第31話

「少し、買い出しに行ってきます」と出し抜けにユイは言った。昼下がりのことだった。

「買い出し?」

「今朝食べたぶんで食料ももう無くなってしまったので」

 ぼくはユイが冷蔵庫を開閉する様子をのぞき見た記憶を振り返った。たしかに冷蔵庫のなかにあまり食料は潤沢ではなかった気がしたが、あくまで気がするだけだ。しかし本当に食料の備蓄が少なくなっているかなんてささいなことだ。ホテルの朝食などはないのか、そもそもどうして食料が必要なのか、そもそもどうしてこの部屋にいなければならないのか、疑問は山程ある。

 けれど疑問に答えをだすのは今ではない。この瞬間に肝要なことはぼくがユイの言葉を受け入れるかどうかだ。答えはあとから付いてくるのかもしれないし付いてこないのかもしれない。真実は現象だ。得られるべき真実があるならば答えは自ずと導き出され、そして示される。

 選択。いまぼくにできるのはそれのみだ。

「わかった」とぼくは言う。

「予備のカードキーは机の上に置いていきます」

「カードキー?」

「出入りに必要ですから、なくさないようにしてください」とユイは言った。どこか言葉にはぼくに対してと同時にユイ自身をも安心させようとするような響きがあった。

「うん」とぼくは言った。「わかった」

「では」

 カードキーをかざし、ドアを開けて部屋を出ていこうとするユイの言葉は簡潔だった。ぼくは静かに彼女を見送った。ユイの姿がドアの向こうへ消えていく。ぼくはまばたきもせず眼前の光景を視界にとらえていた。ちらりと見えた廊下からはリノリウム張りらしい床が見えただけで他の情報は得られなかったし、ぼくたちの部屋の向かい側には別室はなかった。そんなことはどうでもよかった。

 ユイはゆっくりと、しかしたしかにぼくの前から姿を消した。

 ぼくは部屋にひとりたたずみ、しばらくしてベッドに転がってみたり、手持ちぶさたを感じて歌を歌ったりして、ひとつ息を吐き、それから冷蔵庫の中身を確認し、一週間ほどは余裕があるであろう食料の備蓄を目にした。


.脱出


 ユイが残した予備のカードキーとやらにドアはいかなる反応も示さなかった。

 狙ってやったわけではなく、中の磁気にたまたま不具合が起こっているのだという可能性もあったが、この部屋に閉じ込められているのだという事実に変わりはなかった。

 そしてここにユイはいない。それもまた事実だ。

 そうしてぼくは今更ながらに部屋の調査を開始した。

 部屋は前にも述べたとおりまったくもって普通の一室だ。二〇平米くらいで、ホテルとしての最低限の機能を備えるばかり。それはホテルのワンルームというよりはホテルのワンルームのオブジェ、モデルルームといった様相を呈していた。あるいは本当にそうなのかもしれない。

 思えば初めから違和感はあった。この一室は妙に綺麗すぎた。整頓されすぎていた。まるで今このためだけに作られ、これまで一度も使われたことがないかのように。

 ぼくは壁にかかった薄緑色のカーテンをさっと全開にする。さすがに塵ひとつ存在しないとはいかず、わずかに布に溜まったハウスダストが空中に舞い、弱いながらもアレルギーを持っているぼくはくしゃみを一つする。

 カーテンの奥に窓はない。本来、カーテンは窓にかかっているべきであり窓にはカーテンがかかっているべきである。しかしここでその「べき」は履行されなかった。その事実はいったい何を示すのだろう?

 ぼくは結論づける。つまり、これは「ホテルとしてのホテル」ではない、仮にホテルと呼ばれているに過ぎないものなのだ。

 これはホテルではない。その事実は瞬間いくつもの可能性に蓋をする。ぼくは壁際にかけられたルームサービスを呼ぶダイアルを手にとるが、ツー……タンツー……タン……返答の気配はない。念の為もう一度同じ動作を繰り返すが、変わらずだ。

 改めてドアを観察する。堅牢なそれにはドアノブこそ付いているものの外から干渉できるような鎖錠機構は見当たらない。オートロックなのだから当たり前だ。だから針金を差し込んで数秒めでたくご開帳、というわけにはいかない。第一針金があったところで現実に素人にピッキングなんてできるわけがない。たぶん。

 ならどうすればいい?

 ぼくは考える。そして考えながらも動く。謎を解くためには何より現場調査と証拠収集が必要だ。まったく、ぼくに安楽椅子探偵は務まりそうにない。

 ドア以外に出入り口はなし。隠し通路や階段がある可能性は否定できないが、それは今現在のぼくの手によって開通できるものではないだろう。そうでなければわざわざぼくをこの部屋に閉じ込めた意味が無い。そしてさっきも確かめたとおり窓は塞がれていて(そもそも壁の向こうに空が広がっている保証すらない)通りようがない。いつだか読んだ小説にて、主人公の泊まるホテルの一室を町の異常者たちが襲い、主人公は彼らから逃れるため窓から隣家の屋根へ逃れていた。けれど、それも窓が窓として機能していればこその話だ。今の状況に当てはめられるものではない。第一ぼくの身体能力で小説や映画の真似ができるかも怪しいところだ。火事のさいにシーツをロープ代わりにして助かったというような話もよく聞くけど、降りるべき階下は窓に映っていない。

「……」

 手詰まりだ。出入り口が一つしかなくて、それが塞がっていればどうしようもない。あとは破壊を試みるくらいか。しかしスチールで作られているのであろうドアはどれだけ時間をかけようが破壊できそうにない。

「まあ、試してみてもいいか……」

 やる前から諦めても仕方が無い。ぼくは手ごろな鈍器を探して、しかしすぐにこの部屋にそんなものはないことに気づき、ドアに体当たりし、足で蹴り飛ばしても当然傷一つ付かないことを確認し、「くそっ」いらだち紛れに声を上げる。自分が思っている以上にぼくは焦っているのだろう。

 冷静になれ、とぼくはぼくに命令する。ベッドに腰を下ろし仰向けにマットレスへ倒れ込む。全身の力が抜け、筋肉が弛緩するのを感じた。緊張が背中を抜けてベッドに染みていくような感覚。同時に意識までもが緩まりそうになり、ぼくは危機感を覚えて慌てて身体を起こそうとした。まさかこの状況で眠ってしまうわけにはいかない。

 そこでぼくは気がつく。

 天井に取り付けられたオーソドックスな形状の火災報知器。けして特別なものではない。しかし火災報知器に違いはない。

 それならば。と、ぼくの中にひとつのアイデアが生まれる。

 しかしそれは一種のかけだ。

 はたして本当にぼくの予想する通りにドアが作動するかは分からない。消防設備にも防災システムにもぼくは詳しくない。まったくの門外漢といっていいし、それにぼくは物を知らない。ぼくはまだ幼さを捨てきれていない。

 ぼくは部屋を散策し、すぐにミラーの備え付けられたシンプルなデスクの上にライターを発見する。このライターが今ここにあるのは偶然なのだろうか、とぼくは思う。そこに思惑があるとしてそれは必然なのだろうか。願いは蓋然性に関係するのだろうか。

 しかし今目の前にライターが存在すること、それだけは確かだ。ならばそれで充分だろう。そうだろ? そのとおり。

 彼女の元へ行くために、ユイを助けるために、必要なものなんてない。何一つとして。

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