エピローቖ₩⸿⸎ⶼᚙ 2

 三人で連れ立って部屋から出て、長い廊下を進む。十日ほどしか過ごしていない王宮だが、自分の家でない割には、それなりに居心地が良かったような気がする、と少年は思った。

 二人の、というよりも少年の出立を惜しむ王妃たちに挨拶をしてから、外に出る。大きな正門をくぐった先には、鞍を設置されて、いつでも飛び立てる様子の騎獣が待っていた。

 鱗に覆われたやや細身の身体を持つこの騎獣は、黄の国でも機動力が求められる部隊が使う種類の獣だ。戦闘能力はあまりないが、その代わりに速度が出る。

 騎獣に荷物を固定し、あとはもう二人が乗るだけだとなったところで、少年はちらりと後ろを見た。騎獣が飛び立つときの風に煽られないようにか、黄の王を含む王宮の人々は、少し離れた位置に立っている。恐らく、この距離ならば小さな声は届かないだろう。

 それを確認した少年は、ぴたりと動きを止めた。そんな彼に、今にも騎獣に乗ろうとしていた赤の王が、首を傾げる。

「キョウヤ?」

 名を呼ばれた少年の肩が、僅かに跳ねた。顔を俯けている少年は、何度か赤の王を見上げようとして、途中でまた俯いて、ということを繰り返したあと、そっと深い息を吐き出す。そして、今度こそ赤の王を見上げた。

「ぁ、あの……、」

 最初の一言が少し裏返ってしまったのは、極度の緊張からだ。

「……あの、ね、……僕、その、……貴方、に、言いたいことが、あって……」

 騎獣に乗っている間は、正面から王を見ることができない。途中に挟まれるだろう休憩の時間も、休むことに専念すべきで、余計な会話をするのは避けた方が無難だろう。紫の国に行けば少しは落ち着けるかもしれないが、状況を考えるに二人きりにして貰えるとは思えなかったし、そもそもそれでは先延ばしにし過ぎだ。

 だから、多分今が良い。いや、もう今しかない。

 きっと、本当ならもっと早く言うべきだった。気づいた時点で伝えるべきだった。けれど、こういうことは初めてだから、上手くタイミングが掴めなかったのだ。何度も何度も機を逃して、気づいたら夜が過ぎて朝が来て、出発のときになってしまっていた。

 歯切れ悪く言葉を紡ぐ少年に、赤の王は何も言わない。遮ることも急かすこともなく、とても優しい顔をして、少年を見下ろしている。

「あの、あのね……、…………僕、」

 判ったのだと。気づいたのだと。知っているのだと。

 なけなしの勇気が、ようやく辿り着いたその想いの背を押してくれる。

「僕、貴方のことが――」


「はぁ~い! 絶妙なタイミングでお待ちかねのウロくんだよ~~!」


 突然、声が割り込んできた。

 余りにも突然のことに、その場にいた誰もが、黄の王ですら、声の主の存在を認知するまでに僅かな時間を要した。

――ただ一人、赤の王を除いて。


 初めの一音の時点で、赤の王は僅かな遅れもなく声を認識し、五感を最大に発揮してその存在を捉えていた。それと同時に、彼の長髪が頭の上まで余すところなく鮮やかに光る紅蓮に染まり、金の瞳が燐光を放つ。

 これは危険だ。これは私の命を脅かす。何を置いてでも対処しなければ。

 本能が抗えぬ圧を以て告げてくる。故に彼は、それに従う以外の選択肢を持たなかった。

 乱入者の声が全てを言い終える前に、彼は我を忘れ、ただ本能のままに全身から灼熱の炎を噴き上げようとした。だが――、

 ずぶりと何かが肉に埋まるような音がして、今にも弾けそうだった炎が掻き消えた。

 僅かに息を詰めた赤の王が、息が触れそうな距離に仮面の人物がいるのを認める。仮面を映す金の瞳が二度の瞬きで隠されたあと、何かを確かめるようにそろりと下ヘと動いた。

 己の左胸。ちょうど心の臓がある位置から、腕が生えている。違う、生えているのではない。深く穿たれているのだ。仮面の人物の細くしなやかな右腕に。

「こんなところで目覚められても困るんだよねぇ。黄色の国を丸ごと焦土にするつもり?」

 耳の端で誰かの引き攣った悲鳴が聞こえたような気がしたが、ロステアールにはそれが誰のものなのかを認識することができない。ただ、仮面の声だけが彼の脳に張り付くようにこだまする。

「君は本当に、度し難いほどに醜悪な生き物だなぁ。これほどまでに全てが自己の中だけで完結している生き物なんて、僕は未だかつて出逢ったことがないよ!」

 肉に埋められた手が、どくんどくんと激しく鼓動するロステアールの心臓を握った。

「その吐き気がするほどの醜い様を眺めるのも一興だけど、君にここで死なれたら計画倒れなんだよね。だから、その馬鹿みたいに緩みきったネジだけ締めさせて貰おうかな」

 その言葉と共に、ロステアールの髪や目から輝きが失せ、元のくすんだ赤へと戻っていく。呆然とするロステアールの視界の端に、頭上から落ちてくる巨大な落雷が映ったが、彼にはやはりそれが何なのかを理解することができなかった。

 一方の仮面の人物、ウロは、自分を狙って放たれた落雷をなんでもないことのように指先で弾き飛ばし、ロステアールの心臓を握る手に力を籠めた。

「…………死なれると困るけど、傷物になるのは別に構わないんだよね」

 笑い交じりに囁かれた言葉に、ロステアールの全身が悪寒に包まれる。全身が小さく震え、引き攣ったような音がその喉から漏れた。

 心臓などという表現では生温い。もっと奥の、最も大事なものに、触れられた。そして今まさに、それに爪先が突き立てられようとしているのだ。

 未だかつて味わったことのない恐怖が、ロステアールを襲う。だが、彼に抵抗することはできない。圧倒的な強者を前に、指先ひとつ動かすことを許されない。

 そんな彼を嘲笑うように、ウロの爪がそれを抉ろうとした。

 

――瞬間、空を覆う雲を貫き、天上から一筋の炎が奔った。周囲の空気を焼き払いながら真っ直ぐに自分に向かってくるそれを捉えたウロは、赤の王の胸からずるりと腕を引き抜いた。そのまま王の身体を邪魔だとでも言うように突き飛ばし、両手を炎に向かって突き出す。

「あっはははははははは! 僕が本気でこいつの魂を傷つけると思ったの!? 馬っ鹿だねぇ!」

 凄まじい熱量の炎を両手で受けて掻き消したウロが、空を見上げながら、地面に転がった赤の王をわざとらしく蹴飛ばした。

「まさかそこまでこれに執着してるとはねぇ! あんたのお陰で、天秤は完全に僕の味方だよ!」

 そう言って楽しそうに笑ったウロは、顔面を蒼白にしてへたりこんでいる少年の腕を引っ掴んだ。それをなんとか阻止しようと、黄の王が雷魔法を叩き込んだが、やはり指先一つで弾かれてしまう。事態の急変を察知して駆けつけた王獣リァンの攻撃も、ウロには全く届かなかった。

「なんだか賑やかになってきたし、ぼちぼち帰ろうかな」

 僕うるさいのは好きじゃないんだよ、とのんびり言ったウロが、指先をついっと上に上げた。すると、彼の足元の地面がどろりと溶けたように波打ち、何色ともつかない不透明な膜が、ウロと少年を纏めて包むようにぐわりと持ち上がった。

「それじゃ、まったねー!」

 ウロがひらひらと手を振ったのを最後に、二人を囲む膜が急速に上昇し、その姿を覆い隠していく。完全に覆われる直前、震えながらも動いた少年の唇が小さく何かを発し、その手が倒れる王へと伸ばされたが、膜はそれをも呑み込んでしまった。

 二人をすっぽりと包んだ膜は、次の瞬間、突然支えをなくしたかのように液体状に崩壊して地面に落ちた。そしてすっかりと膜の消えたそこには、ウロの姿も少年の姿もない。

 その光景を見た黄の王は、ぎりりと歯噛みしてウロが立っていた地面を睨んだ。

 エインストラだろう少年は連れて行かれ、ウロの発言から察するに天秤の状況も芳しくはない。何よりも、実際に相対したウロという生き物は、想定していた以上に危険な存在だった。

 あれを前に動ける人間はきっといない。黄の王は王という生き物であったからこそ、欠片ほどの気力を総動員して攻撃に出ることができただけだ。それこそ、王の本能のなせる業だったと言って良い。人の本能の方が勝っていたならば、あそこでクラリオは指先ひとつ動かせていなかった。

 あれは、こちらの希望を余すところなく奪い去っていく、深淵のような何かだ。




 初めてと称して良いだろうウロの直接的な介入の末に残ったのは、果てのない絶望と、意識の戻らない赤の王だけであった。

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かなしい蝶と煌炎の獅子3 〜虚ろの淵より来たるもの〜 倉橋玲 @ros_kyo

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