悩める少女

 いつだったか前に、あるデータを見た記憶があった。

 それは、子供がどうして非行に走るのか、というもの。当時の僕はまだ幼く、それは悪いことをするのが格好いいと思っているという勘違いから生じた失態だと思っていた。

 ただ、いくつかの話を聞いて、見て、感じたことは、どうも時と場合によってはそれだけが原因ではない、という事例があると知った。


 例えばそれは、生活環境によるもので。

 例えば、もしも家庭が貧乏であれば。子にとって家庭の貧困事情など選択の余地もないものなわけで、そういったことがきっかけで非行と呼ばれる『万引き』を犯す子は少なくないそうだ。

 例えば、もしも親が常識知らずであったとすれば。子にとって親とは、最も身近な倣うべき存在なわけで、その親が世間一般よりも常識知らずで唯我独尊であったなら。そうなれば、子も自由気ままに悪事を働くことは少なくないそうだ。


 ただ、恐らくこの明智博美に関しては、今話したような人種に当てはまって、『万引き』という非行に走ったのではない、と僕は考えている。

 この少女は端から見て、おっとりと天然気質のマイペースな性格をしているように見えた。あまり接点がない僕ですらそう感じるのだから、きっと周りもそう思って彼女に接していた。

 だから、もし大衆に彼女の行いを知らしめれば、『どうして』、という感想が返ってくること請け合い。それが先に語った非行に走るタイプとの決定的な違いで、彼女はきっと家庭内、大義的にいえば、生活環境にこれまで問題はなかったのだろう。


「吹奏楽部か?」


 体調不良の岡野さんを送った後の帰路、未だ一言も喋ろうとしない博美さんに、僕は聞いた。

 これまで生活環境に問題はなかった。恐らく問題が起きたのは、つい最近。彼女の生活環境がつい最近、劇的に変わったといえば、それはやはり高校への進学。そして、進学先で入るであろう部活動。


 いつだか、岡野さんから博美さんが吹奏楽部に入ったことを聞いていた。この高校の吹奏楽部が全国的にも強豪で通っていることを僕が知ったのは、つい先日。強豪とは、いつだって熱意にあふれた人間が多い。その溢れんばかりの熱意に揉まれていく内に、博美さんの心は磨り減ってしまったのではないだろうか。そして、つい魔が差して、駄菓子を鞄に仕舞おうとした。


 彼女は何も言わなかった。恐らく、当たりなのだろう。

 僕は唸った。彼女が魔が差した理由、ここまでくれば人的コミュニケーション時のものと断定出来た。


「先輩が陰湿」


 彼女は首を横に振った。


「先輩から才能を妬まれている」


 再び、首を横に振った。いつだか、岡野さんから聞いた話によると、博美さん天才らしいからそれだと思ったのだが。


「であれば、恋愛トラブル?」


 これも違うらしい。今までで一番首を振る力が強く見えた。


「先生が、厳しいの」


 ああでもないこうでもないと唸っていると、彼女は口を開いた。

 ただ僕は思わず聞き返していた。


「強豪なんだから、厳しいのは当たり前なんじゃないの?」


「勿論。皆にも厳しいの。練習直前に無駄口を叩いている人がいれば吊るし上げるし、一音でも逃せば吊るし上げるし」


 吊るし上げる、という表現が些か引っかかるが、まあ強豪であるならありきたりな話に聞こえた。


「でもね、あたしには一層厳しいの」


 少し涙交じりの声で博美さんは言った。


「最近、特に顕著なの。練習中誰よりも吊るし上げられているのもあたしだし、誰よりも厳しく態度を見られているのもあたし。最近は、先輩達もあたしのことで少し苛立っているみたいで。……あたし、どうしたらいいかもうわからなくなって」


 ついに大粒の涙を流しながら、彼女は言った。最後なんて、もう言葉になっていなかった。

 ただ、よくわかった。

 吊るし上げるという表現は、相変わらず引っかかるが、まあ怒られると解釈してもいいだろう。

 つまり、博美さんは最近、部の誰よりも厳しい目で見られているわけ、か。それで追い込まれて、非行に走った。

 先の話に戻るが、非行に走る他の理由として、他者へのSOSというものがある。他人へのアラームの発し方がわからない子供にとって、罪を犯すことで自分の苦痛を知らせようとすることがあるらしい。


 どうやら彼女は、その典型のようだ。恐らく彼女、天才と持て囃されてきて、これまで音楽のことで怒られた経験が少なかったのではないだろうか。だから尚のこと、今回のことでショックを感じて、件の万引きを働いてしまったと。まあ、未遂だが。


「だからって、非行に走ることはよくない。そんなことで一生を無駄にするなんて間違っている」


 一連の話を聞いて、彼女に同情する気持ちは少なからずあった。しかし、駄目なことははっきり駄目と言わなければならない。そうでなければ、彼女はまた間違いを犯すかもしれない。今は未成年で親に守ってもらえるからいいものの、いつかそれが大きな人生のゆがみになることだってありえるのだ。まして、彼女は有名人。誰がどこで見ているかもわからない現代で、一つの罪で身を滅ぼすことだってありえる。


「ごめんなさい」


 更に大粒の涙を流して、博美さんは泣いた。

 厳しい言葉を放っておいて、僕はテンパりながら、彼女の背中を擦った。


「でも、あたしもうどうしたらいいかわからない」


 しばらくして泣き止んだ博美さんは、放心気味に呟いた。


「どうしてだい」


「だって、もう部活に行くのが怖いの」


「それは、何故?」


「……あたしが、弱いから」


「違うね」


 質問しておいて、僕は彼女の答えを否定した。


「弱いんじゃない。君、周りの人間を頼ることないだろ」


「え?」


「どうして、そうなる前に誰かに相談しなかったんだい?」


 あまり強い口調で話しても、再び泣かしてしまうと思った僕は、努めて優しい口調で聞いた。


「そんなの……甘えているみたいに思われるから」


「甘えて何が悪い」


「え?」


 仕事において、他人に甘える、というか、他人を頼ることはたくさんある。仕事をしてみるとよくわかるが、一日の時間が限られたこの世界で、一人の人間で対応できる業務はたかが知れているのだ。それでも尚、ずっと誰も頼らずに一人でどうにかしようとするとどうなるか。キャパオーバーで爆発するのだ。

 そうなればもう後の祭り。上司に散々叱られながら、他の人に納期が過ぎた仕事を振って、土下座参りしながら終わらせなければならない羽目になるのだ。

 ああ、昔のことを思い出して、胃が痛くなってきた。


「人一人でやれることなんて限られているんだよ。だから、そうやって悪い方に振り切れる前に相談するべきだったんだよ?」


 諭すように言うと、博美さんは俯いた。


「ご両親を頼れなかったのかい」


「無理」


 即否定。過去、ご両親に厳しくあたられた経験でもあるのだろうか。そう考えれば、彼女が甘えたくないという思考に陥ったことも納得いく。

 ただもしそうならば、前言撤回だな。彼女が非行に走った理由、それはきっと、巡り巡ると家庭環境に帰結することになるのだろう。


「なら、今後は僕を頼ってくれ」


 ただ僕は、すぐに代案を出した。どうして、暇人の僕を頼ってくれないのか、と。


「君が万引き未遂しようとしたことで、悲しむ人は親だけじゃないんだ。僕だってその一人だ。君にはそのことをもっと早く考えて欲しかった。もっと早く、頼って欲しかったよ」


「ごめんなさい」


「過ぎたことは仕方がないけどね。ただ今後は、ご両親が頼りづらいのであれば僕に声をかけてよ。何とかするからさ」


「何とかって?」


「そりゃ、何とか、さ。何でもやるよ。君を助けるためなら」


 饒舌極まりキザな台詞を吐いてしまった。彼女の顔も真っ赤で、ついには俯いてしまった。いやはや、二十五歳にもなって、高校生相手にこの言動はやばい。また事案ものだよ。


「とにかく! 今回の君の抱える不安、何とかしよう。もう君が悪いことなんてしないように。毎日楽しく吹奏楽ができるように」


 恥ずかしさを紛らわせるように、僕は比較的大きな声で言った。


「うん。不束者ですが、よろしくお願いします」


 わざとか?

 明らかに場違いな発言をかます彼女をスルーしつつ、僕は考えた。


「ヒロちゃん?」


 突然黙りこくった僕に、博美さんは囁いた。


「さっきの話をまとめると、君は先生が自分のことを嫌いで不当な評価で怒っているから許せない、ということでいいかな?」


「え、まあ。多分そう」


 博美さんは突然の問いにも、俯きながら答えてくれた。


「正直、周りの音を聞いてても、あたし皆より上手いもん」


 こういう時に滲み出せる自信は、僕も見習いたいものだ。

 ただ、彼女の言葉で、僕は吹奏楽部顧問の意図することをだいたい理解した。


「なら、話は早い。君と先生の二者面談の場を設けよう」


 微笑みながら、僕は続けた。


「勿論。他部員には内密にね」


「え」


 博美さんは心底嫌そうな顔でこちらを向いた。


「大丈夫。その場を設けるのは僕だし、先生には口酸っぱく悪態つかないように伝える」


「でも……せめて、ヒロちゃんが同席出来ないの?」


「出来ない。してしまったら、それは君と先生が関係を修復することへの障害になる」


「どうして?」


「部外者がいることで、互いに素直になれなくなるかもしれないだろ?」


「うぇぇ」


「大丈夫。任せてよ。何なら、終わるまで職員室の前で待っていてもいいよ」


「まあ、ヒロちゃんがそこまで言うのであれば」


 不服そうではあるが、博美さんは一応の納得をしてくれた。そのことに内心お礼をしつつ、


「よし。思い立ったがなんとやら、だ。明日の昼休み、早速先生に話をしてくるよ」


 僕は彼女にそう微笑んだ。

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