第30話

 ぼくは歩きだした。歩きだしたはいいものの、どこに向かえばいいのかはわからなかった。

 ひとまずぼくは最後に自分がいたと記憶する場所に戻ることにした。

 あの公園のことだ。

 ミコちゃんの家は公園からだいたい二〇分ほどの位置にあったようだった。これは幸運なことだった。公園で気を失って気がつけば北海道から九州へ、みたいなレベルの遠距離旅行をしている可能性だって大いにあったのだ。それこそ目を覚ませば地球の裏側だったとしても不思議ではなかった。事態はいまや超常的な様相を呈してきているのだと流石のぼくも察せてきている。察せてはいるが、ただしぼくの適応能力は低い。ブラジルで目覚めるようなことがなくてよかったというのが素直な思いだった。

 公園にもどってきたが現場の状況に変わりはなかった。あたりには昨日と変わらない光景がただ広がっている。しかしその事実には、ただひとつ彼女の姿がここにないことは除かれていた。

 なんとはなしにぼくは公園をうろついた。ぼくはなにかが見つかることを期待しているのかもしれない。見つかればどんなにいいだろう。しかしそれが見つかることはないのだとぼくは知っていた。知っているのだということを認めるのはあまりにも難しいことだった。けれど最終的には認めるしかなかった。ぼくは彼女の生を諦めたのだ。

 一息つくことにし、ぼくは自動販売機で微糖の缶コーヒーを購入した。

 冷たいそれを手のひらにぼくはベンチへ座る。プルタブを引っ張るとシュコタンと気持ちのいい音がしてコーヒーの香りが立ち上った。しかしミコちゃんの家でもコーヒーを一杯飲んだのだし、ずいぶんとカフェインを多く摂取してしまっている気がする。そういえばあのサンドイッチはうまかった。

 思いを巡らせながらコーヒーを一口のみ、次の瞬間ぼくは気絶した。鈍器かなにかでぼくの頭を殴った音はプルタブを起こす音とは違ってずいぶんと鈍いものだった。


 目を覚ますとホテルの一室だった。

 そこは変哲のないビジネスホテルの一室といった様子をしていた。殺風景で、寝泊まりするだけの最低限の機能だけをただ備えたという印象だ。広さはだいたい二〇平米といったところだろう。無造作に置かれた一台のテレビに、エアコン、冷蔵庫、デスク。窓にはカーテンがかかっていて、しかし光の侵入はいっさいない。掃除が行き届いていて家具もよく整頓されている。ゆっくりと上半身を起こすとベッドはスプリングをきしませてぼくの体重に応えた。ベッドサイドのテーブルには北欧風のランプがあって、常夜灯としてあわく暖色の光を放っている。後頭部には鈍く痛みがあって意識はだるく重い。まるで濁色のフィルターが意識の通り道に設置されているようだった。

 まったくもって普通の一室であった。なにも特徴はなかった。なにも。ただし、それはぼくの横たわるベッドからわずかに距離をあけて設置されたもうひとつのベッドにユイが寝ていることを除いたらの話だった。

「ユイ」とぼくは思わず声をあげた。ユイ。

 しかし彼女は深く眠っていて、ぼくが小さく声をあげただけでは目覚めることはなかった。

「ユイ」とぼくはふたたび言った。さっきよりも少しだけ声量はあがっていた。

 ぼくは思わず頭を振った。目の前に広がるのはあまりにも現実感のない光景だった。それからぼくはまだシャンとしない目元をこすった。手に伝わる感触から目頭に目やにが溜まっているのが感じられた。そういえば長らく顔を洗っていないことにぼくは気づいた。ミコちゃんの家でも洗っていなかったはずだ。途端、ぼくは今すぐ顔を洗いたくなった。払いようのない衝動がぼくを包んでいた。

 ぼくは立ち上がると洗面所にむかった。ホテルらしくユニットバスとなっていて、あまり広くないスペースに風呂、洗面所、トイレが一体となって設置されている。ぬるま湯がでてくるのを待たずにぼくは冷水で顔を洗った。ひどく冷たかったが、熟した意識は急速に冷やされそして鋭敏に研がれた。

 顔を洗っていなかっただけではなく、髪も体ももうずいぶんと洗っていないはずだ。しかしさすがにこれからシャワーを浴びる気にはならなかった。もちろん本音からいえば浴びたかったが、状況はぼくの欲求を折りたたんで戸棚に押し込んでしまった。

 ぼくは部屋にもどり、ユイは目を覚ましている。

 ぼくは言った。「おはよう」

「おはようございます」

「ええと……」ぼくは言葉を探した。いつだってその捜し物は困難だった。言うべき言葉をぼくはいつだって見つけられずにいた。「久しぶり」

「お久しぶりです」とぼくの言葉にユイは返答した。まるで自動応答システムの文言のようにユイはぼくの言葉に丁寧に返事をした。「よく眠れましたか」

「うん……でも、いったい何時間眠ってたんだろう」

「八時間くらいでしょうか」

「八時間」とぼくはユイの言葉を繰り返した。八時間。どうやら最近のぼくはずいぶんとロングスリーパーな傾向にあるようだった。寝てばかりで、起きている時間はあまりにも少ない。いや、正確には寝てるというより気絶していたのだけど。「となると、もう外はだいぶ暗くなってるのかな」

「そうですね。たいていの人がそろそろ寝るような時間だと思います」

「ぼくたちは今目覚めたわけだけど」

「見事に昼夜逆転してます」とユイは少しだけおちゃらけて言った。あまりに表情に変化はなかったが、たぶんおちゃらけているのだろうとぼくには感じられた。ユイは続けていった。「でも、すみません。私はもう少しだけ寝かせてもらいます」

「え?」

「疲れているんです。こんなにゆっくりと眠れるのは久しぶりで」

「それは……」いったいどういう意味なんだろう。訊こうとして、しかし言うやいなやたちまち布団をかぶってもう一度眠りについたユイにそれ以上の言葉を投げかけることは難しかった。なによりぼく自身、頭の中を整理することが必要だった。

 つまり、ぼくたちには互いに時間が必要だった。

「おやすみ」とぼくは言った。そしてもう一度寝ることにした。


 ふたたび目覚めたぼくたちは朝食をとることにした。

 ホテルの朝食があるのではと予想していたが、どうやら食事はユイがすでに用意していたようだった。というわけでぼくたちはコンビニの弁当を朝食とした。オーソドックスな幕の内弁当。冷めきったそれは朝食に食べるには少し重かった。テーブルは我が家のものと比べればとても小さく、向かい合ってすわっていたものの妙に距離が近くて違和感を覚えた。とにかくぼくたちは朝食をとった。いつもどおり。でも本当にぼくが食べたものが朝食なのかはわからない。目覚めたとき、時計はたしかに八時を指し示していた。ただしぼくがカーテンをひくとそこには窓はなかった。代わりにあったのは無機質なコンクリートの壁だ。だからぼくはまだ太陽の光を確認していないし、本当に太陽がすでに昇っているのかもわからなかった。どうして本来ならば窓があったであろう場所がコンクリートで埋められているのかも不明だった。

 きっとユイはそのすべての疑問にたいして答えを持っているのだろう。

 けれどぼくはひとつもユイに質問のたぐいを行わなかった。ぼくたちは普段のように食事をとった。質問をしたところでユイはきっと答えてはくれない。それをぼくはわかっていた。しかしそれだけではなかった。ぼくたちはいつもどおりでいたかったのだ。

 食事をとり、それから部屋にそなえつけのテレビをつけた。くだらないニュース番組は今日も不祥事やらなんやらと雑談の種を国民に提供していた。どうでもいいと思った。適当にチャンネルをザッピングするとペットの愛らしい姿を紹介するようなコーナーが目に入ったのでそれを視聴することにした。モニターの中でトイプードルは旺盛にしっぽを振って飼い主に甘えていて、ふと番組の左上に目をやれば、テレビの時間表示は九時を伝えていた。とはいえこれが真実なのかはわからない。しかし、まあ、それもニュース番組同様にどうでもいいことだった。今はただこうしていたいと思った。横目にうつるユイの表情はいつもどおり愛らしいペットの映像を前にしてつまらなさげだった。

 ぼくたちはだらだらと無為な時間を過ごした。番組が一つ終わる。次の番組が始まった。気軽に見ることのできる昼前の情報番組といった様子だった。メインキャスターがタイトルコールのあと、今日の日付を大きく叫ぶ。

 そこでぼくは気づく。

 今日はユイの誕生日だ。本当に表示された日付が正しい日付であればの話ではあるが。

 ああ。

 ぼくは頭を抱えたい気分と顔をあわせた。いったい大事なことをいくつ忘れたらぼくは気が済むんだろう?

 プレゼントなんて当然用意していない。

 しかし用意がないなら用意すればいい。ぼくは言った。「少しでかけたいんだけど」

 ぼくの要求に対してユイはこちらを向いて黙っていた。その様子はなにかを言いたげにも見えた。

 なにか?

 考えようと思った。ユイの見せたその様子について、黙っている理由について。

 ぼくはユイと向き合ってゆっくりと考え込んだ。あせる必要はなかった。二人の間に流れる時間には余裕があった。そしてぼくはひとつの結論に達し、ユイに向かって言った。「いや、やっぱりやめておくよ」

「そうですか」とユイは返事をした。

 たぶん、これでいい。ぼくはそう感じた。根拠はなかった。

「あと、誕生日おめでとう」

「……ああ、そういえば、誕生日でしたね」とユイは言った。「すっかり忘れていました」

 淡々と言い放つユイの声音は優しいものだった。おそらく。

「うん。だから、おめでとう」

「ありがとうございます」

「ええと……」とぼくは言葉に迷った。言葉を続けようとしたけれどすぐには目的のものは見つからなかった。「今日でいくつになるんだろう」

「一三です」

「一三」とぼくはつぶやいた。なんらかの意味をこめたつぶやきではなかった。ぼくはただ事実を確認するためにつぶやいた。

 ユイは今日、一三才になった。

 世界はそのようにある。

「いくつだったんだっけ」とぼくは訊いた。

「いくつ、とは?」

「ぼくたちが、はじめて会った時。ユイは何才だったっけ?」

「……よく覚えていません」

「一一才だっけ」

「さあ」

「自分の年齢のことなのに……」

「時間なんて流れないほうが嬉しいですから」とユイは言った。「あまり気にしないようにしてきました」

 ぼくはなにも言わない。

「ずっとこのままなら、それが一番なのに」とユイは続けて言った。「いつだってそう思ってしまいます」

 時よ留まれ、おまえは美しい――

 いつかのどこかで誰かはそう記した。誰だっただろうか。ぼくは記憶をさぐってみるけれど記憶は川底で小石にまぎれて見つからない。ただそのフレーズを取り出すことだけがぼくにできる精一杯のことだった。それしかぼくにはできなかった。けれど、ぼくはぼくにできることだけをやっていけばいいのだ。

「うん」とぼくは言った。「本当に」

「本当って、なにが本当なんですか」

「同じことを言いたかった」

「……そうですか」

「うん」

「言葉にしてください」

「恥ずかしいんだけど」とぼくは言った。端的に恥ずかしかった。

「いいじゃないですか」とユイは珍しくねだるような口調で言った。

「……ずっとこのままでいたいって」とぼくは観念する。「そう思うよ。本当に」

「そうですか」

「……うん」

 そうしてユイは「えへ」と少しだけ微笑むと、またテレビに向き直った。ぼくもまたユイにならった。

 テレビはいまだに日常のちょっとした事件を紹介し続けている。

 部屋に日光はない。代わりにあるのはLEDの光だ。

 部屋に自然の風はない。代わりにあるのはクーラーの弱風だ。

 今日はユイの誕生日なのに、この場にはケーキどころかプレゼントのたぐいすら存在しない。

 ぼくたち二人のあいだに弾んだ会話はあまり起こらない。テレビスピーカーのほうがよっぽど楽しげに会話を垂れ流している。

 ぼくたち二人はただ無為に時間を過ごす。消費する。

 意味はない。生産性はない。

 ひとりでに横たわる時間以外はなにもない。

 そしていま、この時は、あまりに美しかった。

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