第24話

 現実は非情だ。

 現実に補正や修正は通用しない。

 現実はただそこにあり、そこで起こっていることでしかない。それ以上でもそれ以下でもないのだ。都合のよい方向に曲がったり都合のわるい方向にねじれたりはしない。ただそこに存在している事象でしかない。

 バスを乗り継ぎ、乗り継ぎ、乗り継いで、そこからさらに徒歩を重ねたぼくが見たのはただの空き地だった。救いようもない現実だった。

「は……」呆然とする。全身に力が入らない。地面に膝をついて崩れ落ちそうになるのを、寸前で押しとめる。

 いったい、ぼくは何のためにここまできたのか。そして何より、ユイは、ぼくの妹はいったいどこにいるのか? 親から聞かされていたユイの住所はたしかにここだったのだ。手紙の返事だってこの住所から出されていたのだ。

 きっと、なにかの間違いに違いない。

 ぼくはそう結論付け、周りの景色を見渡した。

 実に平凡な住宅街だ。一戸建てがあり、アパートがあり、遠くに少し高めのマンションが見える。人通りはまばらであまり多い方ではない。コンビニが等間隔に立ち並んでいて、時おり個人経営の酒屋やタバコ屋、八百屋がある。そしてその中央にぽっかりと――まるでそこだけ型抜きでくり抜いたように――ユイの住んでいるはずだった住所と一致する大き目な空き地がある。

 くり抜いたように。

 そうだ。この空き地は、以前には誰かが住んでいたのだという気配を今も持っている。たしかに持っている。言葉や図式で表せる感覚ではない。肌で触れることでわかる、超感覚的な直感だ。

 では、肝心の住民はいったいどこに?

 しかし、答えを知るものは少なくともいまこの場にはいないようだった。

「……よし」

 ここにきて事態はミステリーの様相を呈してきたようだった。しかし、たしかに人が住んでいたのだということは分かっているのだ。ならば、聞き込みによって情報を得ることは難しいことではない。

「あの」とぼくは近くを通りかかった老人に声をかけた。

 その老人から聞けたのは、たしかにここには一ヶ月ほど前まで人が住んでいたという事実だった。ただし、住んでいるのはユイとその両親だけではなかったそうだ。というより、老人の話を聞いた限りではユイがここに住んでいたのかどうかさえ怪しいように思えた。

 そもそも、ここには豪邸ではなく何かの研究施設のようなものが建っていたのだそうだ。

 研究施設?

 固まったぼくに、老人は補足するように付け足した。

 いわく、どういった研究をしていたのかは誰も知らない。

 いわく、そもそも雰囲気から研究施設だったと言っているだけであり、何かの研究をしていたのだという確固とした証拠はない。

 いわく、頻繁に出入りする白服の職員以外、ここには誰も不気味がって近づかなかった。

 いわく、常に門前ではガードマンが何かを警戒するようにあたりを見まわしていた。

 いわく。

 いわく。

 いわく。

 いわく、ここについて調べるのはやめたほうがいい。

 やめたほうがいい?

 聞き返したぼくに老人は言った。

 研究所には気味の悪いうわさがあったそうだ。なんでも、この研究所に近寄ると神隠しに会うだとか。とはいえ実際に行方不明になった子供がいたわけではないので眉唾物のうわさだが、たしかに証拠を見た人がいるという。

 窓からのぞく、あどけない少女の姿を。

 ……少女。

 どこか引っ掛かるこのキーワードを飲み込み、ぼくは続きを促した。

 しかし、続きの言葉は簡潔なものだった。

 ある日、とうとつに解体工事が始まり、人の出入りがなくなり、そして跡形もなく消え去った。ただそれだけだ。なにか地元と禍根を残して消えていったわけでもなく、立つ鳥跡を濁さずの要領で煙のように消えてなくなったのだという。

 話が終わると老人は「まあ、気味の悪いもんにはあんまり関わらないことだね」とだけ言って悠然と去っていった。

 取り残されたぼくはただ呆然とするばかりだった。

 いったい、どうすればいい?

 一ヶ月も前に引っ越しは住んでいたのだという。たしかに、あの手紙を受け取ったのはちょうど一ヶ月ほど前のことだ。しかしぼくの母はぼくにそのことを伝えなかった。ということは、おそらく母には事実を教えてくれる気はさらさらないのだろう。それだけははっきりと分かった。

 それに、老人から聞いた話の数々。

 研究所。

 職員。

 ガードマン。

 これらを無理やり納得しようと、糸を通して一つに結び付けることは簡単だ。

 研究所らしい外見をしていただけで、実際はただの家だった。家にやとわれていた給仕や仕様人を職員だと勘違いした。ガードマンは、裕福な家であれば雇っていたって何ら不思議ではない。

 しかし、どうしてもぼくはそれらの事象を一言で済むような簡単な事実としては処理できなかった。

 きっとユイはなにか大きな渦の中に巻き込まれている。ぼくはそう固く信じて疑わなかった。さしたる理由はない。ただ確信だけがぼくにはあった。

 いや、巻き込まれているのではない。

 その渦の目はユイなのだ。ユイ自身なのだ。

 いつかの田中さんの言葉が想起される。


 ユイさんはこの宇宙の中心なんです。


 なにか大きなことが起こっているのだ。ぼくには想像もつかない大きなことが。

 それが何なのか考えることは、あまりにも無駄な試みだった。ぼくは何も知らないし、知りえないのだ。ぼくはあまりにも無力だった。常に傍観者でしかいられなかった。いたくなかった。

 けれど、いまは違う。

 ぼくはすべてを知りたかった。端から傍観していることはしたくなかった。 

 ぼくは当事者になりたかった。

 これ以上、停滞しているわけにはいかない。前進しなければいけない。

「……そうだ」

 そこでぼくは不意に思いついた。

 ぼくとユイは戸籍上れっきとした兄妹だ。世の中には戸籍謄本というものがある。主には結婚の手続きなどで必要となるものだが、そこには家族全体の住所変更の履歴まで記されているはずだった。

 問題は、本籍を置いている市区村町にしか戸籍謄本は置いていないことだ。帰ってから取得しても構わないが、ぼくはいますぐこの確認を行いたかった。もしもユイの現住所がわかったのならば、このままの足で向かうつもりだったのだ。

 しかし、この点はなんとか解決できる。この戸籍謄本、原則としては本人、配偶者、または直系血族しか取得できないのだが、裏道として実は第三者が取得することもできる。もちろん不正な請求をすることは禁じられているが、第三者の本人確認書類とまっとうな理由があれば通ってしまうため、実質取得は可能だ。まっとうな理由、というのはいくらでもでっち上げることができるのだから。

 ぼくはスマホをとりだし、数分迷ってから藤原さんにコールした。


「おっけー」

 開口一番藤原さんは言った。

「まだ何も言ってないですよ」

「君が私に電話をしてくるなんて、なにか頼み事があるからに決まってるからね」と藤原さんは言う。「んで、私が君の頼みを断るはずもないってこと。用件は?」

 はきはきとした調子で話を運ぶ藤原さんに合わせ、ぼくは手短に戸籍謄本を代理で取得してほしい旨を伝えた。

「うわー。人に悪いこと頼むもんだねー」と藤原さんは電話越しに言う。

「すみません、ほんと……。あの、埋め合わせは間違いなく」

「デートね。二回、いや三回」

「そんなこと言って、またラーメン屋でしょう?」とぼくは以前の記憶を掘り返して言う。

「ばかばか。そうとは限らないでしょ」と藤原さんは答える。

「でもそうなんでしょう?」

「まあね」

「やっぱり」

 藤原さんはこんな時だって変わらない。それは天然のものというよりかは、あえてのものかのように感じられた。その不変さが、今のぼくにはありがたい。いつだって変わらないものなんて、この世には数えるほどしかないのだから。

「そんじゃ、ちょっと行ってきますか」

「はい、頼みます」

 電話を切る。


 藤原さんからの着信があるまで近辺をぶらぶらとして、時間をつぶすことにする。

 駅前のロータリーにまで出向けば最低限時間をつぶせそうなレジャー施設はあったが、あいにくここから駅前まではだいぶ距離がある。完全に手持ちぶたさという感じだ。

 とりあえずぼくは最寄りの公園に足をはこび、そこのベンチに腰かける。

 そうして腰をおろすと、ぐちゃぐちゃにミキシングされた心がいくぶんかは落ちついた。それでも、底にたまった沈殿物はいまだドロドロと濁っていたが、そこには目をむけずに表層にたまった明るい成分だけにぼくは身を任せた。

 事態はカオスの様相を呈していて、もはやぼくの手におえるような事態ではなくなってきている。それでも、ぼくは何とかしなければならないのだ。なぜって、ぼくはユイの兄なのだから。それ以外に言葉が必要だろうか?

 公園内にはひなたぼっこのためだろうか、老人が一人、二人、それから鉄棒を使ったエクササイズをする若者の男女が一組だけいた。公園内に設置された自販機で微糖のコーヒーを購入し、それを飲みながら彼らの様子を観察して時間をつぶす。

 ……暇だ。

 本来なら、こんなことをしている暇はないのに。

 仮にぼくが物語の主人公なら、戸籍謄本の不正取得などという姑息な手段に頼らずに、今すぐに走り出してユイの居場所を探しにいくべきだ。

 けれどぼくは主人公ではなかった。闇雲にあたりを走り回るだけで起こる奇跡は、主人公にしか与えられない物語の神からのギフトなのだ。ご都合的な展開なのだ。だからぼくはこうして現実的な手段によってことをなすしかない。

 それは見ようによっては無様だ。

 けど、それはぼくにできる最善のことなのだ。

 ぼくはユイを助けなくてはいけないのだ。ユイの兄として、絶対に。

 助ける。

 そこでぼくは不安に駆られる。本当に、ユイはぼくの助けを必要としているのだろうか? そんな疑念が頭の中をかすめる。

 ……いや。

 もう嘘をつくのはやめよう。きれいごとを並べるのはもうやめよう。

 ぼくは、助けたいのだ。自分のためにユイを助けたいのだ。また、彼女とともに何気ない生活を送りたいの。

 ただ、それだけなのだ。

 そして電話が鳴る。


「結果から言って」藤原さんはいくぶんか厳かな調子で言った。「ユイちゃんの戸籍は、この世に存在しない」

「嘘でしょう?」ぼくは耳を疑った。嘘だろ?

「それが残念ながら、本当なのさ」

「そんな――そんなわけがないじゃないですか」ぼくは言った。「ユイはごく普通に――学校へ言って、市民として、ごく一般的な小市民として暮らしてきたんです。そんなわけがあるはずがない」

「けど、事実はそうなのさ」

「そんな」

「それにさ」藤原さんは言う。「私はいま憶測でしかものを言えないけどさ、君はそこで目にして、耳にして、知りえた情報はそんな普通のことだったのかい? ユイちゃんが普通の子なのだと、そう言い切れるのかい?」

「それは……」

「とにかく、私にできることはここまで。冷たいようだけど、これ以上なにもできない。私には」

「……いえ。感謝しています、藤原さんには、本当に」

「そりゃまあ、感謝してもらわなくっちゃあこっちだって助けがいがないよ」藤原さんは言う。「ねえ、よく聞いてね」

「はい」

「君が首をつっこもうとしてることは……つっこむかどうかはまだ分からないけどさ、たぶん君はあきらめずにユイちゃんの居場所を探すだろうと仮定して……」

 そこで藤原さんはいったん言葉を切り、そして続ける。

「異常な事態だ。私たち一般人には手に負えないほどのね」

「……そうでしょうね」

「それでも君は、手を引かないのかい?」

「はい」

「本当に?」

「絶対に」

 そうだ。絶対に、ぼくはあきらめられない。ユイが何者であろうが、ぼくは彼女をあきらめない。たとえユイ本人がぼくの助けを必要としていなくても、そんなことは関係がない。

 ぼくは、ぼく自身のために彼女を助けるのだ。

「よし。いい返事だ」藤原さんは言う。「それじゃあ、まあ」

 そして藤原さんは言う。

「やれるだけやってこいや、少年」

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