サラリーマンは、高校生になった。そして……

「先輩、目、真っ赤だね」


「悪かったね」


 帰りの電車に揺られながら、安藤が僕を茶化してきた。悪態をつきながらも、僕は少しだけ自分の気持ちが楽になったことに気がついていた。


「安藤、ありがとうな」


「何がですか? 私は大人として、子供のサポートをしたまでです」


 そういえばいつか、もうこれ以上彼女を頼らずにいようと思ったような。思えばだいぶ、彼女にも助けてもらった。


「助けてもらった人にお礼を言うのは、当然だと思うからさ」


 僕は微笑んで安藤に伝えた。


「……それなら、私も先輩にたくさんをお礼をしなきゃいけなくなりますね」


「それとこれとは別だよ」


 僕は特急電車のシートに寄りかかりながら、続けた。


「だって僕は、もうサラリーマンじゃないんだから。高校生の僕は、君に何の手助けもしていない」


「……そうでしたね」


 安藤は、少しだけ寂しそうに微笑んでいた。


「でも、ありがとうございました。先輩のおかげで私は、色々、たくさん。教えてもらったから」


「……そうか」


 電車はまもなく、新宿に到着する。

 向こうを出た頃にはまだ外も明るかったのに、着く頃にはすっかり夜だ。


「いつの間にか……随分と日が暮れるのも早くなった」


「それは違いますよ」


「え?」


「先輩が気付かなかっただけですよ。時間はね、ゆっくりと、だけど確実に進んでいくんです。だから、一分一秒を惜しんじゃいけないの」


「哲学染みたことを言うようになりましたねえ」


 茶化すように、僕は微笑んだ。

 電車が新宿駅に滑り込んだ。乗客達が世話しなく電車を降りていく。


「さ、降りましょうか」


「うん」


 微笑む安藤の後に続いて、乗客のいなくなった電車を降りた。

 暗くなった外で息を吐くと、白い煙が広がって、消えた。

 鼻が少しだけ寒さで痛い。

 

 僕は今、生きているんだ。


 そう実感させられた。

 彼女の言うとおりだ。そう思った。

 時間は僕達の思い通りになることはない。少しづつ少しづつ、でも確実に進んでいく。


 初めは虚無だったこの体に、気がつけばたくさんの変化が生まれている。

 僕が努力して築いた成果。

 僕が悩みながらも紡いでいった友情。

 

 そして、溢れるこの想い。


「じゃあね。鈴木君!」


 そして。


「次、会う時は……妹の友達だねっ」


 彼女との関係もまた、変わっていくのだ。

 サラリーマンと決別した僕は。

 もう彼女の同僚でもない。先輩でもない。片思いの相手でもない。


「……そうですね」


 僕達の関係は、変わったのだ。


「うんっ」


 でも、嫌な気持ちはまったくしなかった。


『君が先輩だったら良かったのに』


 僕との別れで停滞していた彼女は、また成長していくだろう。また、先に進み始めるだろう。


「またね!」


 だから僕は、変わってしまった関係を惜しまない。

 だって、永遠の別れってわけじゃないんだから。

 何一つ、悲しむ必要はないじゃないか。


「サヨナラ、真奈美さん」


 彼女に聞こえないように、僕は小さく呟いた。


********************************************************************************


 始業式が終わると、半日授業ということもあり、生徒達はさっさと下校していった。多分、夏休みよりも短い休みでは楽しめなかったとか言い出していたし、皆でカラオケでも行ってくるのだろう。


 そんな中僕はといえば、


「じゃあ白石さん、いつもの場所で」


 白石さんを呼び出していた。


 非常階段、廊下からそこに出ると、冷たい空っ風が僕を襲った。寒さで悴む手を擦りながら、僕は階段を昇っていった。


「……あれ」


 屋上前、いつもの扉の前に、彼女はいなかった。


「鈴木君、こっち」


 見上げると、白石さんはいつかの時みたく、屋上に不法侵入をしていた。


「おいおい、生徒会長がそんなことしていいのかい」


「ばれなきゃいいのよ、ほら。あなたも来てよ」


 おい、模範生。

 文句もそこそこに、僕は彼女が言った言葉の意味を理解する。


「え、ムリムリ。僕高いところが苦手なんだよ?」


「大丈夫。ほら」


 白石さんが手を伸ばした。


「えぇ……?」


「鈴木君。これ以上あたしを待たせないで」


 なんだか含みのある言い方だ。白石さんの顔を見ると、彼女は少しだけ真剣そうな目でこちらを見ていた。

 ……これ以上待たせないで、か。


「わ、わかったよ。わかった」


 震える手足を振るい立たせて、僕は手すりに足をかけた。


「う、うわあ……」


 下を見たら、思わず小さく悲鳴をあげてしまった。た、高い……。


「ほら、手」


 白石さんの伸ばした手を掴むと、強い力で引っ張られた。

 僕は彼女の手を離さないように、少しづつ、手すりを伝っていった。


 そして。


「うわわっ!」


 手すりから飛び降りると、緊張した手足がまともに制御できずに、思わず白石さんに抱きついてしまった。


「フフフ。大胆になったわね」


「アハハ。そういうわけではないんですけどねえ」


 ゆっくりと彼女から離れると、目が合った。二人で微笑みあった。


「どう?」


「何が」


「屋上の景色」


「……景色」


 屋上の景色。

 これまで僕が、怯んで見てこなかった景色。見ようとしなかった景色。


 それは……、


「意外ときたねえ」


 雨に打たれっぱなし。掃除もされない屋上は、結構汚かった。正直、彼女が好き好んでここにいた意味がよくわからない。

 

「なんでこんな場所にしょっちゅういたの?」


 素直に聞いた。


「一人になる時間が欲しかったから」


 そういえば彼女、いつかもそんなことを言っていたな。


「でも、誰かのおかげで、人といる時間も悪くないって思うようになったわ」


 それが、彼女の成長。今日まで彼女と同じクラスで、彼女の成長を見てきた。だから僕は知っている。彼女は成長した。彼女は、先に進んでいる。


 それに比べて、僕はどうだ?

 何度も彼女を悲しませてきた。そんな僕は、果たして成長しているのか? 

 多分、してこれていなかったのだろう。サラリーマン時代までに培ってきた経験で、やり方で、僕は全てをどうにかしようとしていた。

 だから、彼女を傷つけてしまった。


「いつか怖がりのあなたをここに来させたいと思ってた。怯えた顔見たさだったんだけどね」


「ひっでえ」


 でも。

 怖がって昇れなかった屋上への道を。


 僕は今日、昇ったのだ。


 彼女と一緒に。


 僕は多分、これからどんどん成長していける。高校生の僕は、その漲る若さで、きっとどんな困難も成長の糧へと変えていくのだ。


 彼女の隣で。彼女と一緒に。どこまでも、どこまでも。


「白石さん」


「何?」


「好きだよ」


「知ってる」


 僕は笑った。そういえば、もう伝えていたな。僕の気持ちは。

 僕は、白石さんの手を握った。ほんのりとした温かみを感じた。きっとこれが、彼女の心の温もりなんだろう。


「ごめんね。長いこと迷って」


「いいわ。でも反省して頂戴。どうしたら同じ失敗を繰り返さなくなるか考えましょう。一緒に」


 僕は再び笑った。きっとこれも彼女の成長。まるで僕のようなことを言うようになった。

 嬉しかった。

 

『一緒に』

 

 彼女は、僕と共に成長することを望んでくれていた。

 だから、嬉しかった。


 どうやら……。

 この溢れる想いは、もう留まることはないみたいだ。


「ねえ、白石さん」


「何?」




「僕と……付き合ってくれませんか?」

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