第27話
ぼくは電車に乗っている。まず、なにより大事なのは現状確認だ、とぼくは思う。そこでぼくは自分自身の意識のようなものを上空に飛ばし、列車の外観を確認することにする。まず思う。列車は全体的に茶色がかっている。そして走行音がやけにうるさい。一見して、本能的に日本人にノスタルジアを誘うような、ひどく古びれた雰囲気の車両だ。現代人のぼくたちにお馴染みの鉄材と、それから一部に木材が使われている。ちょうど今どきの電車との、時代的な接点に位置する電車なのだろう。だからそこまで『電車』として違和感はない。スッと順応できる。たぶん昭和くらいの電車だ。平成生まれでかつ浅学なぼくには断定はできないけど、さすがに動力は電気だろう。もちろんぼくがよく知っている電車というのは全体が鉄材で作られた無骨なやつというイメージで、目の前(足元)のコイツとはかなり様子が違う。けれど愛想がない印象の現代の車両とくらべて、なんだか可愛げのある見た目にも感じられて、ぼくはなんとなくコイツを気に入る。ぼくの中の『電車』スロットにスパーンとコイツは収まって既存の電車像はどこか彼方へ飛んでいく。新しい顔を与えられたアンパンマンみたいに。コイツに乗っていけば何処まででも行けそうなそんな気さえする。しかし、なにがぼくをここまで引き付けるのだろう? わからないわからないわからない。しかしぼくはその答えを知っている。『知っている』ことと『わかっている』ことは根本的に違うのだ。ぼくは何もかもを知っている。けれどわかっていない。そして、おそらくぼくを取り巻く問題のすべてはそこに集合しているのだ。結局、ぼくは何もわかっていない。そして列車は進む。
しかし、これだけははっきりと言えるのだけど、物語としてこの列車がこの場面に登場する以上、これにはなんらかの意味がある。ぼくはそのことを知っている。すべてに意味は内在し、真に意味のないものは無い、ということをぼくは知っている。そしてぼくは何事かをこの象徴的な場面から読み取らなければならないのだ。いまどき象徴論かよ、と思う。なにやらのメタファーだのなんだの、人はいつまでもそんなことばかりを言い合っている。しかしいまはあえて前時代的な印象論で物事を考えてみることにして、このどこまでも続くかのような列車はなにを表しているんだ? たぶんどこまでも続く、というポイントに読解のかなめは集約しているのだろうということはわかる。けれどそこから思考が続かない。どうやらぼくに名探偵は向いていない。向いていないということはつまり、ぼくの役目は名探偵ではなくて、別のものに設定されているのだ。何物にも必ず世界における役目は存在するのだ。それを当人が自覚できるかはともかくの話だけど。
では、この世界におけるぼくの役目とはなんなのだろう? ぼくはそれについて考え、しかしぼくに世界を先に進めるような答えを導く思考力はなく、結果的にはぼくは凡人らしく消去法で答えをだし、それは、ぼくはユイの兄なのだ、ということだ。
「お兄ちゃん」という声がして、列車は進み、世界も進む。
ぼくは飛ばしっぱなしになっていた自意識を上空から引きおろし、目の前に集中する。目の前にはユイがいて、それからぼくは自分自身について理解を深め、納得する。気づけばぼくたちは新幹線などでよく見かける回転式の座席に座っていて、そして互いに向かい合っている。座席は、座面こそ布張りで今の電車とあまり差異はないが、背もたれに関しては木材がむき出しの作りになっていて座り心地はあまり良いとは言えない。せめて背もたれにも座面と同じ布が張られていれば少しはマシなのだけど。そう考えてからワンテンポ置いて、気づけばぼくたちの背中はやわらかな布地によってゴツゴツとした木材から一枚隔たれている。そうしたとつぜんの作用に対してなぜかぼくの心中に違和感はない。たぶん、これで世界は正しく機能しているのだ。そういうことをぼくは理解している。だんだんとぼくは世界について理解をはじめている。
「お兄ちゃん」という声がふたたびして、返事をしなければ、とぼくは思う。
そしてぼくは返事をする。「うん」
そうして会話のとっかかりが成立するが、ぼくたちの間に会話の続きは起こらない。お兄ちゃん、とユイが言ってうんとぼくが答え、そこで会話はいったんの完結を迎えていて、それでいい。それでいいとぼくは思う。そうしてぼくたちは世界を完結させる。そのようにぼくたちは完結した世界を生きている。お兄ちゃん、うん。つまるところ世界の総体はそこに収束する。お兄ちゃん、うん。それが世界だ。呼びかけと返答、それが世界を形作る。世界はぼくたちが思っているよりもはるかにシンプルにできているし、枝葉をのぞいた世界には幹しかない。だからこそ幹はしっかりと大地に根を張ってゆるがない説得力を持っていなくちゃいけない。つまり、ぼくたちは対話から顔をそむけてはいけないのだ。いけなかったのだ。
そうだ。
ぼくは自分の理解力のなさと与えられた監視者的なポジションに甘えて、「知ろう」とすることから目をそむけてはいなかっただろうか? あまりに臆病になっていたのではないだろうか? 時がながれ、めぐりくる事象をただ受け入れていればそれで万事が上手くいくと、いや、上手くいかずとも「それでいい」と思っていたのではないだろうか? 自然状態こそが理想であると頭から決めつけてはいなかったろうか? 別の可能性を検分してみることもなく……。
たぶん、人間は考え続けなくちゃいけないのだ。そうして人間は進化してきたのだし、ぼくは今ここにいる。考えて、考えて、たとえ暗黒から出口を探すようなことであっても、それでも考えねばならなかったのだ。前進しなくてはならないのだ。
世界におけるぼくの役目とは「ユイの兄である」ことで、たぶんそれは「いる・ある」という現在的な存在を表しているだけではなくて「兄であり続ける」といった継続の意味をも含んでいるのだ。それをぼくは失念していたのだ。ぼくはユイの兄で、その意識さえあればぼくは役目を十二分に果たしているのだと思い込んでいたのだ。ぼくに必要なのはそれでいいのか? と疑うことであったし、何かについて考え続けることだったのだ。
それでもぼくはまだ不安になる。もしかしてまたぼくは勘違いをしているのではないだろうか? ぼくに足りなかったのは本当に「考える」ことだけだったのか? しかし、そういった考えが芽を出してすぐ、この不安をおびた思考についてぼくは肯定を投げる。本当にそれでいいのか? それでいいのか? と考え続けることは間違っていないし、それでいい。そうして自分に問いかけることを放棄していたのが今までのぼくだった。ただ受身で沸き上がった考えに従うだけならば誰にだってできる。自分に与えられた役割というものについてぼくは世界に問いつづけなくちゃいけないし、その努力を怠ってはいけないのだ。
ぼくは考える。
考えたさきに何もないならばそれでいい。
そしてそれは「何だっていい」ということではない。
諦観に甘えるな、とぼくはぼくに言い聞かせる。ぼくは考えなくてはいけない。
ぼくは考える。
列車は進む。
ぼくたちは円状のレールをひたすらグルグルと走っているのかもしれない。もしかするとこの列車が終着点にたどり着くことはないのかもしれない。きっとそれは字面よりも幸せなことだ。延々とつづく安寧。そこにずっととどまっていられるならば、何かを苦心しながら考えることや、行動することといった、そういった役割のいっさいは必要がなくなるのだから。けれどぼくは考える。ぼくが考えるのをやめればきっとこの列車はどこにもたどり着かない。世界は意識の集合だ。ぼくがどこにもたどり着かないことを願うなら、世界はそうある。物静かな円環であり続ける。しかし、ぼくが何かについて考えつづけるなら、いつか終着点はやってくるのだ。必ず。ぼくはそのことを知っているし理解している。はっきりとした皮膚感覚として。
たぶん、ぼくはいま、はじめて実感をもって「何か」を理解したのだ。
しかし、そもそも、それを理解してそして為すことは何かの終着点となりえるのだろうか?
もちろんそんなことは実際にやってみないとわからないことだけど、しかしこれが一つの「流れ」である以上なんらかの終わりはかならずやってくるのだし、最終的に行動には終着点が付随していなければいけない。終わりは必ず存在する。そして、こうして行動し続けているならば終わりはやってくるのだし、終わりがやってこないのならばそもそも行動も存在しなかったのだ。
だからこそ、いま、ぼくは行動によって終わりを呼び寄せなければいけない。
気づくと先ほどまで対面に座っていたユイの姿がない。同時に起こるのは場内アナウンス。音質のいまいちなスピーカーが聴きなれたユイの声を拡声する。ひと昔前の集音性能の悪いマイクを使っているからだろうか。その声はとぎれとぎれでアナウンスの細かな部分まではよく聴き取れない。
それでもたしかにこの一言だけ聴きとれたのは、たぶんそれがぼくにとっても質感をともなった現実として、具体性をもった物質として、心象に根付く根本的な問題として共有することができたからだろう。
ユイはこう言っていた。
『……どこにも……たどりつかない』
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