第32話
ぼくがライターで火をつけると毛布はじんわりと、しかしたしかに火の手を回されていってしだいに黒煙を上げ始めた。煙は上方に溜まりやすい。ぼくはシーツを引きちぎった布片を口にあて地面に伏せていて、すぐに火災報知器が目論見どおり黒煙に反応し、オートドアのパニックオープン機構が作動する。
静かに開かれたドアからぼくは転がるように廊下へ出る。
けはっとぼくはひとつ咳をする。少なからず室内で煙を吸ってしまったのだろう。
そこでぼくは気づく。火をつけて脱出を図るところまでは考えていたものの、その後の対処にまでは考えが思い至っていなかったことにだ。つまりはつけた火をどうするかということである。火元の毛布はもはや多少はたいたところで火の手を緩めることはないであろうことが容易に予想されるほど盛大に燃えていた。それはもう燃えていた。廊下には分からないが、スプリンクラーなども室内には設置されていないようだ。
どうしよう。
端的にそう思った。
「どうしよう」
口に出すことで改めて焦りが芽生えてくる。いっそ放置してしまうか? 誰かが何とかしてくれることを期待して?
しかしすべては杞憂に終わる。先ほどまで廊下と室内を隔てるドアがあったその空間、そこで黒煙が不自然にせき止められるのを見たことによって。
「なんだ、これ」
つぶやきはドアの再び閉まる音によってかき消される。
ぼくはドアノブをつかむ。鍵はかかっていないようで、あっさりと扉は開く。
室内はまるで掃除を終えた直後のように綺麗に整頓されていた。
「……」
ぼくは目の前から目をそらすかのように自分の飛び出してきた廊下にようやく目を向けた。
ぼくたちの部屋は突き当りの位置にあるようだった。左を向くと、廊下は長く長くどこまでも伸びている。途中に他の客室の一つもなく、電灯以外に飾りもなく、ただ無機質な廊下がどこまでも。
不自然と超常はあくまでぼくを掴んで離さないようだった。
「どうなっているんだ……」
ぼくは廊下の壁面をおそるおそる触ってみる。つるつるとしていて病院のものを思い出す感触だ。そういえば、廊下にただよう匂いもどこか病院のものを思い出す。消毒剤の混じったあまり快くはない空気感……。何の飾り気もない点も、それを強く連想させた。
とにかくぼくは歩き出す。
トンテンカンと足音を響かせ、何事もないただの散歩のように歩みを進める。
廊下には本当に窓一つなくてそれどころか換気扇すら見当たらない。いったいどうやって空気を入れ替えているのだろう? と一瞬疑問に思うが、さっきの現象を思い起こして考えるだけ無駄だと結論づける。何が起きたっておかしくはないし、どんな原理が働いていたって不思議ではないのだ。
廊下は無限に続くかのように思われた。進んでも進んでも終わりは見えない。また何かしら不思議な作用が働いているのかとも思われたが、今回はただ単に廊下があまりにも膨大な長さを有しているというだけだったようで、しばらくしてエレベーターをぼくは視界に捉える。
エレベーターの扉の前に立つ。廊下の壁面や床と同じく無機質な印象を受けるデザインだ。まるで外界と無菌室を隔てる扉のようだ、とぼくは思う。親切な案内板はそこにはない。ここが何回であるのかもわからない。これをじっと見ていてわかることなど何もないのだろう。実際に乗ってみる以外には。
ぼくは丸形の何の刻印もされていないボタンを押す。すると何かしらが作動する気配こそしたものの、エレベーターはなかなかやってこない。どうしたのだろうか? いや、もしかするとこれはエレベーターではないのかもしれない。限りなくエレベーターに見えるだけの別の何かなのかもしれない。馬鹿げた考えだろうか? しかしありえないことではないのだ。世界は意識の集合だ。ならばこのエレベーターのように見える何かがエレベーターでないとぼくが選択するならばその可能性はそこに間違いなく存在するのだ。
ぼくは待ち続ける。廊下に音はない。どこか遠くからエレベーターの下る、あるいは上っているのであろう音がかすかに聞こえてくる気がするが、それも一メートルの距離を隔てた蚊の羽音のごとき音量で、もしかするとぼくの軽い耳鳴りなのかもしれない程度のものだ。何か絵画でも壁にかざっていたらそれを見て暇を潰すのだけどそんなものはない。せめてポケットにコインでも入っていればそれを数えることもできるが残念なことに衣服以外にはぼくに手持ちのものはない。
だからぼくはただ待ち続けるしかない。壁に背をつけてただ待つことしかできない。そうして待っているといつの間にかエレベーターが到着しているが、一寸経ってからぼくはそのことに気がつく。
あわててエレベーターに乗り込む。
エレベーターの中もまた廊下と同じくひたすらに無機質な印象を抱かせる作りだった。壁に模様がないことや手すりの一つもないことは問題ではない。もっともぼくを落ち着かなくさせたのは丸形のボタン以外なにも設置されていない操作盤のその異質さだった。いや、それは操作盤とは呼べないかもしれない。他のエレベーターの操作盤と同じくドアの真横に位置してはいるものの、操作盤と壁面を隔てるための凹凸も色の違いもデザインの違いもなくボタンだけがただそこにポツンと置かれている様は得体のしれない不気味さをぼくに印象づけた。
エレベーター内は予想していたよりもひどく狭かった。廊下の突き当りからエレベーターまでの膨大な距離からエレベーターの内部もまた相応の広さがあると思っていたのだが、予想に反してその広さはむしろ平均を下回るのではないかと思うほどだった。四、五人程度なら乗れないことはないだろう。しかしまったくの余裕をもってこのエレベーターを利用するならばそれに適した人数はせいぜい二人といったところではないだろうか。
はじめに軽くGがかかった後、エレベーターが動き出す。エレベーターが上に動いているのか下に動いているのか、ぼくは体感覚でそれを突き止めようと集中する。しかしぼくはすぐに集中を途切れさせた。おそらくだがエレベーターは上に登っているのだろう。それなりの速度でエレベーターが上昇なり下降をしていたならば分からなかっただろうが、エレベーターの到着するまでの時間を思えばあまり速度は出ていないはずだ。だからたぶん上に登っているのだろうなとは分かる。しかしそれに何の意味があるのだろう? 超常が通常として起こりうるこの状況で、上や下といった言葉に何の意味があるのだろう。上が下で下が上であっても、上が左で○で×でAでBでXでYでもおかしくはないのだ。
だからぼくはただ運ばれる。今いったいぼくがどこに運ばれているのかは分からない。しかしとにかく運ばれている。もしかするとこのエレベーターはノアの方舟で扉が開くと世界は滅んでいるのかも知れない。ぼくはたわむれに想像力を発揮して、それからけっしてその怖ろしい想像がありえないことではないのだと気がついてしまう。
「……」
あまり余計なことを考えるのはやめたほうがいいのかもしれない。意識が世界を規定するならばそういった悪い想像をすることに利点があるとは思えない。
ぼくはエレベーターのことだけを考えることにする。思考の焦点を限りなくしぼる。
視力の悪い人がよく見えない黒板を見るときに目を細めるようなものだ。そうすると視界はほんの少しだけクリアになる。
ぼくはただ待つ。
思考はぐるぐると環状に脳内を巡りめぐり、終着点は見えない。
それでもいつかは終わりは来る。このエレベーターに関してもそれは当てはめられるし、そして、もっと大きな物語が終わろうとしているのをぼくは感じていた。
ぼくの物語が終わろうとしているのを感じていた。ぼくたちの。
いや、それは大きな物語ではない。
これは小さな物語だ。
ぼくたち二人についての極々個人的な物語。きっとこれはそういうものなのだ。
結局何事もぼくは分かっていない。いったい何が起きているのかぼくには分からない。そしてそれはきっと明らかにはならない。おぼろげな予感がぼくにはあった。おぼろげだが、しかし確信的な予感。
ぼくたちの物語は何か別の大きなものを救うことにつながるのかもしれない。あるいは滅ぼすことになるのかもしれない。どちらにせよどうでもいいことだ。きっと二つに違いはあまりない。
それからなんの前兆もなく扉は開いてぼくと世界とは再接続される。
音もなくするすると。
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