魂は肉体と同化していく
水曜日、昼休み。
昨日の一件ですっかり気落ちした平田君は、僕との食堂へ行く誘いを断って、一人で食堂へ向かっていった。
「めげるなよ、絶対に」
やる気は人一倍ある彼を、いつの間にか僕は認めていたのだと思う。彼の背中に向けた言葉は、熱意がこもっていたと自分でも思った。
「あら、久しぶりね」
というわけで僕は、彼の願いを果たすため、久しぶりに屋上に繋がる階段を上っていた。彼女は今日も、閉鎖された扉の前でご飯を食べていた。もう屋上へ行く気は無くなったのだろうか。
ここに来たのは、彼女の言うとおり随分と久しい。なんだかんだ僕もクラスに馴染み、友人も増えて、彼、彼女らとお昼ご飯を食べに行く機会が増えた、というのが一つ。
もう一つは、
「熱い」
ヒートアイランド現象に、体がついていかないためだった。
「熱いわね」
「なら、教室で食べなよ。熱中症になるよ」
「大丈夫。お昼はなるべく一人になりたいの」
閉鎖的な精神性だなあ、とは口が裂けても言えなかった。
「ほら、熱いでしょう。座って」
そう言って彼女は、いつかみたく僕に隣に座るよう促した。
「というか、いいの?」
僕は彼女の隣に腰掛けながら、尋ねた。
「何が?」
「お昼はなるべく一人になりたいんでしょう。僕、ここにいていいの?」
「構わない」
「なして?」
「あなたを人として見ていないから」
思わず見惚れる笑顔で、最低なことを口走った少女に、僕は目を細めた。
「ま、いいや」
「随分と要領がいいじゃない」
別に喧嘩をしに来たわけじゃないし。これも口が裂けてもいえないが。
「で、今日は何しに来たの?」
「え、何で?」
え、何で用事があること知っているの。
「だってあなた、用事もなしにここに来ないじゃない。ここに来る時は決まって、面倒事か厄介事がある時だけ。あたしのこと、都合の良い女とさぞ思っていることでしょうね」
「いや、そんなことは思ってないが」
「じゃあ、何も用事はないの?」
「いえ、あります」
「ほらみなさい」
少しだけ、白石さんは不機嫌になった。
もう、季節はすっかり夏だ。肌にこびりつくような不快な熱気も、耳障りな蝉の鳴き声も、全て夏を象徴している。
少しだけ、懐かしい気持ちを覚えた。サラリーマンになって以降は、外出する機会も限られていて、こうして存分に肌で夏を感じたことはない気がした。だから、いつも目の前にある景色を新鮮だと錯覚してしまっていた。
ま、そんな僕の感性の話はどうでも良くて、今はどうやってこの悪い空気を和ますかを考えよう。
「で、用事は?」
しばらく黙りこくった僕に、白石さんは少し寂しそうに聞いてきた。
「実は、ある相談をされてさ」
「相談?」
こっそりと話を挿げ替えた。本当は僕が無理矢理手伝った話なのだが、平田君に相談された体にした。その方が、波風立たない気がした。
「そ、君と付き合いたいって男子がいてさ。で、色々と相談に乗っていたんだ」
「……そう」
白石さんは俯きながら、続けた。
「昨日図書館で会った人ね」
「よくわかったね」
「あたし、昔から結構もてるの」
「まあ、綺麗な顔立ちしているもんね」
白石さんの頬が心なしか赤くなった。
「ああいうアプローチ、結構されたことあるから。すぐわかった」
僕の言葉は無視されて、白石さんは言った。
「でも、あなたの差し金だったのね」
「うん」
「道理で」
「うん。うん?」
道理で、何なのだ?
「とにかくさ。中々うまくいかなくてね」
「当人にそれを言うのはどうなの?」
「まあまあ、それで、お願いがあって来たんだ」
白石さんの瞳が不安そうに揺れた。
「彼、平田君さ。本当に君のことが好きみたいなんだよ。どうすれば君に自分の良いところをアピール出来るか。君に好いてもらえるかって毎日のように必死に考えて、悩んじゃってさ」
少しだけ話を盛りながら、僕は本題を切り出した。
「だから、お願いがあるんだ。恋人になってあげてなんて言わない。それは、互いが互い、好きあって初めて結ばれる関係なんだから。まだ互いを何も知らない君達に、そんなお願いはしない。だからさ、せめて、彼と友達になってあげられないかい。せめて、君に彼のことを教えてあげられる場を与えてあげられないか?」
白石さんは俯いていた。
「それが、鈴木君の望み?」
呟くような小さな声で、少女は言った。
「うん」
力強く頷くと、「そう」と少女は囁いた。
「わかった。友達になる」
ホッ。
恋人になりたいという平田君の願いには届かなかったが、折衷案としては上々だろう。それに、先に語ったように、互いが互いのことを知っていくことで、恋愛に発展していく可能性がないとも限らない。
「その代わり、約束して」
「え?」
友達になることへの交換条件か。まあ、呑める内容なら呑もう。
「あなた、安藤さんには野球を一緒に見に行く約束をしているのでしょう?」
「え、何で知っているの」
「本人が嬉しそうに教えてくれた」
「ああ、そう」
別に構わないが。また、誰かに誑かしている、とか言われないよな?
「で、それが?」
「あたしとも、一緒にどこか行きましょう?」
頬を染めながら、白石さんは言った。
「どこって、どこ?」
「そうね」
白石さんは少しだけ悩んで、
「なら、上野の動物園に行きましょう。パンダ、見たことないの」
「うん。わかった」
そのくらいのことならば。
「ありがとう」
二つ返事で了承したことに白石さんは満足したようで、立ち上がって階段を降り始めた。
「え、まだ昼休みは残っているよ?」
彼女はいつも昼休みギリギリまでここで時間を使うのに。今日は何故かまだ十分以上時間があるのに、教室に戻ろうとしだした。
「いいじゃない」
少し弱弱しい声で、白石さんは続けた。
「熱いから、戻るの」
振り返りながらそう言う彼女は、苦笑していた。
階段を駆け下りていく白石さんを、僕は追うことはなかった。
彼女のあの態度を見て、今更自分の過ちに気付いて、罪悪感に駆られていた。
彼女は僕のお願いに、誠意を持って了承してくれた。というのに、僕はといえばどうだ。交換条件一つでも自分に不利益かどうかを見定めようとして、キチンと彼女に誠意を持った態度でお礼をしようとしただろうか。いいや、していなかった。いつだって自分への不利益を最優先に考えて、場合によっては彼女の願いを無下にすることだって躊躇わなかっただろう。
きっと僕がこんなにリスクヘッジを考えるようになったのは、あの社会人時代の経験があったから。たった三年の社会人生活だったのに、濃密過ぎた故に、性格や考え方まで歪んでしまったんだ。
「……でも、忘れてしまった」
頭を抱えた。僕は、この体に取り憑いてからずっと、思い出せないことがある。
それは、僕の社会人生活の記憶の断片。同僚の顔は思い出せるのに、会社のあった住所が思い出せない。どんな交渉をしてきたかは思い出せるのに、交渉の術やノウハウは思い出せるのに、社名や職種は思い出せない。
そして、当時自分が住んだ家も、実家の住所すら思い出せていない始末だ。おかげで、今の自分がどうなっているか確認すら出来ない。
初めは、ただ電車に轢かれたショックによる健忘だと思っていた。でも、最近そうではないのではないかと思い始めていた。
だって、失っていっているのはそれだけじゃないから。
時たま僕は、自分が誰だかわからなくなる。いいや、違う。時たま僕は、自分が『鈴木高広』だと思ってしまっている時がある。なるだけ意識付けして、僕と鈴木君を区分けして考えているのに、それでもいつの間にか錯覚を起こしてしまう。
自分が二十五歳であることは忘れないのに、そんなことになってしまっているのだ。
この体の……鈴木高広君の体に、運命に。僕の魂が同化しようとしているのか、元サラリーマンの記憶を時々忘れてしまうのだ。
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