交渉決裂

 昼休み終了まで残り二十分くらいになった時、僕は職員室の目の前にたどり着いた。

 さ、さっさと済ませてしまおう。扉に三度ノックして、


「失礼します」


 僕は声高らかに言った。


「はいはい。どうしたの」


 隣のクラス女担任が、億劫そうにこちらに近寄った。


「えぇと」


 唸って、僕は気付いた。吹奏楽部の顧問の名前を知らない。


「吹奏楽部の顧問の先生に用事が」


「え?」


「いや、少し部活動のことで相談が」


 パッと浮かんだ言葉を口にした。近からず遠からずなので問題ないだろう。


「鳳先生、お客さんですよ」


 気だるそうに大きな声で、先生は鳳先生を呼んだ。吹奏楽部の顧問、鳳というのか。覚えておこう。


「はい。何でしょう」


「お客さん」


「お客さん?」


 うおお。

 思わず唸ってしまった。

 長すぎず短すぎない髪が歩く度に靡いている姿も。

 優しい目元で、こちらに近寄ってくる毎に眩しいくらいの微笑を見せる姿も。

 こちらにお辞儀して、再度微笑むその姿も。


 全てが様になっていた。男相手なのに、何でこんなにも見惚れてしまったのだろう。


「ええと、君は」


「あ、鈴木です。鈴木高広と言います」


 その名前を聞くと、ああ、と鳳先生は唸った。やはり鈴木君。この子も負けず劣らず有名人だ。


「こんにちは、鈴木君。今日はどうしましたか」


「えぇと、部活動のことで相談がありまして。ここじゃなんですので、応接室で話させてくれませんか?」


「応接室で?」


 まさか、初対面の生徒から突然こんなことを切り出されるとは思っていなかったのだろう。鳳先生は少し驚いた顔でこっちを見ていた。

 しかし、すぐに脳裏に焼きついてしまった眩しい微笑を取り戻して、続けた。


「どうぞ。今は誰もいないでしょうし、構わないでしょう」


 この決断力。察するに、この男モテるな。あ、周知の事実か。


 応接室に入ると、鳳先生は端にあるポットに水を加えてこようとしていた。


「鈴木君、コーヒーでいいかい?」


「いえいえ、昼休みも短いんだし、構わないでください」


「そうかい?」


 少し残念そうにポットを元あった場所に戻して、鳳先生は上座のソファに僕を座らせようとした。


「どうぞ」


「いやいや、年功序列ですよ。こっちには先生が座ってください。上座なんだから」


「え。あ、こっちが上座だったのか。これは失礼しました」


 頭を掻きながら、鳳先生は上座に腰掛けた。おいおい、良い大人がそんなことも知らなかったのか。


「鈴木君も座ってください」


 ……いや、まさか。


「鈴木君、今後は突然な訪問は控えてくださいね?」


「え、何故です?」


「実は私ね、結構問題児として先生界隈では知られていてね。ほら、職員室出る時、少し空気が凍っていたでしょう? 後で多分、私怒られてしまうでしょうね。だから今後は、相談がある時は事前に連絡をしてくださいね」


 この人。プロだ。上座を僕に譲られて、年下相手にムキになるのもおかしいから、何も知らない体でわざと上座に腰掛けたんだ。

 しかもこの言い草。飛び込みでの対談の場を無理矢理作った僕を咎めるにしても、自虐気味に言う事で波風を立てないようにする機転。この男、気の利く男だ。


「ま、何かあったのかと聞かれても、何もなかったと答えるんですけどね。この場にいない以上、何かあったかなんて向こうはわからない。いやあ、二人きりで話し合いをさせてくれてありがとう」


 しかも、話術まであるよ。ちょっと完璧すぎひん?


「それで、話とは?」


 内心、僕は既にお腹一杯だったのだが、そう聞かれた以上話さざるを得ない。


「単刀直入に言います。明智博美さんの件です」


「明智さんの? ああそうか。君達、天才キッズ二大巨頭でしたね」


 その通り名随分と広がっているんだな。なんだか背中がむずがゆくなるから辞めて欲しい。


「それで、明智さんのことでどんな相談があるんですか?」


 微笑ながら、随分とグイグイくるな。ちょっと意外だ。初対面で抱いていた印象とは少し違う。


「先生、明智さんにだけ随分と辛く当たっているようで」


 そう言うと、ここまでずっと笑顔だった鳳先生の眉がピクリと動いた。


「なるほど、それで?」


「彼女、結構精神的にきているようだったんですよ。たかだか部活が理由で病むなんて、僕はおかしいと思っています」


「そうですか」


 一度こそ眉がピクリと動いたが、それ以降彼はずっと笑顔を貫いていた。恐らくこれは、博美さんに辛く当たっている自覚がある証拠。それでいて、自らが何も悪いことをしているとは思っていない証拠。


「そこで、先生に一つお願いがあります」


「言っておきますけど」


 今までよりも冷淡な口調だった。思わず背筋が凍りそうになるほど、冷たい声だった。


「彼女への指導の仕方を変えろ、なんて言われても、私は変える気はありませんよ」


 多分この人は、誰かにいつかこう言われることもわかっていた。だから、僕の言葉を聞くよりも先にそう言えた。


「さ、話はお終いですね?」


 鳳先生はソファから立ち上がって、職員室へ戻ろうと扉に近寄った。


「待ってください」


「わかりませんか。私が聞かないと言ったなら、あなたに交渉の余地はないんですよ。これ以上は時間の無駄です」


 仰るとおりだ。


「無駄ではないですよ」


 でもそれは、僕の要求が、明智博美さんへの指導方法の変更だった場合である。


「僕も彼女への指導方法を変えるべきだとは思っていない」


「口から出任せですか?」


 随分とキツイ言い方をする。これがイケメン毒舌教師と呼ばれる所以か。


「出任せじゃないですよ。先生は人を指導する立場、人を指導するのに、怒るというのは大事な要素の一つだ」


 いつだか上司に言われたことがある。怒られている内が華、だと。散々めっためたに叱った後に言われたものだから、都合の良いことを言っているんじゃねえと思ったこともあったし、それを免罪符にやたら怒る人も確かにいる。

 でも確かに、人に怒られている内はまだいいのだ。怒られなくなった時、それは向こうが自分への興味を失った時。諦められた時なのだ。


 だから僕は、博美さんが先生に怒られていることを嘆いた時、もっと誇るべきだと思った。彼女は言った。鳳先生は自分に対して、人一倍厳しく接した上で怒る、と。それはつまり、誰よりも実力を認められ、期待されている証拠ではないか。


 だから僕は、彼女への指導の仕方を変えるべきだとは思ってない。彼女が慢心などしないように、彼女がライバル達に寝首を掻かれないように。


「だったら鈴木君の望みは何ですか?」


 僕の望み、それは、


「キチンと彼女に説明してください。どうして彼女に辛く当たるのか。彼女にどうなっていって欲しいのか。さっきも言ったが、あなたは人を指導する立場の人間。そんな人が最も重視するべきことは、指導する人をないがしろにしないことだと僕は思っています。だから僕は、あなたに彼女に対する説明責任をキチンと果たして欲しい」


「説明責任、ですか」


「そうです」


 以心伝心という言葉がある。言葉にせずとも、他人と気持ちが通じ合っているという四文字熟語だが、僕はこの言葉が嫌いだ。

 人と人は何のために口があり、言葉を身につけたのか。それは言葉で相手とつながるためではないか。思いだなんて曖昧な指針で互いを知った気になることは間違っている。

 

 だから僕は、他人に曖昧な言い方を望まない。自分の気持ちを知ってもらわずして、どうするというのだ。


「言葉にすれば、彼女だって救われるでしょう。どうして自分が厳しく当たられるのかわかるのだから。また吹奏楽に熱を出す事だって出来る。だから僕は、彼女にキチンと説明してあげてほしい。先生の口から」


 鳳先生はようやく眩しい限りの微笑を崩すと、俯いて少し逡巡した。


「駄目ですね」


 しばらくして、鳳先生の口から漏れた言葉は、僕の望む言葉ではなかった。


「何故です」


「その前に、君はどうして私が明智さん。いいや、吹奏楽部の子達に辛く当たるかわかりますか?」


 鳳先生が毒舌イケメンと呼ばれる所以? わからない。


「先生の性格の問題?」


「アハハ、君面白いですね」


 笑ってくれた。嬉しい。いや、違うか。


「勿論、違います」


 知ってた。


「毎年のことですが、私は新入部員が一同揃ったところで、部員全員に今年の目標を尋ねるんです」


「ははあ、なるほど。それで皆、全国大会出場とかを目標にするわけですね。そうすれば、先生は目標に応じた指導を部員に課す」


「物分りがいいですね。その通りです」


 目標によって、指導や考え方が違うのは当然の話だ。本来、様々な行いには、それを行おうと思った"背景"と、じゃあ何をすればその行いを完遂出来るかの"目的"が存在する。

 つまりこの先生は、皆が今年は全国大会出場、という目標を掲げたという"背景"から、それを目指せる集団にするための"目的"を実行しているだけなのだ。


「でも先生、おかしいですね」


「何がです」


「吹奏楽の部員が全国大会という目標に向かって、全国区な演奏者になる理由はわかった。でもそれは、それより更に厳しく、博美さんに指導する理由にはならない」


「ええ、そうですね」


 潔い彼の態度に、僕は呆気に取られた。


「そうですねって、それじゃ駄目でしょう。あなたは皆が望んだから厳しく皆に当たった。でも、博美さんはそれ以上厳しく当たることを望んでいるとは言っていない。むしろ、今の精神的状況から望んでなどいなかったでしょう。彼女に辛く当たることは、あなたの独りよがりな感情じゃないか」


「そうです」


「あっさり認めないでくださいよ」


 呆れていると、鳳先生は再び上座のソファに座った。


「君もよく知っているでしょう?」


「何を?」


「彼女は、天才です」


 鳳先生の言葉が、今までよりも一層、重みのある言葉に聞こえた。


「君に質問です。今、全国大会を目指し練習に明け暮れる生徒達。彼、彼女らは、将来どんな仕事をしていると思いますか?」


「さあ、わかりませんね」


 鳳先生の言いたいことを、僕は理解した。


「そうです。皆、どんどん上手い演奏者になっていっている。毎日その音をこの両耳で聞いてきた私は、誰よりもそれを理解しています。でもね、彼、彼女らは結局いつかは音楽を辞めるんです。いいや、辞めないかもしれないですね。でも、仕事にすることは出来ない」


「博美さんには、音楽で食べていけるだけの才能があるといいたいわけだ」


 鳳先生は頷いた。


「部活動は所詮、部活動です。ただの学業の一環なんです。全国大会出場者が、将来全員音楽家になれるのか。そんなわけないんです。音楽家になるには、その中でも更に一握りの才能と実力も持っていなければならない。彼女は、明智博美さんはそれを持っているんです。彼女は将来、音楽を仕事に出来るだけの技量がある」


「だからあなたは、誰にも何も言わずに一層辛く当たって、彼女を苦しめた」


「言ってしまえばそうですね」


「だから尚のこと、正直な感情を彼女に吐露してあげて欲しい。彼女だって俄然やる気を出す」


「それは駄目です」


「何故」


「それは、私と彼女が指導者と指導されるという立場だからです」


「何だって?」


「あなたも言ったでしょう? 人を指導するのに、怒るというのは大事な要素の一つだ、と。その通りです。でも、私が自分の正直な感情を彼女に伝えた時、果たしてその、"怒る"、という指導が引き続き効果をなすと思いますか?」


 口を噤んでいると、ここぞとばかりに鳳先生は続けた。


「私は思いません。だから私は、自分の口から彼女へ指導についての説明をする気はありません」

 

 先程の鳳先生の言葉が蘇る。


『私が聞かないと言ったなら、あなたに交渉の余地はないんですよ』


 その通り。本当、その通りなのだ。

 それは指導方法の変更を要求することでも、彼女への説明責任を果たす、ということでも変わらない。


 つまるところ、僕と先生の交渉は決裂してしまったのだ。

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