第25話

 しかし、藤原さんの激励にもかかわらず、ぼくにできることは現状見当たりそうになかった。まず、ぼくはユイの居場所すらわからないのだ。いったい、どうすればいい?

 ぼくはベンチに座りっぱなしのまま、しばらく座りつくした。

 考えていても仕方がない。とにかく動かねば。

 先ほどの老人には去り際に「これ以上のことは誰も知らないと思うよ」と言われたが、もしかしてという場合もある。捜査の基本は、まず聞き込みからだ。とにかく歩いて、聞き込みをして、また歩くのみだ。

 時刻は三時過ぎ。まだ時間は十全にある。このまま、ほぼ手ぶらで家へ帰るというわけにはいかない。何か、もう少しだけでいい、情報を集めなければいけない。 

……家へ帰る?

 何を言っているんだ、ぼくは。ぼくの覚悟はしょせんそんなものなのか? 休日にやってきて、ユイの身に起こっている異常な事態を知って、それでそそくさと家へ帰るっていうのか? それじゃあ子供のままごとと区別がつかない。さいわい、お金ならバイトで稼いだものが充分にあるのだ。

 いい加減、腹を決めろ。

 しゃんとしろ。

 いいか?

 ああ、いいさ。

 家になんて帰らない。もう一度ユイに会って、彼女の顔を見て、そして彼女の無事を確認するまでは学校なんて知ったことか。日常なんて知ったことか。

 カプセルホテルでいい。ネットカフェでもいい。とにかく、長期戦になる覚悟を今からしなければならない。準備を整えなければならない。

 近場のホテルの部屋は空いているだろうか? 確認しようと、携帯電話をポケットから取り出す。

「っと」

 高ぶった心のためだろうか、思わず携帯電話を取りこぼす。フィルムやカバーはしてあるとはいえ、液晶に傷が入ってなければいいが。腰をかがめ、携帯電話を拾おうとする。

 不意に着信があったのは、その時だった。

 藤原さんだろうか? ぼくはモニターに目をやった。

 そして、ぼくは目を疑った。その着信音に耳を疑った。その視覚情報に脳を疑った。

 モニターが映していたのは、『田中さん』という四文字だった。

 田中さん。ユイの最初で最後の友達。

 これは、なんだろう。

かがんだまま思わず固まったぼくの頭の延長線上で、ざり、と砂がこすれる音がした。

砂がこすれる音?

 顔を上げる。

 そこには、携帯を片手に持った田中さんがいた。

 あの日々と変わらない笑みを浮かべて。

 気持ち悪いくらいに出来すぎたストーリーだ、とぼくは思った。


「お久しぶりですね、お兄さん」と田中さんが言う。

 ぼくは、すぐには言葉が継げなかった。それはいたずら電話や間違い電話の類ではなく、間違いなく田中さんの声だった。聞きなれたあの声。絶対的な既視感。

「本当に……本当に」

田中さんなのか、とぼくが続ける前に彼女は言葉を発した。「ええ、そうですよ。間違いなく私です。本当にお久しぶりです、お兄さん」

「は……あはは」

 ぼくは思わず笑いだしてしまう。そんなことがあっていいのか? こうもご都合的なことがありうるのか?

 しかし、これは現実だった。現実に、こうして目の前で起こっていることなのだ。

「なんていうかさ……その」ぼくは言葉を探す。けれど、貧弱なぼくの人生経験はたいして感動的な言葉とか、積もりに積もった思い出話とかを切り出すことはできない。ぼくはいつだって口下手だった。「元気にしてた?」

「なんですか、それ。久しぶりの再会で、第一声がそれですか」

「ごめん」

「謝ることでもないでしょうに」

「……だってさ」

 うれしいんだ。

 こうして、ふたたび声だけでもまた田中さんに会えたことが。

 ぼくは目の前で笑みを浮かべる田中さんに言った。スマートフォンをポケットにしまう。

 通話を終了する。

「あー、やめてください。くさいセリフは怖気が立つので勘弁を」

「ひどいな」

「お兄さんはいつだって真っすぐすぎるんですよ。こっちが恥ずかしくなるくらいに」

「そうかもね」

「かもじゃなくて、そうなんです」

「うん。でもさ、やっぱりうれしいよ」ぼくは言う。「田中さんとまたこうして話せて、ぼくはたまらなくうれしい」

「……電話、切ってやりましょうか」

「え、なんで」

「だから、もう! 恥ずかしいからやめてくださいってば」

「あはは」

 ああ、楽しいな。

 こうして田中さんと話しているのは、本当に楽しい。

 本当に。


 ぼくは何の話をしているのだろう?


「本題に入りましょう」田中さんはそう言って会話を切り替えた。「お兄さん。あなたがいま直面している問題に、私は具体的な解決策を示すことはできません」

「問題?」

「わかっているでしょう」

「わかってるけどさ、でも」

 どうして、彼女はぼくが目下苦闘中の問題について知っているのだろう。

 と、一瞬だけぼくは疑問を覚え、しかしそれを退ける。そんなことは今の段階において不思議なことでも何でもない。ユイを中心とした問題において、そういったあれこれとした諸事情はすべて意味とか過程とかそういったものをすっ飛ばしているのだ。今さら理由や意味を考えたって仕方がないことだ。

「うん……続けて」

「では」田中さんは言う。「まず、私こと田中美羽は、ユイさんをとりまき、彼女を利用する――何というか、こっぱずかしい言い方をするなら『組織』の一員です。まあ、これから『元』、になることは確実でしょうが」

「……」ぼくは何も言わない。ただ、彼女の言葉をたんたんと受け取るのみだ。

「私の任務は、ユイさんの観察にありました。ユイさんを観察し、何事もないように物事のバランスをとりながら傍で彼女を見守る、そういった内容です」

「まあ、そんな気はしてたよ。言われてみればって感じだけど」

「あれ、そうでしたか」

「うん。いろいろと、あとから考えればね」

「まあ、私はしゃべりすぎましたからね。当時のお兄さんには戯言にしか聞こえなかったでしょうけど」

「うん。ただただ頭がおかしいのかと思ってた」

「それはそれで何というかしゃくですが、まあ仕方ありません。私だって逆の立場ならそう思いますから」

「でも、ぼくの勝手な想像だと、田中さんの属するグループはユイの秘密について世間にばれないよう、厳重に隠し通そうとしていたはずだ。違う?」

「はい、その通りです。ユイさんのことについては、何よりも最優先で隠匿すべきシークレットとして位置していました。というより、そもそも組織自体がユイさんのためにあるようなものですので、ユイさんについて話すということは組織の全容を話すようなものなわけです」

「じゃあ、どうしてぼくにその話を?」

「……私は」田中さんは言葉を絞り出すように言った。「私は、田中さんを救いたかった。彼女が、組織の傀儡としていいように利用されるのを見ていられなかった」

「……」

「私の家系は、先祖代々にわたってユイさんのような人を研究、利用する組織の一員として生きてきました。当然、私も子供のころから――今も子供ですが――組織に属してきました。だからいずれの勉強機関にも所属せず、勉学はすべて機関の中で行われました。私が属していたのは、それほどまでに強い権力を持つ組織なのです」田中さんは言う。「そんな私に割り振られた仕事が、ユイさんと同じ年齢でもあったからでしょう、彼女と同じ学校に通って彼女を監視するという役目でした」

「それは――」

「ええ。ですから初めは、ユイさんとの出会いはすべて打算のうえで成り立ったものでした」田中さんはたんたんと言う。「そこには個人的な感情も、意思も、何もありませんでした。一かけらもです。一ミリたりもです」

「でも、ぼくには田中さんの行動の一つ一つが、ぜんぶ仕事のうえの義務的なものだったとは思えない」ぼくは言う。「何というか、月並みな言い方だけど、田中さんはあの日々を楽しんでいたとぼくは思う」

「ええ、そうです」言葉を胸中から絞り出すように、田中さんはゆっくりと言う。「私は、楽しかった。ユイさんと過ごす日々が、お兄さんと過ごす日々がかけがえもなく楽しいものに思えてしまったんです」

「……」

「いつからかは、わかりません。それは覚えてはいけない感情でした。私はただ淡々と自分に与えられた仕事だけをこなしていなければならなかったのに」

「でも、ぼくは間違った気持ちだとは思わない。けっして」

 そうだ。

 田中さんたちと過ごしたあの日々に、間違いなんてあったはずもない。ぼくたちは、ただ日常を過ごしていた。記憶を刻んでいた。忘れがたい記憶を、何物にも代えがたい記憶を書き記していた。

 記憶は、おぼろ月のように儚く、されど美しい。たとえいつか薄れてしまう運命にあろうとも、書き記した記憶のかけらはいつまでも残り続ける。それのどこに間違いがあるというのだろう。

 記憶は、いつまでも美しいのだ。


 ぼくは何の話をしているのだろう?


「……私は、ユイさんの通う小学校に、五年になってから転校という形でやってきました」と田中さんは言う。「私は、友達や知人など極力作らないように無難に学校生活をやり過ごしていきました。仕事には関係ないことですからね。ただ黙々とユイさんの動向を横目に、そうしていれば十分なはずでした。

そして、当然私はクラスの中で浮いていました。しかし、これは後々考えてみると失敗でしたね。なるべく目立たないように、というのが指令だった以上、ある程度クラスにはなじんでおくべきだったかもしれません。

 ……うまく立ち振る舞えられなかったのです。私は。だから、クラスの中で私は無視され、空気のように扱われ、そしてしだいに露骨な悪意の対象になっていきました」

「そんな」

 バカな。まさか、田中さんに限ってそんなこと。

「まさか、とお思いでしょう。私に限って、なんて」と田中さんは言う。「でも、実際そうなったものはなったものなんです。子供社会は残酷ですね」田中さんはそう言って言葉を続ける。「そんなある日、クラスのホームルーム……小学校的には『帰りの会』で、来たるべき運動会にむけて各々の競技決めの話し合いが設けられました」

「競技決め」ぼくは嫌な予感を心中にはらませながら繰り返した。競技決め。

「駆けっこに縄跳び、借り物競争。まあ種目にはオーソドックスなものが並んでいました。そして種目決めは淡々と、時にはガヤガヤとつつがなく進行していきました。その頃の私はとうぜん運動会を楽しもうなんて言う気は毛頭ありませんでしたから、読み上げられる種目名に何の気なしにふらふらと手を挙げていきました。人気の低い駆けっこにまず当選し、しかしその後の倍率の高い競技ではジャンケンでの決定になって、落選を続けました。私がパーを出せば、全員がグーを。私がチョキを出せば、全員がグーを出したのです。笑っちゃいますよね。なんて偶然なんでしょう。

 そして、ついに残りの種目は一つだけになってしまいました。二人三脚でした。あとは、もうお分かりですよね?」

「……」

 ああ。くそ。なんてわかりやすい展開なんだ、それは。

 気持ち悪いくらいに出来すぎなストーリーだ、とぼくは思った。

 こんな安直なプロットには修正が必要だ。そうだろ?

「誰も、私とペアを組もうとはしませんでした。担任の先生が言います。『誰か、田中さんとペアを組んであげませんか?』と。何ですか、あげませんか? って。何様だって話ですよね、あはは」

 この話を聞きながら、ぼくがどんな顔をしていたのかはわからない。眼球に手鏡でも仕込んでいない限り、自分の表情が自分でわかるわけがないのだ。だからぼくは自分がどんな様相だったかを形容することはできない。できるのはただひとつ、己の心理描写だけだった。あふれんばかりの失意の感情がぼくを包んでいた。人はここまで醜くなれるものなのだろうか? 今まで同年代の子供とまともに接してこなかった田中さんが、はじめて与えられた仮初の『普通』で受けた絶望はいかなるものだっただろう?

「ひどい顔ですね、お兄さん」と田中さんは言う。「でも、ここから話は一気にハッピーな方向へジェットコースター的急転直下ですから、安心してください――周りがくすくすと笑い、あざける中、ただ一人手を挙げてくれたのが、ユイさんでした。

まあ、ユイさんに私を助けようなんて意思はみじんもなかったのでしょうが、とにかく私は救われたんです。ほんと、ありきたりなエピソードですけどね」と田中さんは言う。「でも、私にはその普通がたまらなく貴重なものに思えました。だから、私は思ったんです。もう、仕事としての付き合いはやめようと。私はあくまで一つの自我である『私』としてユイさんと友達になろうって、そう思ったんです」

「……そっか」

 ああ、そうか。やっぱり、ユイはユイだ。彼女は、何物にも染まらない。ユイは確固たる彼女自身なのだ。それは家でも学校でも、どこに行ったって変わらない。


 ぼくは何の話をしているのだろう?


「そして、私は決意しました。私はユイさんを助けるのだと。組織の勝手になどさせないと」

「ちょっと待って」とぼくはいったん田中さんの言葉をさえぎる。「そもそもさ、結局のところユイはいったい何者なんだよ。組織だとかなんだとか、どうしてそんなものにユイは狙われなくちゃいけないんだ」

 ユイはユイだ。ぼくの妹だ。だが、それと同時にユイはぼくたちとは別の『何か』でもある。田中さんは過去、支離滅裂な言葉からそれをぼくに伝えようとしていたのだろうが、ぼくには今でもさっぱり理解できない。

「ユイさんは、世界軸なんです」

「世界軸?」

 地球軸との言い間違えだろうか、と一瞬思って、どちらにせよ人間に対して当てはめるには異常な言葉だということに気づく。世界軸?

「端的に言って」と田中さんは言う。「ユイさんは、世界を滅びしうる存在なんです」

「……」

 やはり、ぼくごときの想像力と適用力ではこの話にはついていけないようだ。

「世界軸は、それすなわち世界の均衡を保つバランサーとしての役割を持ってこの世に生まれてきます」

「生まれてくる?」

「ええ。世界軸はあくまで初め、人間として生まれてきます。それも決まった一つの家系から、連綿と、何千年と、下手すれば何万年もの間、生まれ続けてきたのです。それが、ユイさんの実家である西園寺家です」

「西園寺?」

 初耳だ。それがユイの本来の苗字だったとは、今まで聞かされてこなかった。

「世界軸は、その直系の子孫からアトランダムに選ばれて幼少のころにその力を発現します。だいたい九歳が多いと聞いていますが、正確な数字はわかりません。そして、世界軸となるのは決まって少女だけ。だから西園寺家では代々、三人や四人と、多くの子孫を残すのが慣例となっていました。女子は決まって二人は生まなくてはいけません。そうしないと、血が絶えてしまいますから」

「ちょっと待ってよ」ぼくは言う。「その言い方だと、まるで――」

「ええ。世界軸として選ばれた少女は、十三歳の誕生日を迎えたのち、人身御供となってその身を捧げられる運命にあります。地球になのか、世界になのか、はたまた神になのかはわかりませんが、それが世界の均衡を保つ唯一の方法だからです」

「なんだよ、それ」

「腐ってますよね」田中さんは言う。「でも、そうするしかないのが現状なのです」

「でも、そんなの本当かどうかなんてわからないじゃないか。世界が滅ぶだなんて」

「そりゃあそうです。でも、世界が滅んでしまえば、答え合わせをする人もこの世にはいません」

「は……」

 なんだよ、それ。冗談にしてはあまりに笑えないじゃないか。

 世界の命運? 滅亡? そんなもの、どうしてユイが背負わなければならないんだ。

「そして、もうひとつ大事なことは」田中さんは言う。「ユイさんは、お兄さんの義妹ではありません」

「なんだって?」ぼくは訊き返す。なんだって?

「正確には、ユイさんはあなたの母親とその不倫相手の男性、つまり西園寺家当主との間にできたあなたの異父兄妹ということになります。といっても、相手方はユイさんを認知していないので戸籍を確認しても父親の欄は空欄になっているでしょうが」

「……」ぼくは黙っている。ただ黙っている。

「……ショックですか?」

「いや、そうでもないよ」ぼくは言う。「異父兄弟だろうが何だろうが、ユイはユイで、ぼくの妹だ。それ以上でもそれ以下でもない」

「よかった」田中さんは言う。「お兄さんなら、そう言ってくれると信じていました」

「でも、驚きはしたかな。そういう意味では、ショックを受けはしたよ。ショックと驚きって同じ意味だしね」

「まあ、そうですね」

「でも、じゃあどうしてユイはぼくの家にきたんだ? 大事な世界軸の候補の一人なら、言い方は悪いけど、手元に残しておくはずじゃないか」

「そりゃあ、不貞を働いてできた子供である以上、認知しなかったんでしょう」

「そういう問題?」

「そういう問題です」

 そんな、メロドラマみたいな……。


 ぼくは何の話をしているのだろう?


 田中さんは言う。「幸い、現在の当主にはユイさんを含めて三人の娘がいました。世界軸に選ばれやすいのは決まって長女で、ユイさんは末女でした。ですから、ほぼほぼユイさんが世界軸に選ばれることはないと踏んで、それでお兄さんの家に義妹として出したのでしょう。さすがに、最低限の監視――私のような役回りの人間はいましたが」田中さんは続ける。「しかし、ことここにいたって事態は急変しました」

「というと?」

「ユイさんに、世界軸としての力の発現があったのです。突然のことでした。例の観覧車での出来事は、その力が暴走した結果のことです。私はそれを組織に報告せず、今までひた隠しにしてきました。けれど、いよいよ私程度の力では覆い隠せないほどユイさんの力は強大になってしまい、ついに組織にその存在を感知されてしまいました。時期にして、ちょうどお兄さんの家に火事があったころです」田中さんは言う。「そして、おそらくあの火事は事故ではありません」

「……まあ、ここまで聞いたらだいたい予想はつくよ」

「本当に、申し訳ないことをしました」

 と言って、目の前の田中さんが頭を下げ、電話越しの田中さんが頭を下げる。深く、深く。ぼくに、そしてどこか遠くのユイに。

「……田中さんが謝ることじゃないよ」

「それでも、私のかかわる機関がやったことに変わりはありません。ですから、私は謝らなくちゃいけません」

「だって、田中さんはできるだけのことをやったじゃないか。ぼくに何度もユイについて警告をして、いまこうしてきっと機密にあたるだろう情報を話してくれてる。だから、謝る必要なんてない」

「本当に、そうでしょうか」

「そうさ」

「私は、あまりに卑怯な人間です。佐々木さんを助けたいと言いつつ、裏では組織に協力していた。そんな私を、ユイさんは許すでしょうか」

「許すよ」

「そんなこと、お兄さんには――」

「ぼくにだってわかる」

「いいえ!」田中さんはさけぶ。「許すとか許さないとか、そういう問題じゃないんです。違うんです」

「違わない!」

 そう言ってぼくは田中さんを抱きしめた。

 田中さんはぼくに電話のディスプレイ越しに抱きしめられ、その後、ぼくをその手で抱きしめ返した。

 許されるのでしょうか、と田中さんは言った。田中さんの涙はプロピレンカーボネートとなってぼくのスマートフォンを逆流した。ああ、くそ、もうバッテリーがイカれてしまった。買換えにはまだ早いのだけど。

 許すよ、とぼくは言った。だから早くこのスマートフォンのリチウムイオン電池を交換してくれ。

 そうだ。

 すべての意思は関係ないのだ。当人でも相手でも他者でもない、第四者によってすべての罪は許されるべきなのだ。そしてすべての許しによって万物は万物として存在していいはずなのだ。その『許し』に意思や思想は関係するべきではないし、初めから決定づけられている許しを覆すことは誰にもできない。そもそも許しを観測しようというのが間違いなのかもしれないし、箱の中にある許しが観測された瞬間に許しとして成立するのであれば箱の中にあるものの実際の形を見ることは誰にもできない。あらゆる許しによく似た、あるいは許しになり得る不定形な物たちに名前を付けて集団として認識し、共有することは社会的な行為なのかもしれないけど、そういった互恵的な行動は結局のところ相手との協力関係からなる利他的な行動としか意味をもたないし、つまるところ無なのだ。

 ところで、ぼくはいったい何の話をしているのだろう?

ザリザリ、と砂がこすれる音がして、なるほどこれは砂嵐の音か、とぼくは理解する。


 そして田中さんは死んでいる。

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