勉強会は前途多難
その日の晩、幾ばくばかりか心に不安を抱えながら、僕は寝る前のルーティーン、安眠クラシックを聞きながら天井を見上げていた。
「安藤さん、うまくいっているかなあ」
考えていたのは、不安の種。安藤さんのご両親への直談判の結果である。
時刻は十時を回ろうとしていた。随分長いこと話をしているようだ。こういう場合、時間がかかるほうが悲報である可能性が高まっていくんだよな。
「うまくいかなかったのかな」
既に半ば諦めモードの僕は、天井を見上げるのも飽きたので、キッチンにある冷蔵庫に向かった。
嗜好品のオレンジジュースをゴクゴク飲み、リビングで無表情でテレビを見る鈴木君の母親を覗いた。
「面白い?」
バラエティ番組を真顔で見る人、そんないないと思うのだが。思わず尋ねてしまった。
「うん。凄く面白い。さんまさん、やっぱお笑いの天才よ」
ただ、口を開けば饒舌なのだから、この人もよくわからない。
「へえ、そう」
「あんた今、私のこと変人だと思ったでしょう」
「うん」
隠す必要もない。正直に言った。
「酷い子ね。せっかくあなたのために、毎日汗水垂らして働いているというのに。恩を仇で返された気分」
「ごめんなさい」
労働のことを口にされると、僕は素直に謝る他なくなる。仕事の辛さは、僕もよく知っている。
「オレンジジュース、美味しい?」
「ええ、大変美味です。ありがとうございます」
そういうと、この人は口角だけ吊り上げていた。
「あなた、随分と人が変わったわよね」
「そうかい?」
ブワッと背中に汗が吹き出た。まあ、毎日見てきた彼女からすれば、子の変貌具合は一目瞭然なのだろう。
精神的焦りを悟られないように、さも当然のように、苦笑した。
「うん。遂この前まで、死にそうな顔してたもの」
まあ、鈴木君身投げするくらい悩んでいたみたいだしな。何も間違いではない。
「好きな子でも出来た?」
「そんなとこだよ」
確かに、好きな子が出来れば、死ぬ気を紛らわせる口実になったかもしれない。だから、否定しなかった。
「それっていつかの白石さん?」
「どうだろうねえ」
にやけながら曖昧な言葉を口にした。
「生意気なクソガキ」
「口悪いよ」
「あら、聞き慣れたことでしょうに」
そうですかい。ま、悪態付きながら微笑していたし、冗談だったのだろう。
それにしても、この人もあんな風に笑えたのだな。ザ・鉄仮面という印象だったから、大層意外だ。
「でも、本当変わったわ」
我が子の成長が嬉しいのか、彼女はしみじみとしていた。
「何だか、いきなり十歳くらい大人になったみたいに見えるもの」
「アハハ、そりゃどうも」
鋭すぎるだろ。
平静を装いながら、僕はもう一度オレンジジュースで喉を潤した。やはり、この人と話している時間が一番緊張する。
もし。もし、もしもだ。
この人が僕の正体に、もし気付いてしまったら。
この人が、この体が今、鈴木君の持ち物でないと知ったら。
そう思うと、怖かった。
彼女は、僕を見てまるで十歳大人になったように見えると言った。
そんな僕は、彼女がどんな風に見えているのだろうか。
希薄な感情表現。平坦な口調。そして、今みたいに僕に向けられる訝しげな視線。
もしかしたら、彼女は何かを悟っているのではないだろうか。
悟っていて、真実だと信じたくなくて、疑いながらも目を逸らしているのではないだろうか。
……僕には今、彼女が壊れる寸前のロボットに見えて仕方がなかった。
そんなことを考えていると、ポケットに見れていたスマホが揺れた。
「やっと来たか」
「何? 彼女?」
「違う違う。まあ、女の子ではあるけど」
「本当、マセガキね」
女と言えばマセガキと言う。この人、実の息子を何だと思っているのだ。そんなに下が緩く見えているのか。まったく、失礼な。
「じゃあ、そろそろ寝ようかな」
「歯、ちゃんと磨きなさいよ」
「うい」
軽く挨拶をして、スマホを開くと、
『やりました!』
吉報を知らせるメッセージが届いていた。
何だか、胸のつっかえが下りたような気分だった。
『遅かったわね』
『ごめんごめん。お風呂入ってた』
グループトークを開いていないのに、両少女のメッセージが矢継ぎ早に流れた。
「そういうのはすぐに伝えろよ」
メッセージには書き込まず、言葉で言うに留めた。
僕もメッセージ合戦に参加しようと、グループトークを開いた。
すると、
『既読が二になったわ。あの男、お風呂という単語に反応したわね』
「ファッ!?」
ここにも一人、僕を下世話な男認定する人がいた。
『うぇぇ、鈴木君。それはさすがに……』
「ちゃうわ、ボケ」
『本当、下衆な男』
何だか、昼休みから白石さんの当たりが強い。僕が何したって言うんだ。
なんだかメッセージをすぐに送るのも面倒になり、僕は洗面台で歯を磨いた。
『鈴木君、自首は早いほうがいいらしいよ!』
『ほら、さっさと名乗り出なさいよ』
ロック画面に僕を断罪するメッセージが流れた。ちょっと待ってくれ。
『おめでとう!』
歯を磨き終わると、僕は白々しいメッセージを送った。
『ありがとう。でも犯罪は駄目だよ』
『誰がいつ犯罪を犯したのですか』
まったく。紳士を気取る僕がそんな非道な行いするわけがないだろう。
『それで、安藤さん。さっきのメッセージから、うまくいったということでいいの?』
と、白石さんのメッセージが飛んだ。なんだ、さっきまでの流れは洒落だったのか。十歳も離れると、彼女らのノリやお茶目についていけない。正直、もう少しセーブしてほしい。
『うん。あ、ただ条件がついたよ』
折衷案は探さない、と安藤さんは言っていた気がする。だから、まあ三人で勉強することは納得してくれているのだろう。その上での条件。
『何さ』
僕が返すと、しばらくメッセージが止まった。多分、長文を打ち込んでいるのだろう。
『勉強はウチで行うこと。後は、必ず鈴木君を連れてくること。とのことでした!』
「えっ!」
何それ、最後通告か何か?
というか、白石さんとのことだけでなく、僕のことまで話したのか。ああ、勉強会を彼女の家で開けという指示があったから、言うしかなくなったのか。
それにしても、それにしてもだよ。
先ほどの誰かの台詞が蘇った。先ほど、誰かにマセガキだとか言われたんだったよな。
うわあ、怖い。
『鈴木君』
僕の気を知ってか知らずか。
いや、確実に知っていて、白石さんはメッセージを続けた。
『骨は拾ってあげる』
明日からの勉強会、前途多難だな、こりゃあ。
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