最終話
崩壊した世界をぼくはひた走っていた。
履きつぶしたスニーカーのかかとに地面からいやな衝撃が伝わって痛みに体勢を崩す。アスファルトほど走ることに向いていない地面はない。君がもしもランニングを始めたいというのならなるべくアスファルトを走るのは避けたほうが良い。皇居ランナーというのは実際のところ考えものだ。けれど現実問題としてこの日本の都会にアスファルト以外で舗装された地面がどれだけあるのだろう? だから結局はランニングマシンで走るのがもっとも良いという結論が導き出される。いっさい変わらない景色にさえ目をつぶれれば。
アスファルトには亀裂が走っていてあちらこちらで隆起したそれが乗用車を持ち上げている。一瞥する限りでは車内に人はいない。車を一つ残していったいどこにいったのか。この先の見えない状況で車をあっさりと見捨てられる人はそうそういるように思えない。
あるいは……。
ぼくには車内を覗き込む勇気はなかった。
視線をそらす。
車の窓ガラスには赤色がべっとりと塗りたくられていた。
崩壊したビル群を横目にぼくは考える。いったい世界になにがあったのか? あるいは起こっているのか?
ぼくには大地震にみまわれた経験はないが、しかしこの惨状は間違いなくそれ以上の規模に違いなかった。
スマホの電波状況ははホテルで目覚めたときからずっと圏外を示し続けていた。ラジオやテレビからもぼくはまだ情報を入手していない。いや、確認したくないのかもしれない。もしもラジオやテレビといった媒体がすでに機能していなかったら。あるいはそこで、この惨状の規模がぼくがいま予想しているものに相当することを知ってしまったら。
少しだけ前の話をしよう。エレベーターを降りたぼくはまず心と身体の両方を撹拌するかのような衝撃に襲われ、それから昔なつかしな電話ボックスに吐き出された。ぼくは笑った。電話ボックスからタイムスリップ、そんなアイデアの映画を昔見た記憶があるが、現代でそれをやるのはあまりにもチープすぎやしないだろうか。
ただし電話ボックスは地面に埋もれて傾いていた。だから扉も容易には開かず、結局ぼくはボックスのガラスを割って外へ出る羽目になった。後の光景は最初に述べたとおりだ。
いったいどれだけ走ったのだろう。
時間間隔が曖昧だ。
長いこと走っている気がするが、はっきりとした時間はわからない。もしかすると二、三分なのかもしれないし、あるいは二時間も三時間も走っているのかもしれない。
走るたび、振動がぼくから何かをこぼれ落とさせていく。
すべて振り落とすつもりでぼくは走る。
走り出してからいままで人間を一度も見ていない。まさか目覚めたら人間が絶滅しているとかそういう話ではないはずだ。たしかに姿こそ見ていないものの、少し前まで人間がここにいたのだという生の息吹のようなものはたしかに感じる。ぼくがその姿をいまだ見ていないのは、単にすでにみんなどこか遠くへ避難してしまったということなのだろう。
しかし、そうするとぼくはいったいどれだけの時間をあのホテルで過ごしたのだろう? 公園で気絶してから八時間、それからもう一度寝直したが時間の経過はほぼほぼそれだけのはずだ。しかし目の前の光景がそのわずかな時間で作られたと信じることはぼくにはできなかった。もし本当にそれだけの時間で世界がこのように様変わりしたのだとしたら、その災害の規模はいかなるものだったのか?
いったい、これから社会はどうなるのか。
人間はどうなるのか。
種の存続にかかわる本能的な恐怖がぼくを襲う。
それほどまでに目の前の惨状はひどいものだった。ことごとく建築物が倒壊し、木が倒れ、日常が散乱している。この町はたいして栄えているわけではなく、所狭しと高層ビルが立ち並んでいるというわけではない。それでこの状況ならば、都心のほうはいったいどうなっているのか?
誰かが使っていたのであろうマグカップが足元で砕ける、テレビは砂嵐を流すこともなくただ横たわっている、ネズミの死体とカラスの死体が寄り添って寝ている、トタン屋根はせんべいみたいに粉々に砕けて、熟成されたシングルモルトウイスキーが長い年月を地面にぶちまけて、どこかの誰かの肖像画が青空と向き合っている。
とうてい、ぼくには人類がもとの安寧を取り戻すことができるようには思えなかった。
「ああああああああああぁ!」
ただ叫ぶ。
そうする他ない。
叫び、走る。
余計なことは考えなくていい。
ただ、ユイのことだけを。
そうだ、世界なんてどうでもいい。
そうだろ?
そのとおり。
だからぼくは走る。瓦礫にけつまづいて転びそうになり、それでも立ち止まらない。足をひねったようで激痛が足首から頭に抜けた。関係ない。状況に応じて人体は必要なものを都合よく自給自足できるようになっているらしく、走っていればエンドルフィンやら何やらといった神経伝達物質が痛みを曖昧模糊にしてくれる。痛み止めなんてものは必要ない。
そうだ、そのまますべて曖昧にしてしまえばいい。
痛みだけなんてケチくさいことは言わずすべてを煙に巻いてくれ。
ぼくを作り変えてくれればいい。眼前のこと以外はなにもわからない盲目の信徒に。
瞬間、世界が明滅した。
フラッシュが網膜をつんざく。
目をつむる。世界が激しく揺れている。体を前かがみにし両足を広げて踏ん張るが、あまりに激しい揺れはぼくを容易に大地から引き剥がし、ぼくはなすすべもなく地面に倒れ込む。世界が波打つ。大地と空とが撹拌される。
今までぎりぎりの均衡を保って屹立していたのであろう常緑樹がこちらに倒れ込んでくる。体が反応しない。ぼくの反射神経はあまり優れていないようだ。とにかく必死になって頭を抱える。一瞬のち、常緑樹はぼくの前方一メートル半くらいのところに勢いよく横たわった。木の葉や枝が吹き上がってぼくに降りかかり、顔を伏せてそれらから顔を守る。ばさん! と木の倒れ込む音は存外間抜けなもので、それはダンボールかなにかの束を地面に投げたかのような間抜けな感を帯びていた。
遠くから建物のアスファルトが剥がれる音がする。
ただでさえめちゃくちゃになっている世界がさらに崩壊していくのがわかる。
世界が調和を諦めていく。
揺れによる被害を示す音とは別に、きいいいいんと耳障りな金切り音がしていることにぼくは気がつく。よく考えれば、モスキート音にも似たそれは視界の明滅した瞬間から鳴り出していた気がするが、初めはあまり大きくなかったため気が付かなかったのだろう。しかしその音量は時間を追うごとに加速度的に大きくなっていって、やっとのことでぼくは気がつく。
頭が割れそうに痛い。耳をふさぐがさしたる効果は感じない。そもそも空気を振動させて伝播するぼくらのよく知っている『音』とこの『音』とはまったくの別物なのかもしれない。
しかし、これが天使の笛の音だとすれば、天界の音楽の趣味はずいぶんと悪い。
ぼくは揺れと音が収まるのをじっと待った。
「……」
三〇秒ほどして揺れが収まり、ぼくは起き上がる。
揺れは凄まじかったものの、所詮は余震のようなものであって、せいぜいがもともと倒れかけていた低木を倒すくらいの規模でしかないようだった。周りを見渡しても先ほどに比べてさらに被害が深刻になっていたりはしない。地面に伏せていれば無傷で済むような規模だ。
いや、それとももうすでに世界が崩壊しきっているからこそ変化のないように感じられるのか。
立ち並ぶ住宅はことごとく崩壊し、地面は盛り上がってまともに歩くこともままならず、人の姿は見えない。このあたりに他に失われる余地のあるものなどほとんど残っていないのだ。
しかし、それでも先に……進まなくてはならない。
走り出さなければならない。
ぼくはまた走り出す。走るためのステップを忠実に踏んでいく。まず第一に腕を振り上げる。次にアスファルトを蹴り上げて体を持ち上げる。そして次のステップでぼくは漫画みたいに見事にすっ転んだ。痛みにうなりながら地面に座り込み、靴を脱ぐ。ひねった足首は赤黒く腫れ上がって痛みを示していた。
痛い。
ああ、くそ。
痛い、痛い。
どうしたらいいんだろう?
走らなくちゃいけない。それだけがはっきりしていることだ。ぼくはとにかく走らなくちゃいけない。余計なことは必要ない。なのにぼくはもう走れないのかもしれない。立ち上がるのもやっとなほどの痛みなのだ。けれどどうしたらいいのかもわからない。ただの中学生がこんな痛みになれているわけがないしその対処法に精通しているわけもない。
テーピングかなにかをしたほうがいいのだろうと何となく思う。漫画やらで献身的なキャラが自分の服を破って怪我をした人間にテーピングをほどこす。そんな場面からの連想だった。Tシャツに手をかける。丈夫な綿で作られたTシャツは刃物でもないと破れそうになかった。だいいちこんな状況でTシャツやらズボンやらの布を切り取って肌をむき出しにするのは得策ではないだろう。ぼくは上のTシャツごとインナーを脱いでまたTシャツだけを着て、それからインナーを適当に半分にちぎってから足首に巻きつけ始める。インナーシャツなんかがテープのかわりになるのかぼくにはわからない。たぶんならないのだろう。それでもやらないよりはマシだとぼくは仮定してとにかくグルグルと足を保護し、それから靴を履き直す。
立ち上がる。
とんとんとつま先で地面を叩く。が、痛みが和らいだりはしていなかった。まあ……そんなものだろう。普通の中学生なんてものは……。ただし、時間が経ったことによってある程度痛みが落ち着いてはいた。
ぼくはまだ走れるのだろうか?
軽く地面を蹴る。とたんに激痛が走った。思わず声が漏れるほどの激痛。とうてい走ることなんてできないであろうレベルの痛み。これならば走れるだろうとぼくは判断する。
足が動くならば何も問題はないのだ。最終的には意思の問題だし、それに選択は意思によってしかなされないのだ。足を持ち上げまた下げる。ただその繰り返しを選択し続けるだけだ。ただそれだけだ。なにもかもが関係ない。どうでもいい。走ればいい。
なにができるのかはわからない。痛めた足をテーピングすることすらできない。それでもぼくはユイのもとへ行く。今はなにも考えなくていい。ただ足を動かせばいい。どうなったっていい。後のことは考えなくていい。
風が強い。不安定な体幹は容易に風に崩されそうになる。雨こそ降ってはいないものの暴風雨のごとく強さだ。地面のぬかるみから考えるに、ぼくが眠っていた間に雨も降ったのかもしれないが、はっきりとしたことはわからない。
走る。
気を失いそうな痛みだ。どうでもいい。
町はあまりにも瓦解していた。ニ階建てのアパートも三階建てのマンションも圧倒的な力の前にどれも平屋へとその様相を一変させている。だからびくはいま自分がどこを走っているのかいまいちわかっていない。おそらく駅のロータリーのほうへ向かっているのだという予感はあるものの、町の姿は変わりすぎてしまっていた。
だけどぼくは見つけてしまう。
目の前で完成に数ヶ月を要するレベルのジグソーパズルみたいになっている一軒の平屋。その瓦礫の山に交じるこれまた瓦屋根の、どこか見慣れた感じ。記憶にある色合いのフローリング。そしてよく知る長テーブル……。
ぼくは顔をそむけた。
あのコーヒーの香りから、あらゆるぼくに関係する関係から。
目をそらさなくてはならない。走らなくてはならない。
ぼくは。
ああ――
ぼくは非情にはなれない。
タイムスリップが刻々と迫ってきているのはわかる。
関係に拘泥しているわけにはいかないこともわかる。
けど、できない。
「ああ、くそ……」
ミコちゃんとそのおじいさんの死体があの瓦礫の下に埋もれてるとは考えられない。この結論には希望的観測が多分に含まれているのは否めないが、ここに来るまでの道で人の死体を一つたりとも見ていないことからも、町全体で避難はある程度上手く行ったのだと想定してもいんだろう。あるいは、人の死体が残らないような特殊性がこの震災にはあるのかもしれない……が、そこまで考慮していてはきりがない。
とにかく、この場で二人が死んではいないという証拠がぼくは欲しかった。
瓦礫の山をどかしながらその中核へ進む。
まもなく、ぼくは瓦礫の下にミコちゃんの身につけていたブラウスが埋もれているのを発見する。
「……」
なにも言うことなどない。あれからずっと同じブラウスを彼女が着ていたとは限らないし、あたりには他の衣服もいくつか見受けられる。だからこれが彼女たちの死亡を決定づける証拠にはならない。
だからぼくにできるのはただ祈ることしかない。
今いる位置からわずかに離れた場所に、プラスチックのさやに納められた小ぶりのキッチンナイフをぼくは発見した。ブラウスを瓦礫にそっと置き去り、ぼくは立ち上がってそれを拾う。さやからナイフを取り出す。刃に反射させて、ぼくは自分の表情を確認する。
そしてぼくは走り出す。
駅のロータリーにユイはいた。
小ぶりだが、いつしか世界には雨が降り出していた。地面から立ち上るペトリコールが鼻をつく。
ロータリーの真ん中、いや、以前まではロータリーだったが今では瓦礫の山でしかないその場所に、ユイはぺたりと座り込んでいる。雨が彼女を濡らしている。
瓦礫の山はユイの座り込む中央に向かうにつれて高く積み上がっていき、ちょうどそれは円錐台の形状になっていた。山の頂点、平たくなったそこへユイは玉座に座るかのごとく腰を下ろしている。彼女のためだけに作られた特等席。彼女のためだけの世界。この瓦礫の山はその象徴のように思えた。
「……」
ぼくはただじっとユイを見つめる。ユイもまた、ぼくを見つめる。
長い静寂が続くうち、雲の切れ目から月が顔をのぞかせた。
月光。
彼女の一人舞台を、ほのかな月光と小ぶりの雨が演出する。しだいに舞台が整えられていく。
けれど劇はもう終わった。たったいま。
だから、今から始まるのは劇の続きなんかではない。
それは陳腐でくだらぬカーテンコールだ。場末のちんけな一人芝居、そういうものだ。
この劇において、ぼくはいったいどんな役目を担ってきたのだろう?
すぐに結論する。ぼくはユイの兄だ。わかることはただそれだけだ。
まったく陳腐で凡百な物語だった。この物語はあまりに個人的なもので、ぼくと彼女だけのお話で、そして小さかった。この物語においてあらゆる事象はコンパクトにまとまって世界ですらもぼくと彼女の関係に終止した。これはそういう物語だ。
しかしこれはたしかに物語だ。だから、終わりの引き金は誰かが引かなくちゃいけない。
物語は終わることでしか物語たり得ないのだから。
フラッシュ。
消失。
ぼくがここへたどり着いてから世界の崩壊は加速度的に進んでいっている。もはや揺れは起きていない。だけど何か言いようのない力が世界に働いているのをぼくは感じている。きっと遠くのどこかではビルが倒壊を続け、海や川なども荒れ狂っていることだろう。それは想像でしかない。けれど想像した時点でその可能性はたしかに世界に生まれるのだし、おそらく実際にそうなのだ。
雷が落ちる。ユイのたたずむ瓦礫の山を囲うようにいくつもの雷が落ちる。
ぼくは瓦礫の山に足を踏み入れた。おそらくあまりに時間はない。
フラッシュ。
電波の悪いテレビのように場面は細切れに飛ばされて進む。
雷が落ちる。
火が上がる。
高周波の音がやかましく鳴り響いて、世界のすべてが崩壊していく。
ぼくはユイのもとへ近づく。
雷。火。
風が強く吹き、火の粉が洋服の綿を焦がした。
フラッシュ。ぼくはまた一歩ユイへ近づく。
あたり中を火が囲ってしまい、もう後戻りはできないように見える。
風が吹く。まるでガソリンでもまかれているみたいに火が急速に広がる。
ユイがこちらを見ている。
超いもうと。 舞山いたる @Nanashi0415
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