軍曹が心配そうな表情で此方を見ていた。その右の額から頬にかけて血が流れている。

「気がつきましたか。どこか体に異常はないですか、お嬢」

「……ああ、大丈夫なようだ。それとマリウス、軍務中にわたしの事を お嬢 と呼ぶなと何度言ったら分かるんだ」

「申し訳ありません。つい、癖で」

 ブリュンヒルトは小さく溜息をつくと、「わたしの事よりも自分の心配をしろ。顔が血だらけじゃないか」と言った。

「大した傷ではありません。頭部は血管が多いですから、小さな傷でも出血が多く見えるのです。わたしの傷よりもお嬢……司令が無事でよかった。何かあれば先代に顔向けできませんから」

「まったく………」ブリュンヒルトは前方を見やった。

 艦橋の一部が大きく裂け、そこから外を見ることができた。これほどの被害を受けながら、生きていることが奇跡のように思える。そして前甲板の第1砲塔のあった場所はくず鉄の堆積と化している様が見えた。黒煙が涌きだしているが、大きな火災が起きている様には見えない。

「アントンがやられたか………誘爆が起こらなかったのは幸いだな」

「弾庫への注水が上手くいきました。運用長の手腕ですよ」

 15センチ砲弾といえど一度期に爆発すれば、艦体に大きな被害をもたらす。最悪艦体が切断され、沈没する。

「艦は……まだいけそうだな」

 「Z31」周辺には敵弾落下に伴う水柱が林立している。その中を「Z31」は速度を落とすことなく突き進んでいる。周囲の喧噪のなか、力強い機関の音がはっきりと聞こえる。

―――まだやれる。まだ闘える。

 「Z31」がそう雄叫びを上げているようだった。

「敵距離2000メートル!」

 射撃指揮所からの声がスピーカーから流れた瞬間、ブリュンヒルトは後方から光が差し込んでくるのを感じた。

「面舵!進路260度。魚雷、撃ち方はじめ! その後指示あるまで直進せよ!」

 ブリュンヒルトは、声を張り上げた。



 水平線から差し込んできた光に「バーミンガム」艦長マクミラン中佐は目を細めた。

「夜明けか。太陽が昇る」

 この季節にしては珍しく、雲が少ない。遮るもののない空に、曙光が周囲を照らし出す。

「敵艦、面舵」

 見張員からの言葉に、マクミランは敵艦を見ようとする。しかし、まるで海面が鏡のように太陽光を反射して、敵艦隊の視認を妨げる。

 だが敵の意図は明らかだ。

「撃て! 敵に魚雷を発射させるな!」

 艦長の命令に砲術長が応え、測的手が測的を始めようとする。

「レーダー測的、不能」

 レーダー員が忌々しげに報告する。

 この時期のレーダーは近距離の目標を探知しようとすると、電波が海面で乱反射し、それがノイズとなって画面が乱れ探知が困難になる。この問題は戦後検波技術が向上するまで解決しなかった。

 そこで従来の光学測的を行おうとするのだが、これは乱暴に言えば望遠鏡で太陽を直接見るようなもので、そんなことをすれば目がダメージを受けてしまう。レンズ部分のスリットの開閉によって入射光量を調整はできるが、そもそも主砲用測距儀は太陽のある上空を見上げるような状況を想定していない。

 結果的に邀撃艦隊の対応が遅れた。発砲を再開するまでに、1分近い時間を要したのである。

「敵艦隊、面舵。離脱していきます」

 見張員の報告に、マクミランは敵が魚雷を発射したのだと判断した。だが見たところ敵艦は2隻。帝国の駆逐艦がどの程度の魚雷を搭載しているかは不明だが、20本を超えることはない、と判断した。魚雷の命中率を考えれば、命中雷数は1本あるかないか、だと。

「逃がすな! 面舵、奴らを―――」

「全艦、右一斉回頭! 魚雷に正対せよ!」

 マクミランの命令に覆い被せるようにして、司令が大音声で下令した。

 マクミランは司令の顔を凝視した。 敵艦を覆滅できる好機をみすみす逃すつもりか―――と、抗議の視線を向けたのだ。

―――それも2秒足らずで終えた。マクミランは視線を正面に向けると、

「面舵一杯、魚雷に正対せよ!」

 と命令を下した。舵手が「面舵一杯」と言いながら舵輪を時計回りに回す。

(敵を沈めるのも大切だが、艦を守るのも重要だ。勝てる戦で功名にはしり、無為に艦を喪ってはならない。 大丈夫だ。軽巡は重巡に比べて舵の効きが早い。魚雷を回避できる)

 司令はそう心の中で思考を巡らす。敵は此方へ肉薄して魚雷を放った。魚雷到達までの時間は短いだろう。―――それでも、彼は間に合うと思っていた。

 操舵手が舵輪を回して数秒が経ち、「バーミンガム」の艦首が右側へと振った直後、2番砲塔付近の右舷側に大きな水柱が屹立した。

 ややくぐもった爆音が響き、「バーミンガム」の艦体が寒さに震えるかのように振動した。艦橋では、多くの者がよろめき、近くの物で体を支える者もいた。

「命中?」

 マクミランは信じられない、といった表情で水柱が崩れ落ちるのを見つめるばかりである。そうしていると今度は艦橋後方から爆音が聞こえ、後方からの強烈な振動にマクミランは艦長席に寄りかかるようにして、辛うじて転倒を免れた。

 「バーミンガム」は速度を落としながら、緩やかに右側に回頭を続けている。

「おのれ……!」

 マクミランが怨嗟の声を放つ。1万トンに満たない軽巡洋艦が2発もの魚雷を喰らったのだ。無事で済むはずがない。惰性で前進していた艦が停止する頃には、艦が僅かに右舷側に傾いていた。ダメージコントロールチームが必死に防水処置を施しているのだろうが、艦の傾きは徐々に増している。

「『クルセーダー』にも魚雷命中。行き足止まりました」

 見張員からの報告に、司令は肩を落とす。

(敵ははじめからこれを狙っていたのか? だとしたら、見事としか言いようがない)

 たった2隻の駆逐艦の雷撃で、3本もの魚雷を命中させるとは、尋常ではない。敵の指揮官は本国では「戦乙女」などと呼ばれているらしいが、彼女は本当に神に護られ、祝福されているのでは―――遠く離れてゆく敵艦の姿を見つめながら、彼はそう思っていた。


「魚雷、3本命中を確認!」

 見張員の弾んだ声に、「Z31」艦橋内が歓声に包まれた。

「やりましたな」

 マリウスの言葉に、ブリュンヒルトは頷いた。

「運が良かった。絶妙なタイミングだった。ある程度は作戦を考えていたのだが、ここまで見事に嵌るとは思ってもいなかった」

「そういえば、連中反撃も回避もしませんでしたな。一体何が………」

 マリウスは首を捻っている。ブリュンヒルトはそれを見て笑みを浮かべる。

「全ては水平線に現れた太陽のお陰。彼等は一時的に目くらましを喰らった状態だったの。海面が朝日を反射して目が眩み、魚雷発射のタイミングと航跡を視認できなかった。それで回避が遅れた」

「タイミング……。そうか、司令が魚雷発射後も敵艦隊と併走したのも………」

「そう。実際は突撃から面舵をとった時点で魚雷を発射したのだけれど、ここで1分程度敵と併走し、離脱した。連中は我々が離脱する瞬間に魚雷を放ったと勘違いしたみたいね」

 つまり、双方が把握する魚雷発射の時間に1分の差が生じた。遠距離ならばあまり影響はないが、2000メートルという至近距離では大きな意味をもつ。双方が30ノットを超える速さで航走しているので、自身のスクリュー音に紛れて魚雷のスクリュー音は聞き分けづらく、ソナーマンも魚雷の存在を察知できなかったのだろう。

「あの距離で敵と併走すると仰ったときには、正気を疑いましたが、まさかそんな意図があったとは」

 マリウスが苦笑する。

「大なる敵に相対するは、奇道をもってせよ、だったか。東洋の兵法書にあったような気がするけれど………。今回はうまくいったようね」

 実際ブリュンヒルトは小艦隊で出撃するにあたり、策を講じてきた。出港の時期を前日夕刻にしたのも、戦闘海面を検討・選定し、夜明けに会敵する為だった。また幸運にも敵艦隊に捕捉されなかった場合、敵軍港に突入するのは夜更けになるように。

―――全ては生還率を高めるためだった。

「それで、このまま敵の軍港に突入しますか?」

 航海長が質問すると、ブリュンヒルトは一度首を振り、

「いや……進路を90度にとり、帰投する」

 と告げた。

「帰投……? 作戦目標を達せずに引き返すというのですか?!」

 負傷した左肩を押さえながら、砲術長が声をあげた。声音に非難が混ざっている。

「戦力が半減し、魚雷を使用したため個艦の戦闘力も落ちている。このまま敵軍港へ突入しても、戦果をあげることは無理だろう」

 そもそもの前提からして無理なのだ。大艦隊がひしめく敵陣へ少数が切り込んだとて、船団に辿り着く前に殲滅されてしまう。

 これは、言わば「アリバイ作り」なのだ。

 栄えある帝国海軍は最期まで勇壮に戦ったのだ、という実績作り。或いは見栄か?

 そのようなもののために、部下を死地に追い遣るのは、ブリュンヒルトとしても避けたかったが、自分がやらなければ、別の誰かが貧乏くじを引かされる。

 たった4隻の駆逐艦で、倍以上の敵と戦い損害を与えたのなら、上出来と言ってよいだろう。

「―――もう十分だろう」

 航海長やこの場にいる大部分の将兵の憤りも理解できる。 ―――だが。

「これ以上の戦闘は無意味と判断する。諸君の中には、ここで戦いをやめるのならば仲間達は何の為に傷つき斃れたのか、と憤る者も居るだろう。だがここは堪えて欲しい。彼等の死は決して無駄ではない。怨敵たるジョンブル共に我らは一矢報いた。帝国海軍ここに在り、と知らしめたのだ。まだ帝国には戦う力が残っている。帝国は簡単には呑まれない、それを彼等は思い知っただろう。これは負けではない。我らは誇りを胸に凱旋するのだ」

 ブリュンヒルトは宣教師が説法するように、一語一語ゆっくりとそして厳かに言った。

 それを聞いた者達は、俯き、ある者は落涙を隠せない。すすり泣きの声も聞こえてきた。

 ブリュンヒルトも目を伏せ、小さく吐息した。半分以上は詭弁であるが、説得はできただろうか? それに自分には部下の命に責任がある。ここで無駄死にさせるわけにはいかないのだ。

「よし。それでは針路を90度にとり、帰投する。 速力第4戦速」

「了解。面舵、針路90度。速度第4戦速」

 自身の想いと折り合いがついたのか、航海長は声を張り上げ、操舵手と機関長へと指示を出す。

 用が済んだ以上、現海面に留まる理由はない。敵の追撃をうける前に離脱するのだ。 航海長がその職分を果たそうとしたことにより、艦橋内の将兵も己が職務を遂行すべく動き出す。先程までの鬱々とした空気が一掃され、再び活気が甦った。

「司令、『Z44』はどうしますか」

 マリウスが問うてきた。緒戦で落伍した「Z44」は恐らく避退はしたであろうが、激戦の最中ではそれを確かめる余裕はなかった。

 するとタイミングを計ったかのように、伝令がブリュンヒルトへと駆け寄った。激戦を物語るように、彼は全身煤けていた。伝令は踵を打ち鳴らし、敬礼をすると、ブリュンヒルトに紙片を渡した。

「『Z44』からの電報を持ってまいりました」

「『Z44』から……」

 ブリュンヒルトは紙片を受け取り、その内容に目を通した。

「発、『Z44』艦長ヒューゲル大尉。宛、艦隊司令官殿。 ―――我、敵艦隊の反転進行を確認。これより迎撃を敢行す。この一戦に於ける我が艦将兵は帝国へ身を捧げる覚悟。その意気は中天を衝く。例え砲1門となりとも弾の尽きるまで、弾が尽きれば我が身を弾として戦うに躊躇なし。帝国と帝国海軍の栄光と繁栄を祈る。○四五○」

 敢えてブリュンヒルトはその文面を声に出して読んだ。

「ヒューゲル艦長………!」

 艦橋内から息を呑む気配がする。

「『Z44』はたった一隻で……」

 マリウスが唸るように言う。

「○四五○は、我々が敵第2艦隊と戦闘を開始した頃だな。反航した敵第1艦隊との挟撃を受けなかったのは、『Z44』の奮戦のお陰である」

 ブリュンヒルトはそっと目を伏せた。ヒューゲル艦長は背丈はブリュンヒルトよりやや高い位の小柄な男ではあるが、がっしりとした体格は周囲を圧倒するほどに存在感がある。金髪で髭は生やさず、少年のように澄んだ青い瞳が印象的だった。駆逐艦の艦長らしく声は大きく、ことある毎に快活な笑い声をあげる。正に陽気な船乗りといった風情だった。

「済まん、な」

 ブリュンヒルトは胸中で呟くと、ぐっと腹に力をいれた。

「艦隊はこのまま敵を振り切って帰還する。『Z44』の献身を無駄にするな!」


「まったく、やってくれたな」

 王立海軍駆逐艦「コメット」艦長 トーマス・ストリング少佐は戦闘艦橋から周辺海面を見つつ、溜息をついた。

 ストリングは本隊から分離した第2邀撃艦隊4隻の駆逐艦長の中で最先任であり、臨時の指揮官を務めている。

 当初の作戦では、帝国軍艦隊と反航戦を行った後、反転追躡し主隊と挟撃、撃滅するというものだった。

 最初の反航戦で敵駆逐艦1隻を大破炎上せしめたのは、予定外の戦果だった。望外の喜びを噛みしめつつ面舵をきった第2邀撃艦隊はそこで思わぬ反撃を受ける。

 主隊との戦闘で落伍した敵駆逐艦が攻撃を加えてきたのだ。艦の後部から黒煙を噴出しつつも、敵艦は矢継ぎ早に射弾を放ってきた。その砲撃は手傷を負っているとは思えないほど激しく、且つ精確だった。

 敵は先頭をゆく「シグニット」に狙いを定め、「シグニット」は瞬く間に上部構造物を破壊され、大火災を起こした。そればかりでなく魚雷まで放ち、艦長を含めた幹部が戦死した「シグニット」は回避が間に合わず被雷、行き足が止まった。

 残った「コメット」「クルセーダー」「クレセント」は敵駆逐艦に攻撃を集中し、敵艦が沈黙したのは砲門を開いてから30分後のことだった。

 敵魚雷の回避によって隊列は乱れ、結局追撃が遅れた。王立海軍は貴重な30分を失い、帝国海軍は得難い30分をものにした。後の戦況を知ったストリングはそう強く感じた。

 「シグニット」は戦闘終了後間もなく右舷へ大傾斜し転覆、沈没した。敵艦は浮かんではいるが、各所から炎が吹き出し、真っ黒な煙をあげている。

 ストリングはやむなく「クルセーダー」「クレセント」に対し溺者救助を、自艦には周辺警戒をすることを命じた。


 周囲には多数のカッターやボートが浮かび、海に投げ出された人々を救助している。

 差し出されたロープや櫂に掴まる者、自力では救助艇に乗り込むことが出来ず、海から押し上げ、艇からは引っ張り上げられる者。投げ渡された樽や浮き輪に身を委ねぐったりしている者。

「大丈夫だ!直ぐに助けてやる!」や「水が冷たい。早く引き上げないと死ぬぞ!」等々、海上は喧噪で溢れかえっている。

 その様子を見ながらストリングは、

「帝国兵も全力で助けるんだ。彼等は最後まで戦った勇士だ。勇士には礼を持って接しなければ王立海軍の名折れだぞ」

 と副官に言う。 ストリングは所謂「古き良き時代」の軍人だ。戦争は機械がやるものではなく、人と人とが誇りを持って戦うもの。そこにある「騎士道」を信じている。古くさい、旧人類であると言われても、この信念は変わらない。戦争は野蛮な行為だ。では、何を持ってしてそこに信義をもたらすのか?それは最終的には人間性ではないかと思う。自分を信じ、相手を敬まわなければ動物の殺し合いと変わらないのではないか?

 程なくして通信室から

「レーダーに反応あり。数は2。針路・真方位85度、距離27300ヤード(約25000メートル)。速力25ノット」

 との報告があがる。

「敵でしょうか?」

 副官の問いに、ストリングは頷いた。

「針路、数からみて間違いないだろう。彼等は撤退しているのだ」

(2隻ということは、主隊は敵を1隻沈めたのか)

「追撃をかけますか?」

 砲術長の問いかけにストリングは頭を振った。

「溺者を放っておくことは出来ん。それに今からでは追いつくことは困難だろう。下手に深入りして帝国軍の領域に入ってしまえば、反撃され此方がやられてしまう危険がある。主隊にしても、旗艦は航行不能、1隻は沈没したというから、戦力的にも厳しい」

「惜しいですな」

 砲術長は溜息を吐いた。ストリングは眼前で黒煙をあげる敵艦を見て、

「全てはあの敵艦の所為だ。たった1隻で我らを翻弄してくれたのだから。戦局は最早見えているが、やはり帝国海軍侮り難し、だな」

 と嘆息した。

 ストリングは東方へ向けて双眼望遠鏡を掲げる。丸い視界の中、水平線上にうっすらと黒煙らしきものが見えた。罐の排気煙か、火災の煙か。何れにしても敵艦を肉眼では見いだすことは出来なかった。

(帝国の現状では軍は征くも地獄、退くも地獄だろう。あの艦隊を率いている者が誰かは分からんが、倍以上の敵と渡り合った勇士だ。部下の命を優先し撤退を選んだ勇気は賞賛するべきだろう。敵であるわたしがこう思うのは不謹慎だろうが、願わくば帝国軍には”彼”に寛大な扱いをして欲しい)

 ストリングは胸中でそう思いながら、しばし敵艦の消えた海を眺めていた。



 ―――後に「第三次北海海戦」と呼称される戦いで帝国海軍「義勇遊撃艦隊」は、2隻の喪失と引き替えに王立海軍の巡洋艦1隻大破、駆逐艦2隻撃沈の戦果をあげた。しかし戦略目的である輸送船団への攻撃は叶わず撤退したことで、この作戦は失敗であり帝国軍の敗北と断言できる。

 この艦隊を率いたのは、ブリュンヒルト・ゲーア・フォン・エーデルシュタイン中佐である。彼女は作戦失敗の責任を負う覚悟であったようだが、帝国は彼女を大佐に昇進させ、プール・ル・メリット勲章を授けた。更にこの作戦に参加した将兵総てに一級鉄十字章を授与した。

 帝国は戦果のみを誇張し、敗北とは発表しなかった。エーデルシュタイン大佐はプロパガンダに利用されたのである。


 そしてこれが帝国が将兵に授与した最後の勲章となった。


       王立海軍戦略情報部戦史編纂室刊行「欧州大戦の推移および考察」より抜粋    』


<了>

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帝国海軍最後の出撃 陸奥長門 @mutu_nagato

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