第26話

 田中さんは死んでいた。田中美羽という仮の名を持つ、ぼくたちにとっては田中美羽その人であるその少女は一年も前のある日に死んでいた。それに至る過程や原因、そういった諸般のことを無視してぼくは一つの知識をとうとつに与えられた。田中美羽は死んでいるということだ。因果関係を抜きにしたそれだけの純粋な事実をぼくは降ってわいて出たように直接記憶に書き込まれた。

 田中美羽は死んでいる。

 死んでいた。

 なるべく凄惨な方法でもってして田中美羽は殺されていた。

 田中美羽の体に宿された「田中美羽」を示すパーソナルな部位のことごとくは欠片も残らないほどに蹂躙され、その死体は何か強い憎しみを彼女に対して持っていたゆえの誰かの凶行、それを再現するかのように破壊されていた。しかし実際にはその処理に感情は感じ取られなかった。ただ動物の死骸を処理するようにそれは行われていた。田中美羽という少女はその時点では食肉加工台のうえに乗せられた動物でしかなく、知性を持つことで生まれた、あるいは生まれたと人間が勝手に思い込んでいる、ヒトと動物との境目はそこに存在しなかった。肉だった。ヒトだった。感情はとうに消え失せていた。肉に感情はない。ましてや凄惨な状態の死体からは感情の鱗粉の残滓をかぎ取ることすらできないのだ。

 気持ち悪いくらいに出来すぎたストーリーだ、とぼくは思った。その結果がこれか? 人を殺せばそれで刺激的な展開になるとでも思っているのか? どうなんだ? それはあまりに安すぎる。展開が安すぎる。それなら初めのハッピーな展開でもなんら問題はなかったじゃないか。どうせ五十歩百歩だ。そのまま安易な結末へ転がっていけばよかったのに、それを冷笑するねじ曲がった精神め。お前はいつだってそうだ。そうやって何事も間違った方へ間違った方へと推進性を持たせようとして、結局失敗するのだろう。不時着した船の残骸を回収しようともしない腐りきった根性が、お前を人間から離れさせていく。適当なことを書いてごまかしてないで、さっさと話しを進めろ。さあ!

 そういうわけで田中さんはやっぱり生きている。

「田中さん!」

 ぼくはさけぶ。やっぱり彼女は生きていたんだ。

 そういうわけでぼくは適当にセリフを並べてページを埋める作業にとりかかる。

「いったい何があったって言うんだ」

「ええ、組織のアルファガンが私の頭部を消滅、次いで三十万の価値です、私の人体は。人体模型より価値に劣った肉体の、消滅がこだまする中に私の夜が内在しています。だから、寂しくないんです」

「何を言ってるのかわからないよ」

「でも、考えてみてください」

「考える?」

「はい」

「……(沈黙)」

 肉体の消滅。ぼくはそれを考える。三十万に劣る肉体の価値! しかしそんなものなのかもしれない、精神の宿らない肉体に価値があるとすれば、それはとびきり汚らしい蟹を持っているか、あるいは多額の保険金がかかっているか、なのだ。

 しかし、それにしたって薄弱なぼくたちの肉体を破壊せんと企む陽の光の眩しさたるや。日光に目をそばめるぼくらはヴァンパイア。となりの吸血鬼。そして地上ではあまたの天使がバレエを踊っている。「白鳥の湖」に合わせて、ゆったりとしたテンポで回転する天使たちのチャイコフスキー然とした悠々たる踊り。その美しさの前に、肉体を保持することの根源的な愚かしさ。そうだ。天使の踊りを受け入れ、美しさを理解し、そして初めてぼくたちは陽の光を受け入れる。そうして肉体のすべてを日光の元にさらけ出し、粉と消え、己の幼児性に諧謔心をもって注釈を付けられるようになったとき、その時こそ改めて夜と向き合うべきなのだ。

 だけれど夜は我々を苦しめる嗜虐的な波を打ち付け、それをよしとする性向を持っているがゆえに気を付けなくてはならない。夜に気を付けろと天使が言う! 特に気を付けるべきは、母が添い寝をやめたその時、父を殺したくなったその時、その瞬間に起きざるをえない不安の発芽と、自我の形成の、その狭間にゆらぐ己の不連続性。「必要なものは数珠つなぎの夜です」と田中さんが言う。連なっている! それを意識し続けるという、その淫蕩を楽しめる空白と諦観を持たなくてはいけない。「さらに必要なものは必要のないものです」と田中さんが言う。そうだ、それこそが肉体。美しさの前に溶けてなくなってしまうべき肉体の不完全さ!

「宇宙がめくるめくっています。今週のノルマはヒヤリハット千百件! 目的は手段で手段は目的ですから、おそらく問題はありません」

「そうかな」

「そうです」

「どこにそんな確証が?」

「駅前のドトールに」

「ああ、そう」

 ああ、そう。

 そう!

 いや待て。ドトールにその荷は思い。大事なことはすべてスターバックスに任せていればいいんだ。あるいはタリーズコーヒー。もしくはコメダ。実際にはドトールもそれなりに人気のようだけど、問題はおれがよく利用しているということだ。おれがよく行くコーヒー屋は不人気で最低のコーヒー屋じゃなければいけないんだ。違うか?

 踊っている――カフェインが現代にしみ込んでいく。しみ込み、染みが、広がっていく!

「敵です!」

 さけんだ少女の名はルミネ・ミネ・エクリプス。彼女は無邪気にぼくを慕ってくれたり骨髄を信頼して預けてくれたりしてぼくにとっては妹みたいな存在ってところだ。妹?

「ルミネ、敵のタイプは?」

「わからない!」

「はあ?」

 おいおい、座学くらいしっかり教育しとけよ! とぼくは彼女の候補生時代の教師に文句をつけたくなるが、そんな余裕や暇は今のおれたちにはない。実戦段階において回想とか悔恨は不要だ。余計な感情のスキマを埋めるように〈敵〉はおれたちに悪意を放つ。

「避けて!」ルミネの声が空間に乱反射する。「避けて!」

その声の跳ね回りが終わるよりも早く、しゅるるるる……と伸び切ったレジャーをこちらに手繰り寄せるかのような音が鼓膜をくすぐるように近づいてくるのを察知する。その音の発生源である敵の触腕がこちらに伸びてくるのを察知して、おれは後方の空間へと身を投げた。空気や重力といった抵抗の中を、何も考えずに、ただ飛ぶ。もしも後ろに障害物があったらとか、足をひねってしまったらとか、そういった命をおびやかす不安要素について考えることは不要だ。諸要素についての対策は事前にやるものであって、今ここでそれについて考えることは反転しておれの命をおびやかす。実際のところ、そういう度胸が生きるためには必要なんだよ。おれは何もわかっていない。何もわかろうとしてこなかったのだから当然だ。……当然なのか? 本当に? そういった思い込みこそがおれを自分たらしめているという可能性はないのか?

 くそ。言ったそばからおれは考えすぎてしまう。何も考えるなと言ったのは誰だ? そうだ。この夜と海と空以外のすべてがなくなった世界で生き残りたければ、実体化した精神の糸には気をつけるべきだ。真っ暗になってしまいたくなければ、初めから自分なんてものは黒塗りにしてしまえ。往々にして教科書は役に立たないのだから。

そういうことだ。「うん」

「え?」一人うなずくおれを、ルミネが怪訝そうに横目で見る。

「そういうことなんだよ」とおれは結論付ける。

「はあ……」

「うん」

「あっ」

「え?」

 瞬間、グサー! 

 おれの心臓を鋭い触腕が一突き。

 そしておれ死亡。

 油断しすぎだ。

「薄れゆく意識……」何だか分からないが、意識が薄れていく。分解されていく。頭がぐらんぐらんと揺れる。

 おれは死ぬのか……。

 つーか何だよ……組織って……世界軸って……意味わからん……ダサいし……。

 血液がだくだくと肉体からこぼれ落ちる。

 同時に襲い来るのは、魂って呼ばれたり呼ばれなかったりする器官が肉体からはがされていく感覚だ。ぺりぺりぺりり、と書類同士の接着をはがすようにおれの肉体と魂は分離されていく。ゆっくりと……。

 そしてその分離が完全に終わったころには、すでにおれの意識と呼ばれていた何物かはどこかで四散していた……四散? いや、違う。たしかに意識とおれが認識していた何かはもはや原型を留めていないけど、しかし、完全に露と消えてしまったかと言えばそれは否定されるべきだ。現に、おれはこうして考え、表し、残している。しかし、では、意識はどこに帰属されるのか? 魂? ならば、魂は思考をしていることになるのだろうか? こうして思考を繰り返すのは魂なのだろうか? ならば肉体の役割とは何だ? 肉体の必要性とは? 思考することと存在することが魂一つで完結するなら、おれたちはどうして生命活動を営まなければならないのか。

 おれはどうしてユイの兄なのか?

「お兄ちゃん?」もはやただの抜け殻となった物体にルミネが話しかける。

「うん」

「死ぬの?」

「まあ」もう死んでるけど。

「そっか」

「うん」

「うん……」

「……」

「怖い?」

「まあ」

「どうして?」

「……」

「黙ってちゃ分からないよ」

「死んでるし……」死体はしゃべらない。

「じゃあ、なんでしゃべってるの?」

「なんでだろう」

「なにも分からないの?」

「うん」

「じゃあ何がわかるの?」

「ううん……」

 とりあえずぼくはユイの兄だと思うけど……まあ、適当に書いてるだけなんですけど……。

 なんなんだ……。

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