第5話

 甦る記憶。

 涙がこぼれそうになるほど甘酸っぱい想い出。

(君だったのか)

 僕が遠い過去へと時を遡行したのか、彼女が遠い未来へと時を跳躍したのか。

 思わず微笑みかけようとしたが、彼女の瞳の中に揺らめいているのは、やはり記憶どおりの嫌悪の炎だった。

「もうやめてよ、こんなこと。嫌いよ、大嫌い!」

 目の前の彼女は、僕に罵声を浴びせると、踵を返してよろめくように走り去って行く。

 一人残された僕は茫然と立ち尽くしていた。

(すべては君から始まったんだ──彩歌)

 そう。彼女の名は鴨沢彩歌かもざわあやか。かつて僕が、独りよがりの愛を押し付け、虐げ、破滅させてしまった女性だった。

 それをきっかけに僕は母国を離れ、放浪の旅の末に死を迎え、甦り──そして今、終わりの見えない、死と復活との環状彷徨の中でもがいている。

 そんな状況での彩歌との再会は、何を意味するのか。

(くり返しの終わり? 人生のやり直し?)

 しかし、現状の解釈さえままならない僕にとっては、いくら考えても納得できる解答なんか得られるはずもなかった。

 それならば、今、この場で僕にできるのは──彩歌を救うことだけだ。

 既成事実では、彩歌はこの直後に事故に遭うことになっている。僕の追跡の手から逃れようとして、半ば心神喪失の状態で車道に飛び出し、走行中の車と接触するのだ。

 そして彼女は記憶を失った。彼女が大好きだった音楽に関すること以外、すべての記憶を──。

 気がつくと、彩歌を追って走り出していた。

 すでに彩歌の後ろ姿は視界から消えてはいるが、目的地、つまり事故現場はわかっている。

 僕は走った。

 走りながら考えた。

 もしかすると、彼女を救うことで何かが変わるのではないか。死と復活の無限ループから脱け出せるのではないか。

 その結果、訪れるのは完全な復活か、それとも永遠の死か。

 現場まであとわずかというところで、僕はついに彩歌の姿を捉えた。

 彩歌はすでに走り疲れたのか、おぼつかない足取りでただひたすら前に歩みを進めているという有様だ。

 彩歌との距離は五十メートルあまり。

 僕は最後の力をふり絞って走る。

 彩歌の進む先に見える歩行者用信号は青だ。このまま何とか追いつくことができたら──。

 あと三十メートル。

 しかし、無情にも青信号は点滅を始めた。

 僕は時折り、道行く人にぶつかりそうになりながらも、彼らを避け、躱し、彩歌に肉薄する。

 歩行者用信号は赤に変わり、車道を走る車の往来が始まった。

 あと十メートル。

 だが、彩歌から車道までの距離は三メートルほどしかない。

 そして、あと数歩で彩歌の身体を確保できる位置までたどり着いたとき、彼女はすでに車道に足を踏み出していた。

 僕は最後の一歩で思いきり跳躍し、前のめりになりながら、ついに彩歌の華奢な胴まわりを両手で捉える。

 その瞬間、右手からけたたましいクラクションが鳴り響いた。

 急速に迫り来る獰猛な気配を感じつつ、僕は車道のアスファルトに着地した右脚を力の限り踏ん張って制動をかける。

 それから、身体を左にひねりながら両手で彩歌を思いきり後ろに──歩道に向けて──投げ飛ばした。

 ほぼ同時に、負荷の限界を超えた右脚が膝から折れ、彩歌を投げ飛ばした反動も相まって、僕は車道に転がる。

 通行人から異口同音の悲鳴が発せられた直後、僕は後頭部から背中にかけて凄まじい衝撃を感じた。

 急速に暗転する意識の中で、僕の聴覚が捉えたのは、自らの頭蓋骨と頚椎が砕け潰れる音と、そして僕の名を呼ぶ「ジュンヤ!」という彩歌の叫び声──。

(よかった。助かったんだ)

 そのとき、おそらく僕は笑みを浮かべていたのだろう。

 長い間、辛い思いをさせてごめんよ、彩歌。

 もう君を苦しめることはないし、君の前に現れることもないだろう。

 これまでの苦しい時間の分まで幸せになってくれ。


 意識はすでに漆黒の闇に同化しつつあった。

 もう幾たびもくり返された展開だ。

 そのまま永遠に闇が続くのか、それともまた新たなループが始まるのか、わからない。

 しかし、僕は初めて充実感に満たされつつ、暗黒の彼方を見つめていた。

 (了)

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無限彷徨の果てに 吉永凌希 @gen-yoshinaga

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