第29話

 目が覚めてまず働いたのは視覚だった。ところどころにシミの見受けられる知らない天井。それから皮膚感覚はぼくが毛布のようなものにくるまれて横になっていることを示し、味覚は口の中に広がる血の味を鋭敏に感じ取った。意識がゆったりと立ち上がりコーヒーの匂いがどこからか流れてきているのを認識した瞬間、「気がついたみたいですね」という声をぼくは聞き取り、そしてそれはあの電車で出会った少女の声だった。

 などということはなく、ぼくを見下ろしているのは老齢のおじいさんであった。

 世界はそのようにある。

「ええと」とぼくはどうしたらいいか分からずまごついた。

「起き上がれそうですか?」

「ええ、はい」と答え、ぼくは上体を起こし、どうやら自分はベッドに寝かされているようだとそこで気づく。とはいえそれで困惑が晴れるわけでもなくぼくは次の動作に迷う。手の置き場すらわからない。貧血で力が入らなくなったみたいに両手をもごもごとさせ、結果として、ぼくは右手で前髪を抑えてみた。なにやら考え込んでいるような雰囲気を出してみる。じつに気絶明けっぽい動作だとぼくは思った。ただし左手は相変わらず待ちぼうけをくらっていた。

 せっかく頭に手をやったのでぼくは頭を使ってみる。思考を整理する。記憶はたしかだ。夢を見ていたような気分ではあるが、しかし起こったことすべてをぼくはしっかりと覚えている。

 ぼくはすべてを覚えている。ぼくが見聞きしたことに関しては。

 たぶん。

「しかし、ご病気かなにかでしょうか」

「なんですって?」とぼくは聞き返す。病気? 誰が?

「あなたがうわごとのように言ってらしたのでしょう」

「ぼくはいったいどうしていたんですか」

「今にも気を失いそうな様子で、家の軒先にいらっしゃったのです」

「……」

 思い起こす。たしか、ぼくは公園にいたはずだ。いつの間にぼくは移動したのだろう?

 あるいは、移動させられたのだろう。

「覚えてらっしゃらないのですか」

「ええ、はい」

「まあ、無理もありません。ずいぶんと朦朧としていたようですから」

「ぼくは何を言っていたのですか」

「体調が優れないのだと、それから少し休ませてほしいのだと。救急車を呼ぼうかと訊ねると、それは必要ないと返されたそうです」

「そうですか……」いまだ完全に理解はできていなかったが、しかし自分の知らない自分の行動についていつまでも思い悩んでいても仕方がない。「どうも、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしています」

「そうですね。私はべつに親切を極めた人間というわけではありません。救急車など必要ないのなら、落ち着き次第お帰りいただければ助かります」

「……すみません」

「それに、お礼なら私ではなく孫に言っていただきたい。私はあなたを直接助けたわけではありませんから」

「え?」とぼくは思わず声をもらす。「あなたが助けてくれたのではないのですか」

「はじめからそんなことは言っていません。私は孫から聞いた説明をただあなたに伝えただけです」

「孫?」

「ええ」

「なるほど」

 言われてぼくは納得する。目の前の老体には、人間一人を抱えて運び、寝かせる、というのは重労働であろうと思われたからだ。老齢でかつ壮健な人間だってたくさんいるが、少なくとも目の前の老人はまさに枯れ木という容姿をしていた。風にも折れそうだし、殴れば殺せそうだった。

 ぼくは今更になって身構える。目の前の老人が本当にただ善良な存在だとは限らない。

 組織だとか、なんだとか、ぼくたちを取り巻く訳のわからない何やら。

 彼がそれに関係していないとは断言できない。むしろ、前後不覚に陥っていたと思われるぼくをこうして拉致監禁しているのだと考えるほうが自然であるとすら思えた。拉致監禁というには手ぬるい環境だが、それもぼくを油断させるためかもしれない。……油断。何のために? ぼくは気絶していたというのに。

 やはり順当に考えれば老人はただの親切な一市民としか思えなかった。少なくともぼくには。

 ただし。それはそのようにぼくが答えを出す、そこまでを含めた策略なのかもしれないという可能性から目をそむければの話だ。

「ええと、それで。その方はどこに?」

「向こうでなにか食事を用意しているようです……いま呼んできましょう。あなたが気がついたことも知らせないといけない」

「ああ、では、お願いします」

 とぼくが答えたと同時、今までこの場になかった声色があがる。「あ、起きたんですか?」

 声のする方に目を向けるとそこには電車で出会ったあの少女がいる。

 ぼくはつぶやく。「驚いた」

 世界はそのようにある。


「神田ミコといいます。巫女じゃありません。ミコです」というのは電車で出会った少女がぼくに行った名乗りだ。彼女の名前は神田ミコ。神田という名字はおそらく神田でいいのだろうと思うが、ミコという名前がどういう漢字をしているのかはわからない。とにかく彼女はミコというらしい。それだけは確かだ。「それで、なんてお名前なんですか?」

 三秒ほどぼくは少女が自分に名前を尋ねているのだということに気がつかなかった。それからゆっくりと彼女の言葉を認識してぼくは答える。「……佐々木」

「佐々木?」

「うん」

「下の名前は?」

「ええと……」

「まあ、めんどくさいのでお兄さんって呼びますね」

「いや、それは」

「どうしたんですか?」

「お兄さんって呼ばれるのは、なんというか……」なんだろう?

「嫌ですか?」

「そういうわけではないけど」

「ではなんとお呼びすれば?」

「お兄ちゃんならまだ許せるかもしれない」

「嫌です」

「そりゃそうだよね」ぼくは何を言っているんだ。「なんでもいいよ」

「では、お兄さんと呼びます」

「うん」

 そのように話はまとまる。

 互いの呼称というのは人と人の関係性において多大な影響を及ぼす。つまりこれはなかなかに重大な決定といえた。

「とりあえず食事にしましょう」とミコちゃんが言う。

 ぼくたちはリビングの食卓に向かい合って座っている。食卓にはコーヒーと、ベーコン・レタス・卵をトーストではさんだものが並んでいた。できたてらしく湯気が立っている。うまそうだとぼくは素直に思った。

 そこでぼくは自分がひどく空腹であることにはじめて気がつく。

 時計は八時半を指し示している。記憶が正しければ、あの公園にいたのは昼過ぎだったはずだ。どうやらぼくはずいぶんと長いこと眠っていたようだ。当然お腹もすく。

「いただきます」ぼくは手をあわせて食事に手をつけると、たちまちそれを平らげてしまう。「ごちそうさま」

「お粗末様でした」

「これは君がぜんぶ用意したの?」

「はい。かんたんなものですが、お口に合いましたか?」

「おいしかった」とぼくは答える。「パン食なのが特によかった」

「なにやらピントのずれた褒め方ですね」とミコちゃんは言う。「あれですか。やはりカフェでバイトしているからでしょうか。パンのほうが食べ慣れているという」

「いや、外国かぶれなんだ」

「明言されるとものすごくダサいですねー」

「いいんだ。ぼくは外国かぶれな自分が本当に好きだしそういう意味では本当にパンが好きだから」

「ある意味では純粋なのかもしれませんね」

「そういうことにしておこう」

 そのように話はまとまる。

「しかし、人生とは不思議なものです。まさかまたお兄さんと再開することになるとは……ええと、二〇時間くらい前の私には想像もつかなかったでしょうね」

「二〇時間」やはりぼくはそれだけ眠っていたようだ。「詳しく話を訊きたいんだけど」

「もちろん、どうぞ」

「まず、ぼくはいったいどこにいたんだろう」

「この家のすぐそこですよ。すぐ目の前です」とミコちゃんは答える。「おじいちゃんから聞いてなかったんですか?」

「いちおう説明は受けたけど」しかし、改めて聴き直す必要があるようにぼくには思えた。意識もなくふらふらと気がつけば他人の家の軒先になどと、その事実をすんなりと受け入れることは難しい。「それは何時ごろ?」

「ええと……夜ごろです。すみません、正確な時間までは。〇時は回っていなかったと思いますけど」

「なるほど」

 しかしそうなると、ぼくはかなりの時間を意識不明で過ごしていたようだ。少なくとも六時間分にわたって、ぼくはぼく自身がこの現実世界でなにをしていたのか、それを知らないということになる。

 仮に夢遊病のようにフラフラとあたりを歩き回っていたとして、ぼくははたしてどこを歩いていたのだろう?

 なにをしていたのだろう?

 考えなければならないのだ。確信がどこかから生まれた。どこか? どこかとは、なんだろう。考えれば考えるだけ思考は入り組んでいった。それはちょうどポケットに無造作に突っ込んだイヤホンくらいだった。いや、その例えはなにかおかしい。イヤホンがからまればうざったいが、それはさして一大事とはならない。コードの絡まりとは落ち着いて時間をかければいずれは解決するたぐいの問題だ。だが直感としてこの例えをぼくは生み出した。だとすればそこにはなにか意味があるのだろう。しかし、落ち着いて時間をかけろ、とぼくはぼく自身にうながしているのだろうか? 本当にそんなことでいいのだろうか。ぼくはもっと急がなければいけないのではないだろうか? 焦らなければいけないのではないだろうか?

「なんだか考え込んでいますね」とミコちゃんはたしかめるように言った。

「考えることがいろいろあるんだ。ありすぎて、でもなにもわからない。わからないことばかりが積み重ねっていくような気がする」とぼくは言った。「いまや考えることすらわからなくなってきた」

「ふうん」と彼女は興味なさげに相槌を打つ。「それは例の妹さんのことにも関係するんですか?」

「それもあるけど、なんというか、もっと全体的なことも含むかもしれない」 

「全体的なことって?」

「全体的なことは、全体的なことだよ。でもその全体が何なのかもわからない」

「つまりはなにもわからないんですね」

「唯一、わからないということだけはわかる」

「それをなにもわからないと言うんです」

「……」

 そうかもしれない。ルーチンのように思考は繰り返され、ぼくは何かをわかったりわからなくなったり、正解をつかんだと思ったりそれを不正解に放り込んだりを幾度もくり返している。そうした堂々巡りの思考にこそ意味があるのだとぼくは思いたかった。そうでなければ、あまりに虚しい。

 けれど結局、ぼくはいまだにスタート地点から一歩も歩きだせていないのかもしれない。

「なんというか、溜めこんだ宿題を相手にしているみたいですね」とミコちゃんは言った。「夏休みみたいな長いお休みの」

「宿題?」

「私、ああいう宿題ってずいぶん溜め込んじゃう性格なんですけど」とミコちゃんは言った。「わからなくなってくるんですよ。夏休みも終わりに近づいてくると、それがなんなのか」

「わからなく?」

「もちろんただの宿題なんですけどね」とミコちゃんは言った。「でも、なんていうか……ぼやけるんです。」

「例えが下手だね」

「まだ話してる途中ですよ」とミコちゃんは食い気味に言う。「つまり、焦点がブレるんです」

「焦点?」

「私のだったものが、全体的なものに……みたいな。そういう感覚です。花瓶に合わさっていたカメラのピントが外れるような」

 ぼくはミコちゃんの説明するその光景を頭の中で再現してみる。ぼくはカメラを花瓶に向けていて、背景にはぼかしがかかっている。意識の大半は花瓶へとそのやじりを向けている。しかしそれはあるタイミングを境にして一変して、ピントはどこにも合わなくなる。するといままで花瓶に向けられていた意識は霧散して消える。消えてしまう。

「そうすると、今まで合わさっていたピントとか焦点はどこに行くんだろう」

「お兄さんのいうところの全体ですよ」

「それで、結局全体ってなんなんだろう」

「わかりません」

「……」

「でも、全体の性質みたいなのは結果から考えればわからなくもないです」

「というと」

「宿題をため込みすぎると、お兄さんはどうなりますか?」

「途方に暮れる」

「たぶん、それが全体というものの性質なんじゃないですか」

 性質。全体の。「途方に暮れる性質っていうのも訳がわからないけどね」

 ミコちゃんは笑って答える。「それもそうですね」

「だけど、たしかに間違いのない答えではあるかもしれない」

「それに、はっきりとした正体はわからなくても、性質に対する個人的な対処というのは経験からわかるじゃないですか」とミコちゃんはあっけらかんと言った。「例えば私なら、溜め込んだ宿題は諦めてしまいます」

「ぼくもそうかもしれない」

「なら、そうするしかないんだと思います」とミコちゃんはあっさりと言い放ってみせる。「できることはできるし、できないことはできないので」

「でも」ミコちゃんのその言葉にぼくはすぐにはうなずけない。諦めるという甘美な響き。しかしそれは逃げではないだろうか? 消去法の結果のひとつでしかないのではないだろうか?「全員が全員そうなわけじゃないし、最善は諦めることじゃないのかもしれないし、というか違うと思う」

「たしかに、追い詰められてがんばれる人もいますね」とミコちゃんは答える。「けどそれもある意味では逃げですから」

「なにそれ」

「諦めることを諦めているじゃないですか」

「詭弁だ!」

「表現はなんだって結局のところ言いようですよ」とミコちゃんはこともなげに言う。「そうじゃないですか?」

 そう言われれば、そうかもしれない。などとぼくは思わず納得してしまう。ミコちゃんの話す言葉のひとつひとつは不思議と自然にぼくの心に浸透していった。まるで――まるでなんだろう? 乾いたハンカチで水を拭いたように、とか、透き通った真水に墨をたらしたように、とか、そういった比喩ならばいくらでも出てくる。だけどここでは比喩は適していないのだと直感が走った。

 彼女の言葉は、ぼくの中にすでにあるものなのだ。

「なんでもかんでも諦めなんですよ。突き詰めていけばですけど」とミコちゃんは言う。

 そうだ。すべては諦めなのだ。ぼくはそれを知っている。

 そうだ。世界は諦観によって構成されている。ぼくはそれをどこかで知ったのだ。

 気づきはスコーンとぼくの中に落ちていった。それはぼくの中におさまった。無くしたものの代替物として、ピタリとはめられた。無くしたものを取り戻すことはできない。だけど代わりのものをあてがうことはできる。想像よりも簡単に、しかし何よりも難しく。

「うわあ」とミコちゃんがおもむろに声をあげる。

「どうしたの」

「話したら、じっさい夏休みの課題いっさいやってなかったの思い出しちゃいました」

 ミコちゃんは言った。


「お世話になりました」とぼくは軒先にて、家主であるおじいさんとミコちゃんに向かって頭を下げた。

「いえそんな、当然のことをしたまでです」とミコちゃんは答える。となりでおじいさんは黙っている。ミコちゃんは言葉を続けた。「とまでは言いませんが、まあ顔見知りを放ってはおけませんよ」

「とにかく助かったよ」

 それからぼくたちはいくつか簡単に言葉を交わした。

 ぼくは改めて頭を下げてそれから言った。「では、これで」

「はい」とミコちゃんは返答する。

「あ」

「どうしたんですか?」

「いや、お世話になりっぱなしじゃ悪いし、落ち着いたらお礼もしたいし」とぼくは言葉を続ける。「その、電話番号を」

 彼女はいつかのフレーズをまた繰り返した。「ナンパはお断りです」

「いや、お礼はさせてよ……」

 そのフレーズ、もしかしておしゃれだと思っているんだろうか。

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