第28話

 列車は大きくゆれている。慣性はぼくのからだを横倒しにしようと努力を続けていて、その中をぼくはひたすらに歩く。あいにく体幹に自信はないけれど転びそうになることは一度もない。気分がいい。いまなら空だって飛べそうだが、車内で空を飛ぶ必要はどこにもない。

 歩き、歩き、次の車両へと移動し、また歩く。

 ところでここはいま何号車なのだろうか? ぼくは辺りを見回してなにか表示がないかを確認するが、しかしそれらしきものは見当たらない。

 まあいいさ、とぼくは思う。ひとまずは歩き続けてさえいればいい。そして考え、時が来るのを待てばいい。ここで大事なのは、ひとまずは、という点だ。立ち止まるな、されど愚鈍なピストンにはなるな、考えることは続けろ。そういうことが肝要だ。

 大事なことに目を向けろ。

 出口を目指せ。

 歩みを進めるたび、トンタントンタンと靴底がリノリウム張りの床をたたく。それは一定のリズムを刻んでまるで音楽のように思われた。もしかすると、ように、ではなくそれは音楽なのかもしれない。原初の音楽とはリズムと音と、それで構成されていたのだから。なんだって音楽になり得るのだ。何だって……。トンタンツートンタンツーとぼくは歩みのリズムをときどき無作為に変えながら歩く。願わくばこの音楽がユイに届けばいい。ぼくはそう思う。

 音楽は鳴り止まない。トンタントンタントンタンと。車窓からは星空が見えた。ぼくが学がないのでそれが夏の大三角形なのか冬の大三角形なのか秋なのか春なのかそういったことはよくわからない。しかし、小さな車窓に敷き詰められた古民家のトタン屋根と、上空で所狭しとかがやく星々、それが素晴らしいということだけはわかる。カメラでも持ってきておけばよかった、とぼくは思うが、でもこの瞬間の素晴らしさはきっとカメラには納められないものなのだとも思う。カメラをけなすつもりはない。けれどカメラによる風景と肉眼による風景とはそもそも別物であって、そもそも比べるものではないのだ。

 ぼくはふと思う。出口を目指すにあたって、ぼくはあまりにも何か余計なものを背負いすぎなのではないだろうか? いまだにぼくは目的に向かうにあたって脇見をし過ぎているのではないだろうか。

 何もいらないのだ。出口へむかう、目的へ向かうその直進力以外、何もいらない。すべてをそぎ落とさなくちゃいけない。贅肉だとか常識だとか礼儀だとか、そんなものはいらないのだ。すべてを捨てなくちゃいけない。何もかも。躊躇しなくちゃいけない。究極のミニマリストでなくてはいけない。そうだろ? ぼくはぼくに訊ねる。

 そうだ。ぼくはいまだ何か余計なものを携えている。それは何だろう? 一寸ばかり考えてぼくは答えを出す。ひとまずそれは後継車両だ。

 後継車両。

 ぼくはそれを切り離さなくちゃいけない。

 どうやって?

 しかしその疑問は愚問だとぼくは知る。ここは個人的な世界で、つまりユイとぼくの世界だ。後継車両は切り離されるべき、そう思った瞬間に今しがた歩いてきた車両は機械的に切り離される。切り離される。そのまた次の車両もしかり、しかり。切り離され、切り離される。

 車両と車両をつなぐ通路がぼくが切り離されるべきだと思い、観測するたびに切り離されていく。

 世界がぼくの思うように作り替えられていく。

 ぼくが世界で、世界がぼくで、ユイが世界で、世界がユイだ。世界の総体はぼくとユイだ。そのように世界は在る。

 切り離されていく。ぼくの行く手を邪魔する枝葉末節が枯れていく桜のように宙に舞い、空へ消えていき、視界から薄れていく。切り離された車両が、ぼくたちのたどってきたレールに乗って視界の彼方へと消えていき、いつしか見えなくなる。切り離された瞬間から減速し、減速し、消えていく。捨てられていく。一抹の寂しさ。本当に彼を捨てる必要はあったのだろうか? このまま最後まで連ねていくという道もあったのではないだろうか? 考え込む。しかし。きっとこうするしかなかったのだ。何もかもを巻き込んでいくことはできない。何かしらを捨てるしかない。出口にたどりつくには、何かを捨てなくちゃいけない。

 切り離されていく。十一号車が切り離され、十号車が切り離される。捨てられるたび、ぼくは身軽になっていく。足取りが軽くなる。加速していく。捨ててしまえばいい。何もかも。

 意思のひとつ、それさえあればいい。

 九号車が切り離される。

 八号車が切り離される。

 車両がひとつまたひとつと切り離されるたび、列車はだんだんとその走行速度を加速させていく。カチッと回路が切り替わるような感覚とともに車両が分離し、ぬめらんと速度が上がる。等加速度運動ではない、急速な加速運動。時間tをほぼ無視して、追加分の速度がノータイムで加算されるような感覚。それがぬめらんとした感覚を起こしているのだろう。けれどそれはあくまで加速運動の一種だ。そして加速した列車はまた等速運動へと速やかに移行する。等速運動から加速運動、一瞬のち、等速運動への回帰。世界法則の切り替わり。ニチャンネルに限定されたザッピング。世界の切り替わりの瞬間、急速な速度変化によって吊り革などは彼方までふっとぶ勢いでスコーンと一回転するが、ぼくという人間が吊り革と運命をともにすることはない。加速度と逆向きの慣性力がぼくを静止させ、ぼくは歩き続ける。慣性力は見かけの力だ。だからこそこの世界においてその力の大きさは自由だし、実際の力を打ち消す作用だって持つ。そうしてぼくは運動を続ける。邪魔するものはない。車窓から見える世界は決して静止しない。

 七号車が。

 六号車が。

 五号車が。

 観測。

 加速。

 運動。

 繰り返されるたび、時間感覚はぼくの中で消えていく。行程が行われるたびに意識が曖昧になっていく。世界に溶け込むような感覚。世界とひとつになるような感覚。世界を理解していく感覚。

 四。

 三。

 加速。

 はたと気づく。ぼくはこうして漠然と一号車を目指しているが、それはそこにユイがいると思っているからだ。先頭には運転台があり、人がいる。そこにユイがいる。それが様式美だと頭から信じ込んでいるからだ。

 しかし正確には運転台は電車の両端にあって、そしてぼくはそれをすでに切り離している。こうして先頭を目指す自分の行動が間違っているとは思わない。けれど間違いなくぼくはすでに何かの一部を失っている。それが何かはわからない。喪失に形はない。気づいたときに、すでにそれは無くなっている。捨てることと喪失することとは決して同一ではない。

 抜け落ちている。そう感じられる。

 その喪失をぼくは埋めなくてはいけないのだろうか?

 喪失は埋められなくてはいけないのだろうか?

 失われたものが帰ってくることはない。空っぽの額縁に代わりとなるものをあてがうことはできる。けれどそれは結局のところは飾りだ。

 人は喪失を抱えたまま生きていかなくてはいけないのだろうか?

 そうして死んでいかなくてはいけないのだろうか?

 人が満たされることはないのだろうか?

 ぼくはその答えを求めなくてはいけない。答えが得られないとしてもそれを求め続けなくてはいけない。そうして死んでいかなくてはいけない。

 そうして答えを求めてぼくは歩く。

 そうしてぼくは一号車へと足を踏み入れ、二号車を切り離す。 車両の端、列車の走行のすべてを司る運転台にユイは座っている。台座に並んだ数々のボタンやレバーに目もくれず、ただ彼女は宙を眺めていた。何もない空間、そこに答えがあるかのように。そしてユイは待っていた。何かを彼女は待っていた。その何かをぼくのことだと勘違いするのは、果たして傲慢なことだろうか?

 いや。

 勘違いでもいい。何だっていい。

 とにかくぼくは求めたい。

 それ以外何もいらない。

 そしてぼくはドアに手をかける。


 一歩足を踏み入れればそこは運転室、ではなく自宅のリビングだ。生活感のない沈黙した椅子をテーブルから引き出し、ぼくはそこへ静かに座る。

 目の前には水を注がれたコップがあり、だいたい半分ほど水が注がれている。さらに視線をあげるとテーブルの対岸にユイがいて、ユイはそこにただ座っている。水の入ったコップとそこに座るユイ。二つのありかたは本質的な部分で同一であるようにぼくには思えた。

 ああ、まったく、本質的だのそうでないだの、ぼくたちはどうでもいいことを議論するに至っては第一人者だ。プロフェッショナルだ。

 ぼくは何を話せばいい。 

 何について考えればいい。

 何をユイと話せばいいんだろう?

「ユイ」、とぼくは彼女に呼びかける。呼びかけて、そこで終わる。

「お兄さん」とユイは言う。ただお兄さんと言う。

 そして完結している。おそらく、二つは同じなのだ。はじめから一つでしかなかったのだ。だからこそぼくには分からないのだろう。誰にも自分自身を完全に理解するなんてことはできない。理解したと思いこむことはあっても、けっして正解は導きえない。そもそも他人からの自分自身の観測というものが起こりえない以上、正解は存在しないのかもしれない。そしてもしも正解があるとするならばそれは世界の外側にしか存在しないのだろう。

 だからいつだってぼくたちは分かったような気になることでしか物事を解決できない。そしてそれが世界だ。究極的に、諦観以外を携えることなどできない。それが世界だ。

「それが世界なんです」とユイは言った。

 けれど、諦めることは果たして悲劇なのだろうか?

「いいえ」とユイは言った。「諦観はきっととても優しいんです」

「優しい?」

「でも、きっと、何よりも優しいからこそ受け入れがたい」とユイは言った。「そういうことってありませんか?」

「あるかもしれない」とぼくは答える。おそらく、諦観はぼくたちの日常にあまりにも親密に紛れ込んでいて、ぼくたちは諦めを諦めであると認識することに鈍感になってしまっている。すべては諦めなのだ。ぼくたちはそれに雑多な名前を付けて、物事を複雑な方へ複雑な方へとばかり進めてしまっている。

 世界はもっと単純でいい。

 言語も思想ももっともっと単純化できるはずなのだ。

 そうして世界はよりコンパクトに存在するべきなのだ。

 ひたすら切り詰め、圧縮して、その果ての形相こそが真実の姿なのだ。

 ユイは言う。「そして、その形はきっと優しい」

 ユイは言う。「諦観はたぶん、優しい形をしているんです」

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