決別
「先輩、そろそろ着きますよ」
「……ん。ああ」
眠い目を擦りながら、僕は目を覚ました。先ほどまで続いていた長いトンネルはすっかり抜けたようで、スマホを見ると電波が通っていることに気がついた。
「ここが……」
僕は今、僕が幼少期生きた地に、安藤と共に来ていた。
車窓から見えるぶどう畑。
跨線橋。
山々。
どれ一つとして見覚えはない。これもきっと、僕が鈴木高広の体に乗り移った時に忘れてきてしまったものなのだろう。
「うー、さむ」
「ほら、先輩のために来たんだから。うじうじしないの」
訪れた地が盆地であること。今が冬であることから、外は身が縮こまるほどの寒さだった。
カイロを仕込んだ体をさすりつつ、垂れそうな鼻水を啜っていると、安藤にお灸をすえられた。
「こっからどんくらい歩くの」
「うーん。私も来たのは初めてだけど。三十分くらい」
「結構遠いんだな」
「ま、都会みたいにどこもかしこも線路が走っているわけじゃないですしねえ」
旅行気分の安藤は、少しだけ楽しそうだった。
僕はといえば、やはり寒さで体を震わせていた。
「寒がりさんですねえ」
「うるせえ」
あきれ返る安藤に、僕は悪態をついた。
「ほら、行きますよ」
「うい」
僕達は駅を出て、歩き出した。
北口から出て、ロータリーを抜けて、国道沿いを歩いた。昼間にも関わらず、車の通りはあまり多くなかった。
一極化が進むわが国にとって、首都圏とはいえ山々に囲まれたこの地は、若者が去っていく条件が整っていた。かの僕も、その一人だったわけだな。
しばらく国道沿いの歩道を歩いて、少しだけ見覚えのある道路にたどり着いた。右手にある健康ランド。
左手の道を曲がれば……えぇと、何があったかな。
「どうしたんですか?」
「いや、この辺に見覚えがあってさ。昔よく通っていたような」
「ふぅーん」
小さな交差点で、安藤はあたりを見回した。
「あ、あれじゃないですか?」
「ん?」
道路を南に進んだ先にある校舎を、安藤は指差していた。
ああ、なるほど。
「先輩、ロリコンなのは昔も一緒だったんですね」
「違うわ。通ってた学校だろ、学校!」
悪乗りして僕を性犯罪者に仕立て上げようとする後輩に、僕は怒鳴った。まったく。姉妹揃ってその辺は相変わらずだな。
「冗談ですよ。この辺、先輩の幼少期の通学路だったんですね、多分」
「ああ、そうだと思う」
しばらく歩きながら、僕の童心通った道を見て回った。ただ、微かに当時の記憶との齟齬があるのは、やはり僕の記憶が不鮮明だからなのか。それとも、この辺の人が減ったことが原因なのか。
「ねえ、先輩」
「ん?」
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないんですか?」
「……ああ」
安藤の言いたいことを察した僕は、小さく同意した。
「もうっ。私達、秘密を共有する関係じゃないですかっ」
しかし僕の態度が何も伝える気がないものと思ったのか、安藤は立腹しながら言ってきた。
「誤解のある言い方やめろ。罪に問われるのはそっちだぞ」
彼女は二十四歳。こっちは見た目は十五歳。……いや、そういえばこの前十六歳になったんだっけか。
とにかく、未成年保護法的には、向こうが断罪される立場。誤解のある言い方は控えてほしい。
「いいから、教えてくださいよお」
「教えないなんて誰も言っていないだろ」
鬱陶しい後輩に、僕は言った。
安藤が知りたいこと。
それは、先日寺井さんが報告してくれたこと。
僕の体の。鈴木高広の最後の真相であった。
先日、出版社にて事の次第を報告してくれた寺井さんのうろたえ方は、今も忘れることは出来なかった。
「あの時、先輩だけ一人納得げで、私は置いてけぼり。本当、信じられない」
「悪かったよ」
軽いノリで謝ると、安藤は不服そうに頬を膨らませていた。
「その前に、おさらいだな。彼の死に際の」
僕はそう言うと、気を引き締めるために目を閉じた。
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それは先ほど語った出版社での話。
いつかと同様に僕達は受付嬢に予約の旨を伝えて、前回よりも一回り小さいブースに通され、寺井さんと合流を果たしたのだった。
「ああ、どうも」
寺井さんは先日のような誠実そうな態度は少しだけ見受けられなかった。多分、相当今回の件の調査を尽力してくれたのだろう。目の下は、少しだけ隈が浮いていた。
「どうでしたか?」
「どうでしたか、と言われると……困りますね」
ボサボサ頭を掻きながら、少し困ったように寺井さんはしていた。
「というと?」
「えぇ。まず、あんまり驚かないで聞いて欲しい」
寺井さんはそう前置きをして、続けた。
「君達の先輩ですが……自殺した当初は、警察は薬物投与の疑いがあると断定して調査をしていました」
「や、薬物っ!?」
安藤がこちらを驚きの眼差しで見ていた。
いや、そんなこと僕した覚えがないぞ。と言いたげに、僕は必死に頭を横に振っていた。
「ご安心ください。家宅捜索でも白。検死の結果でも確認されなかったみたいですから」
寺井さんは僕達を安心させるように言った。
ただ、再び困ったようにボサボサ頭を掻いていた。
「ただ、おかげで余計に捜査が難航したと言っていましたよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「何でしょう?」
「捜査やなんやって、彼は自殺だったのでしょう? 遺体回収とかで警察が介入するのはわかるけど……」
遺体回収と言ったところで、安藤の顔が白くなっていくのがわかった。ミンチになる僕でも想像したのかもしれない。……僕も具合悪くなってきた。
「えぇ、普通はそうです。ですが、先ほども言ったとおり、あなた方の先輩の直前の行動があまりにも不可解すぎて、警察が事件として処理することになってしまったというわけですね」
「……一体何が?」
それほどまでに不可解な行動。
やはり彼は。鈴木高広は、ただ自殺をした、というわけではなさそうだ。
「まず、当日の彼の確定的な情報から」
そう言って、寺井さんは数枚の紙をこちらに差し出した。地図だった。いくつかのポイントに丸がしてある。
「まず、ここ。お二人も知っているかもしれないですが、ここは彼の自宅です」
「ええ、そうですね」
安藤の同意に、僕はそうだったのかと思っていた。見れば、上野駅からは結構近い。
「彼はこの自宅で、朝六時に大きな声で奇声を発したそうです。それも数回。堪らなくなった隣人が扉を殴るようにノックすると、急に彼は家を飛び出して素足のまま走り出したそうです。
そして、次はここ。警察の聞き取り調査の中で、いつも早朝に犬の散歩に出ている人から当時の彼の様子を聞けたそうです。彼は大層慌てた様子で、車に轢かれそうになったにも関わらず、そのまま走り去ったそうだ」
白石さんの車だ。
「そして、駅。ここでの彼の行動が、警察が彼の調査に乗り出した最たる理由だったみたいです。
まず彼は、家から飛び出した十分程後に、奇声を発しながら改札を破壊して駅構内に侵入。駅員の制止も聞かず、そのまま階段を駆け上がって、突如足を止めた。
そして、そのままふらつく足取りで歩いていく内に、ホームから転落。丁度その時、電車が滑り込んできて……」
それ以上、寺井さんは何も言わなかった。
ふと隣を見ると、安藤が今にも泣きそうな顔で俯いていることに気がついた。
「以上が、彼の死に際の行動でした……まあ、何といいますか」
寺井さんは困ったように、続けた。
「もう、○○製作所どころの話でなくなってしまいましたね」
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「桶、持つよ」
「あ、どうも」
水を張った桶を受け取って、僕達は砂利道を歩いていた。そのまま歩いて、右手を向けば、長く急勾配な坂が続いていた。
「さ、昇ろう」
「はい」
坂の途中には、いくつかの墓が立ち並んでいた。
「それで、どういうわけだったんですか? 鈴木君の死の真相」
少しだけ荒れた息で、安藤は言った。
「……ああ。実はさ、僕最初、すぐにホームから一緒に転落した人の……鈴木君の顔を、思い出せなかったんだ」
「ほう」
「誰かと一緒に落ちて、電車に轢かれそうになったのは覚えていたんだけども……それが誰かは思い出せなくて、おかげで実力テストはボロボロだった」
「それは実力では?」
はい。その通りです。
「多分、事故のショックか何かだったんだろうけどさ。僕は結局、丸二日ぐらい鈴木君の顔を思い出せなかった。でも、気付いた時は焦ったよ。自分と一緒に死にかけた人に乗り移っているだなんて、誰も思わないだろ?」
「そうですねえ」
「それで、だ。僕が思うに、鈴木君も最初、自分が誰に乗り移ったのか思い出せなかったんじゃないかと思っている」
「ああ、なるほど」
「僕が鈴木君のことを思い出すのに、丸二日。鈴木君が思い出したのは約一日。年齢の差なのかは知らないけどさ、多分鈴木君。鏡を見て、びっくりしたんだと思う。
自分が巻き込んで殺した人に、自分は乗り移ってしまったって」
「……それは確かに、キますね」
僕は頷いた。僕も少しだけ、息が荒れ始めていた。
「そう考えると、彼が奇声を発して家を飛び出したのも、怯える顔で走り回ったのも、遠くに逃げたくて駅に突っ込んだのも、納得出来る」
「でも、不思議です。ならなんで鈴木君は、ホームで足を止めたんです?」
「それは、あそこが鈴木君が自殺を図った駅だったから」
安藤は唸っていた。
「彼、わざわざ自分の最寄り駅で自殺を行わなかったんだ。多分、見知った顔に死に際を見られたくなかったとか、そんな理由だったんだと思うけど……。
とにかく、そんな彼にとって、自殺に選んだ駅は、本来見覚えすらない駅だった」
「それが、偶然乗り込んだ駅がその駅だった、と」
「だから呆然としちゃったんだと思う。考えもまとまらない内に歩いて、足元に気付かず、線路に落下」
「そして……」
安藤は俯いた。
「……あ、ごめん。先輩、行き過ぎた」
「えぇ、どこ?」
「あそこ、あそこ」
まったく。話に夢中になるあまり、安藤はすっかり目的地を忘れていたらしい。
「しょうがないじゃん。一回しか私も来たことなかったし」
「へいへい、案内ありがとう」
「どう致しまして」
気を取り直したように、安藤は微笑んだ。
少しだけ坂を下って、僕達は墓の前に立った。
「今ここに、僕の体は眠っているんだな」
僕の苗字のはずなのに、見覚えがなかった。それが少しだけ、悲しかった。
「さ、花を生けましょうか」
「うん」
安藤は枯れかけの花を抜いて、持参してきた花を生け直していた。僕はといえば、お墓や地蔵に水をかけていた。足元に水が少しだけはねた。冷たくて、感傷的で鈍った心が覚醒するような気持ちだった。
僕達は今日、彼の墓参りに来ていた。僕の体で死んでいった、鈴木高広の墓参りを。
粗方の手筈を済ませると、安藤が用意した線香に火をつけた。火が消えると、線香の先から白い煙が昇っていた。どこまでも。どこまでも。
「先輩、先にいいよ」
「ありがとう」
僕は線香立てに線香の束を挿して、手を合わせた。
邪念が払われる気分だった。少しづつクリアになる頭で、僕は考えていた。
いつか白石さんと不忍池に行った時、彼女に好意を感じた時。
僕は僕が鈴木高広として生きることを、復讐劇だと思っていた。身勝手に僕の体を奪った彼を、到底許すことは出来なかったから。
でも、安藤と話して、『清算』したがっている僕の本心を彼女に見抜かれて。
鈴木君の死が、僕が思っていたような身勝手な物ではないと知って。
確かに、未だに彼に対して許せると思える気はしない。何故、命を大切にしなかったんだと糾弾したくてしょうがない。
でも。
でも……。
僕は今、彼として……、鈴木高広として生きていることが、復讐劇なんかではないことを知った。
命ある者が前に進むこと。
命ある者が青春を謳歌すること。
命ある者が、誰かを想うこと。
それはきっと、復讐劇でもなんでもない。
それはきっと、『生きる』ということなのだ。
だから、僕は。
「決別しよう」
墓で静かに眠っている僕の体に、そう語りかけた。
僕が僕として生きたこれまでと。
僕が培ってきて、無くしてしまった物と。
決別しよう。
「だって、そうだろう? 僕は今、生きている。でもお前はもう……もう、死んでしまった」
亡くなった体を惜しんだって、もうそれは返ってこない。
「僕はそんなに器用じゃない。いつまでも無くしてしまったものを惜しんでいられるほど、余裕はないんだ。だから、サヨナラだ」
そんなものにいつまでも縋って、どうなるというのだ。
無くしてしまった物を惜しんで、悔やんで、何になるというのだ。
僕は今、想っている人がいる。
共に歩んで生きたいと思っている人がいる。
その人のためにも、僕は先に進まなくてはならない。成長していかなければならない。
僕が成長していくには。
彼女に追いついて生きていくには。
僕と。
二十五歳の僕と。
サラリーマンの僕と……。
決別しなくてはならない。
「だから、決別だ」
僕はもう、僕ではない。二十五歳でもない。サラリーマンでもない。
僕は……。
サラリーマンは、高校生になったのだ。
「またな」
涙は流さなかった。僕は僕との別れを惜しんだわけではない。
だから僕は……。
「先輩、行きますか」
「うん」
安藤の言葉に、僕は頷いた。
急勾配の坂を、一歩一歩確かめるように下った。
ふと、坂の下で中年の夫婦が、これから墓参りに向かう姿を見つけた。年を取ると辛くなるだろう急勾配の坂を一歩一歩昇ってきていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
夫婦はこちらと通り過ぎ際、会釈をして微笑んでいた。僕は倣って、彼女達に挨拶をした。
安藤は、なぜか黙っていた。
「ほら」
放心の安藤を脇に寄せて、中年夫婦が坂を昇れるように道を開けた。
「せ、先輩」
「何?」
中年夫婦が坂を昇っていき、安藤はようやく言葉をかけてきた。
坂を下りながら、彼女の言葉に耳を傾けた。
「あの人達のこと……」
「何? 何だよ、らしくない」
本当、どうしたと言うんだ。彼女らしくもない。
彼女が気にしていたのは、あの中年夫婦のことだったか。
見上げると、
「……あ」
中年夫婦は、先ほどまで僕達が立ち寄っていた墓の前で、足を止めていた。
既に先客がいたことに驚いたのか、奥さんがこちらを振り返っていた。
そして、僕と目が合った。
「あ……。ああ……」
不鮮明になっていた記憶が、蘇っていく。
モヤがかかっていた記憶の道が、急に晴れていく。
僕は、思い出していた。
この地で暮らした日々を。
この地で育んできた思い出を。
そして、
「父さん……母さん……っ」
両親を。
ここまで僕を育ててくれた両親を。
僕は今更、思い出していた。
大粒の涙が止まらなかった。両親が僕達の方を見なくなってからも、僕は膝から崩れて、涙を流し続けた。
「ごめん……ごめんなさい」
ごめんなさい。
碌に親孝行もせず、去ってしまって、ごめんなさい。
孫の顔を見せずに去って、ごめんなさい。
二人を置いていってしまって、ごめんなさい。
溢れる涙を止めることは出来ず、僕は彼らに謝り続けた。
以降、彼らが僕のことを気に留めることはなかった。
僕と彼らは、もう他人だった。
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