PTA総会

 数日前の出来事を思い出していた。あの日は確か雨が降っていなくて、肩も振り回しさえしなければ痛みもなくて、授業を万全な状態で望めて、満足げにしていた放課後の出来事だった。


「数学の宿題、今日までなので前に持ってきてください」


 ショートホームルーム中そう言ったのは、我等がクラス委員長の白石さん。

 白石さんの言葉を合図にして、皆が宿題のテキストを教壇に置いていく。


「鈴木君、宿題は?」


 そんな中僕は、一人ポツンと自席で皆の様子を眺めていた。


「宿題なんてあったっけ?」


 そんな話、僕は初耳であった。


「あったよー」


 と言うのは、隣の席の安藤さん。


「いつ出たっけ?」


「先週の水曜日、あ……」


「あ……」


 その日は一日、保健室で眠ってしまった日ではないか。


「これは仕方ないのではないでしょうか」


 挙手して情状酌量を求めるが、


「駄目です」


 白石さんには通じなかった。

 そんなわけで僕は、放課後居残りで宿題に頭を悩ませていた。


「早くしてよね」


 白石さんに文句を言われながら。彼女、なぜかわざわざ僕が宿題を終わらせるのを待ってくれているらしい。


「別に、僕は個別で先生に出すから、先に出してきなよ」


「駄目。そう言って、サボる気かもしれないし」


「サボるもんか。こんなことで内申を落としてどうする」


 一応、他人の人生を送っている身。人様の悪評を広めるような真似、すべきではないだろう。


「それでも駄目よ。あたしは先生に宿題の回収を任されたの。やっていない人がいたのなら、その人に宿題をさせ提出させるのもあたしの役目でしょう?」


 そうだろうか?

 まあ、仮にそうだとしても。


「少しは信頼してくれてもいいのでは?」


「他人なんて信用出来やしないじゃない」


 僕は目を丸くしていた。まさかここまではっきりと、吐き捨てらるように言い放つとは。

 まあ、彼女が人を信頼していないことは薄々察していた。ツンツンしているし。

 何故、そんなことを考えるようになったのかは知らない。親族関係のことだろうか。はたまた中学で何かあったのだろうか。

 ただ、表面上は現状、クラスの連中と不仲な様子は見受けられない。昼休みの度に屋上に不法侵入は続けているようだが。何でそんなことがわかるのかって? だって、昼休みの度、白石さん教室から姿を消しているから。たったそれだけの理由でそう思っています。


「少しは信用したりできないもんかい」


 呆れた様子で頬杖をつきながら、僕は彼女に提案をした。まあ、何様な提案だとは思う。こうして今、彼女が僕を信用出来ないのは、宿題を忘れたことによる前科があるから、という側面だってあるからだ。

 彼女は、既に不機嫌な様子だったのに、一層機嫌が悪くなったらしい。眉間に皺が一層寄った。


「だったら」


 ただあまり不満を露にしてもしょうがないと思ったのか、少しだけ落ち着いた様子で言った。


「あなたが、あたしを信用させてみてよ」


 ま、出来やしないでしょうけど、と言いたげな挑戦的な瞳に、年甲斐もなく引き込まれてしまった僕は、そっぽを向いて、


「まあ、頑張るよ」


 と短く意思表示をした。


********************************************************************************


「あいたたたた」


 件の小学校のPTA総会当日。不運にも天気は曇天模様だった。朝方から先ほどまで、ポツポツと雨も降っていた。おかげで、慢性的な肩痛に僕は今襲われている。

 昼休み、教室を抜け出した僕は、屋上に続く階段で昼食を取っていた。ある程度クラスの子達とも友好的な関係は築けていたので、最近はほぼずっと昼食は教室で食べていた。ただ、雨の日はこうしてこの階段で昼食をとっている。大抵、雨が降ると、この肩痛が襲ってくるからだ。仲良くなったとはいえ、いきなりこんなに痛がる姿をクラスの子達に見せるのも引かれそうで気が引けたためだ。


 肩痛があるうちは食欲すら沸いてこない。それでも育ち盛りなこの体のことを考えると、食事は喉を通さないと可哀相だと思って、我慢して食べた。おかげで今は酷い眩暈も襲っている始末である。


 大きく息を吸って、吐いた。背中の冷や汗も少しづつ引いていく。


「大丈夫?」


「うえあっ」


 そんな肩痛に悩まされていたら、真上から声をかけられて、僕は飛び上がった。白石さんであった。


「だ、大丈夫。気にしないでくれよ」


「それならいいけど」


 それだけ話して、無言の時間が流れた。


「ねえ、そっち行ってもいい?」


 白石さんが言った。一見提案してきたような内容に聞こえただろうが、彼女は僕の答えなど気にしてはいない。何故なら既に、いつもの要領で手摺に足をかけているからだ。


「気をつけて」


 だから僕は提案に対する答えはしなかった。彼女の気の向くまま、せめて怪我にだけは気をつけて欲しい旨を伝えた。


「大丈、きゃっ」


「危ないっ!」


 先ほどまで降っていた小降りの雨で、手摺は滑りやすくなっていた。彼女は手摺に立った状態でバランスを崩して、階段から落下しそうになってしまう。

 間一髪右腕で彼女の手首を掴み、階段側に抱き寄せることに僕は成功した。


「あ、ありがとう……って、離して!」


 慌てて抱き寄せてしまったため、仰向けに倒れる僕に彼女が覆いかぶさるような状態になっていた。今誰か来たら弁解の余地はなかった。僕の両手、彼女の背中に回っているし。

 頬を真っ赤に染めて彼女は僕の手を退けて脱出した。

 役得であった。とは正直考えていない。


「うぐぐ……」


 僕は右腕に走る強烈な痛みに耐えていた。彼女を助ける際、思わず右手を使ってしまったものだから、助けられたのは良いもの、余計に痛めてしまったようだ。


「だ、大丈夫?」


 恥ずかしがっていた白石さんだったが、僕の様子がおかしいことに気がつくと、身を案じて歩み寄ってきた。


「大丈夫だよ、大丈夫」


 強がりながら、笑みを浮かべてそう言った。正直、微塵も大丈夫ではない。痛みのあまり吐きそうになることなんて、前の体では一度も体験したことなどなかった。


「汗、すごいよ」


 白石さんはポケットから取り出した白色のハンカチで僕の額の汗を拭った。冷や汗が滝のように流れ堕ち続けた。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 僕は汗を拭うのを制止させて、時計を見た。


「もう昼休み終わるから、戻ろう」


「でも」


「大丈夫。心配しないでくれ」

 

 よろめきながら立ち上がって、ふらつく足取りで階段を一歩ずつ下りていく。


「あ、そうだ」


 下りる途中、思い出したことがあったから、僕は白石さんの方を振り返った。


「今日は頑張ろうね」


********************************************************************************


 僕達が件の小学校に到着する頃には、PTA総会は既に開始していた。時刻からして、僕達の授業の時間と開始時間が被っていたのだ。高校生が勉学に励む立場であること等から踏まえても、特に小学校側からこの件を咎められることはなかった。

 あと、今回は引率の先生について来てもらっている。担任の須藤先生である。前回の小学校での一件、思惑通り特にこちらの高校側に苦情の連絡などは入っていなかったようだが、さすがにPTA総会という会合の場で、学生だけを参加させるというのは小学校側も躊躇ったようだ。

 ちなみに、その旨は電話一本で僕に入っただけ。須藤先生との調整は全部こちらでさせられた。向こう側から話してくれたほうが話が早かったのに。おかげで粗相はなかったんだろうな、とか、資料の読み合わせの練習だとか、そんな話今日まで一切聞いてないぞ、とか、わずか二日の間に相当絞られた。いい迷惑である。

 以上、愚痴でした。

 

 会場である小学校までは、須藤先生が運転する学校の車で向かっていた。須藤先生、どうやらペーパードライバーらしく、その辺も正直気が気ではない。僕が運転したいくらいだ。元の体で、一時地方に転勤させられた過去があった。その際は電車移動など不可能で、車での通勤をこなしていたが、おかげで運転の技術はいっぱしに備わっている。更にいえば、無事故無違反。当然のゴールド免許である。

 以上、自慢でした。


 PTA総会に向かう道中、僕達の会話は特になかった。僕も白石さんも、須藤先生も皆が皆、気が気じゃない状態だった。

 須藤先生は先の理由。

 白石さんは、須藤先生の独断で、総会での資料説明を一任されたため、その発表のことで頭が一杯。恐らく、多人数の前での発表の経験に乏しいのだろう。

 僕はと言えば、未だ昼休みの時の肩の痛みが取れていなかった。正直、やばい。車が揺れる度に肩がズキリと痛む。冷や汗が止まらない。

 良く考えれば、この状態じゃ運転を変わるのなんて絶対無理だな。無事、会場に五体満足でたどり着けることを祈ろう。


「ふう、着いたぞ」


 ナビに従い走行しただけなのに、須藤先生はやり遂げた感を出しながら小学校への到着の旨を伝えた。

 ちなみに須藤先生、バックの駐車のために七回くらい切り替えしていた。両隣に駐車している車なんてないのに。


「大丈夫かい?」


 あまり心配させるわけにもいかない。肩が痛むことを悟られないよう、平静を装いながら白石さんに尋ねた。


「うん」


「あまり大丈夫そうじゃないね」


「おい二人とも。もう総会は始まってるぞ。急げ」


 須藤先生の怒鳴り声が響いた。彼もこういう場はあまり経験していないのか。もしくは、彼の上司からうまくやるよう口酸っぱく言われているからか。焦りを感じた。


「大丈夫、心配ないよ。何かあったらフォローする」


「余計心配」


 減らず口を叩く余裕はあるらしい。心配して損した。


「まあ、いいや。君に金言を授けよう」


「何。こんな時に」


 会場の体育館に向かって歩きながら茶化す僕に、彼女の目は冷たい。


「白石さん、今緊張しているみたいだけど、それは何故?」


「何故って、失敗したくないから」

 

「何で失敗したくない?」


「そりゃ、責任を取りたくないとか、信用を失いたくないとか、色々」


「責任に信用か。はっきり言うけど、たかだか学生の僕達に、そんな重責ありはしないよ。今日も何か粗相があれば責任を追及されるのは須藤先生。もっといえば、我が高校の校長とかだ」


「でも、失敗したら怒られるかしれない」


「誰しも初めては失敗するものさ。初めての失敗で叱り付けてくるのは、無能の証拠。ただ僕達も失敗から学ばなければならない。どうして失敗したか、どうすれば失敗しなかったのか。何を身に付けていけば失敗しなくなるのか」


 得意げに、僕は言った。


「そう。つまり何が言いたいかって言うと、今日の総会で何かを失敗したとしても、君は死なない」


「……死なない」


「うん」


 微笑みながら頷くと、白石さんは少しだけ微笑んだ。


「ま、失敗しないけどね。うまくフォローするよ」


「だから、余計不安になるってば」


 清清しく微笑んで、白石さんは元気よく歩き出した。これで少しでも覇気を取り戻してくれれば儲け物だ。

 痛みで止まらない冷や汗を拭って、僕も彼女の後を歩いた。


「遅いぞ、二人とも」


 体育館の前にたどり着くと、須藤先生は声色を荒げながら言った。どうやら彼もテンパっているようだ。


「始まってるぞ。ほら、早く入れ」


 そして、僕達に先導するように促した。


「はい。行くぞ?」


 扉に手をかけながら、僕は白石さんに言った。彼女は黙って頷いた。


 ガラガラ


「おお、鈴木君。遅かったね」


 扉を開けた途端、戸塚さんに気が付かれた。


「遅くなって申し訳ございません」


 深々と頭を下げて、二人を先導しながら体育館を少し早足で歩いた。


「戸塚先生、彼らが最初話していた例の」


「そうそう。通学路調査の件ですよ」


 マイクを入れながら、戸塚さんと茶色スーツの年配教師が会話をしていた。教頭である戸塚さんに軽々しく話せているあの感じ、恐らくこの小学校の校長だろうな。


「鈴木君、ここに座って」


 校長、戸塚さんなどが座る一番前の長机に、三席空席がある。あそこが僕達の座席なのだろう。

 躊躇なくそこまで歩いて、


「失礼します」


 と一礼して、真ん中の席に腰を下ろした。


「白石さん、こっち座って」


 白石さんを覗きながら、校長たちに近いほうに彼女が座るよう促す。一応発表者でもあるし、その方がいいだろう。詳しい作法は知らない。高校生相手にそこをとやかく言う人もいないだろう。


「えー、皆さん。本日の総会の一番初めにお話させて頂きましたが、今回近くの永和高校の生徒から、通学路調査の依頼を頂いていまして。我が校にお子さん方を預けて頂いている皆さん方に、アンケートのご協力を頂きたい次第で御座います。今回、永和高校の彼らに資料を作成してもらってきていますので、まずは説明の方を聞いてあげてください」


 早速来たな。

 白石さんと目が合った。少し不安そうな顔ではあるが、先ほどよりはマシになったようにも見える。大丈夫だろう。


「はい」


 甲高い声で、元気よく彼女は立ち上がった。高校から持参していた指棒を持って、事前に準備されていたスクリーンの前に立った。

 僕はといえば、プロジェクターに繋がっているパソコンのある席に移動していた。先ほどまで別資料を説明していたのかパソコンは既に立ち上がっている。

 事前に送っていたファイルを開き、スライドショー用の画面に切り替えた。


「この度は、皆様、お忙しい中お時間を頂き、誠にありがとうございます」


 資料が開いたことを確認して、白石さんはまずは集まっていただいた父兄に向けて一礼をした。中々様になっている。


「私達、一年三組のクラス一同は、この度ここ○○小学校の通学路事情を調査して、通学の際危険な道がある場合に、横断歩道の設置を検討させて頂こうと考えています」


 白石さんと目が合った。次のページへ進めろという合図である。

 間髪いれずにページを差し替えた。


「今回、どうしてこのようなことを考えたか、について説明させて頂きます」


「ちょっと待ってもらえます?」


 早速資料の説明へと移ろうとした丁度その時、来賓席から声があがった。見れば、父兄が一人立ち上がっていた。


「はい、何でしょう?」


 こういう時は基本、一通り資料の説明を終えてから質問の時間を設けるのがセオリーである。気になったことがある度止められたのでは、こちらの意図が伝わり辛くなってしまうし、何より会議の時間が無駄に延びてしまう。

 そんなことお構いなしに、父兄の一人は話を続けた。


「まずねえ。地域活動として横断歩道の設置の検討をするのは、とても殊勝な心がけだと思うのだけれど」


 父兄はそう前置きをして、続けた。


「まずあなた達ねえ、本当に横断歩道設置までの処理をやる気があるのかしら」


 あ、これ面倒な奴だ。

 僕は悟った。こういう精神論で語るタイプはまずい。

 チラリと須藤先生を見た。彼は、既に我関せずの態度を決め込んでいるように見えた。


「勿論です。まず私達が今回、こういったことを考え始めたのは――」


「だったら、今日、何で遅刻してきたのかしら?」


 やばい。


「いや、勿論やる気があるならいいんだけど、私にはとてもそうは見えないの」


「そんなことは……」


「だから、だったらこの場で遅刻してくるなんてありえないでしょって言っているの。通学路調査だなんて格好いい言葉を使うことは自由だけど、協力を求めた挙句、結局何もありませんでしたじゃ、私達の時間だけが無駄になるの。わかる?」


「えっと」


 白石さんがチラリと須藤先生を見た。助け舟を期待したのだろう。

 しかし、


「白石、どうなんだ」


 須藤先生は敵に加担するタイプでした。


「あなた、ここにいるたくさんの大人の時間を無駄にするってどういうことかわかるの? 責任取れるの?」


 先ほど彼女に話した通り、何があろうと今回の件が僕や白石さんの責任になることはまずない。感情論で主観的に語るあまりそんなことにあの父兄は気づけていない。

 ただ、こういう意見は発表側にとって非常に面倒だ。


「本当よねえ」


「所詮、高校生のすることだものねえ」


 何故なら、こんな感じで周りが同調しだすから。

 通学路調査のアンケートなんて、それこそ数分で終わる単純作業である。それを、ここにいる父兄は今、とても面倒な作業をするのだと錯覚を起こしてしまった。

 面倒事は誰もが嫌う。浪費する時間に比べて、対価は大したことがないから、とか。精神的に苦痛だから、とか色々と理由はある。

 とにかく言えることは、一度こう難色を示されると、こちらの意図した方向への再度の舵きりが大変だということだ。


 白石さんは、今にも泣きそうな顔をしていた。当然だ。慈善活動のつもりでこっちは話しているのに、たくさんの大人から非難され、頼れるべき須藤先生は敵側に加担し、今やこの場に自分の味方はいないとすら思っているかもしれない。


「マイク、貸して」


 僕は白石さんに言った。

 フォローすると言った手前、僕が彼女を見捨てる選択肢はなかった。


「申し訳ございません。先ほど仰られていた遅刻の件ですが、私達も学生である身でして。授業の時間と会合の時間が丁度バッティングしてしまいました。本来であれば皆さんにお願いをする都合上、こちらを優先するべきだったのですが。○○小学校さんと数度の協議をする中で、学業を優先すべきとのお言葉を頂きまして、遅れて参加させて頂いた次第です」


 さて、あの父兄はどう出る?


「遅刻した理由なんて聞いてないのよっ。誠意があるかって聞いてるの」


 数分前に自分が言ったことを既に忘れているらしい。ま、そんなもんだよね。

 さて、どうしたものか。前回後藤さんにかましたような怒鳴る方法は使えない。こういう大衆のいる場で感情的な振りをするのは、余計悪い印象を与えかねない。


「勿論あります」


「だったら証拠を見せないよ」


 証拠、か。殺人事件の容疑者か何かかな。


「証拠ですか。例えばこの資料ですね。この資料は、今回この○○小学校の通学路調査をしようと決めた四月の初めから、何度も何度もクラス全員で推敲を重ねた上で持ち込みさせて頂いています。それだけではありません。彼女は資料のたたき台が出来た段階から、何度も何度も読み合わせの練習を重ねてこの場に望ませて頂いています。遅刻することが確定していたこともあって、事前に高校側と小学校側で調整をして頂いた上で、なんとか開始時間に間に合うようにも何度も検討を重ねました。最終的には小学校側の意見に甘えさせて頂くことになりましたが」


 僕はあることないことを、誠心誠意やった風に述べた。真実はバレなきゃ、自分の都合のいい風にすればいい。勿論、整合性を取る必要はあるが。

 こうでも言わないと、こういうタイプは納得しない。

 その証拠に、既にあの父兄以外は口を開こうとはしなくなった。そもそも高校生相手に食ってかかって文句を言おうって状況がおかしい。危険な道に横断歩道が設置されなくて不利益を被るのはそっち側だぞ。わかっているのか、そのことを。

 

「本当に横断歩道は設置されるのでしょうね」


「そこは断言出来ません。ですが、公安委員会と調整を重ねていきます」


「ちょっと待ちなさいよ。設置出来ないかもしれないの?」


 チッ。噛み付いてきやがった。


「はい。私達には横断歩道を設置する権限はありませんので。あくまで出来るのは申請までです。最終的なジャッジは公安委員会の判断となります」


 こればかりはホラを吹けない。はい、出来ますなんて言って、いざ蓋を開けたら設置出来ませんでしたとなれば、今度はこっちが責められてしまう。


「ねえ、聞きました皆さん!? この子達、私達の貴重な時間を奪った挙句、設置出来るかはわからないとのたまっていますよ? 本当にそんなことに協力する必要があるのでしょうか?」


 遂に件の父兄は、周りの大人達に同意を求めるように働いた。


 僕はこの時、全てを諦めた。

 僕も感情的になって喧嘩することは出来る。こっちは慈善活動でやっているということに、彼女は気付いていないのだから。

 ただ、そうした所で、こんな大衆の場で怒り狂う人間のお願いを誰が聞いてくれるのか。

 こういう事は、互いの信頼関係が何よりも大切だ。それが損なわれてしまえば、全てがおしまい。

 忘れていた肩の痛みが再燃しだした。帰りたい。


「おい、オオヌマさん。あんたいい加減にしろよ」


 諦観を漂わせていると、父兄の一人が立ち上がった。無精ひげを生やしたダンディな男性であった。


「何かしら、岡野さん」


 岡野……。

 岡野!?


 もしかしてあの人。今回の横断歩道設置問題の発端である、僕のクラスにいる岡野さんの父親か?


「何かしらじゃねえよ。あんた初めに、あの子達に誠意がどうのと言っていたが、それがまずおかしいって話なんだよ。あの子達はあくまで、俺達の子供の危険を減らして、より安全に暮らせるようにって行動しているんだ。あんたはこっちが慈善事業で手伝ってやるって感じで話しているが、本来は向こうが慈善事業側。寄り添って手伝ってくれているって立場なんだよ」


 ごもっとも。


「それなのに話を聞いていれば、誠意がなんだだの、設置出来ないのに手伝わせやがってだなんだと、筋違いなことばかり言いやがって。恥を知れ」


「誰も新たに横断歩道を設置して欲しいと思っていないから言っているの。そんなことで手間を増やされちゃ、たまったもんじゃないわ」


「おい、鈴木君」


「あ、ひゃい!」


 突然呼ばれて声が裏返った。


「アンケートってのはどんなものなんだい?」


「ああ、ちょっと待ってください」


 慌てて、僕はパソコンの方に戻った。

 アンケート用紙の件。どうせ聞かれるだろうと思って、資料に追加していたのだ。


「こんな感じです。A4の紙になるべく大きく地図を貼っていて、通学路に線を引いてもらった後は、ここに横断歩道を追加して欲しいって場所に丸をつけてください」


「これだけの作業で、あんたの手間がどれだけ増えるんだい。ほら、言ってみな」


「だったらその程度の作業だって最初から言いなさいよ!」


 顔を真っ赤にして、オオヌマさんは抗議した。


「おめえが資料の説明すらさせなかったんだろうが!」


 岡野父、一喝。


「でもやっぱり、実際設置されるかわからないものに労力を割くなんて……」


「何度も言わせんな。公安委員会との調整っていう一番面倒な仕事を、あの子達は買って出てくれているんだぞ。むしろお礼しなきゃいけないくらいだろうが!」


 またも、一喝。

 しめたと思った。この流れに乗らないわけにはいかない。


「公安委員会との件ですが最大限スムーズに申請を進められるような準備を進めています。ですので、どうか、ご協力のほど、よろしくお願いします」


 深々と頭を下げた。無論、準備らしい準備等皆無である。ただ、誠心誠意やっている風に見えれば、大衆の感情は傾く。


「ほうら、高校生がここまで言ってくれているのに、どうするんだ? 俺は自分の子供のためにもこの子達のアンケートに答えるぜ」 


 ここまでくると、父兄達の大勢はアンケートに協力する方向へと流れていた。


「勝手にすればいいじゃない!」


 オオヌマさんは、ああまで言った手前、最後までご立腹と言う態度は崩さなかった。


「白石さん!」


 僕は彼女を呼んだ。アンケートの回収方法を喋って欲しかった。


「え、あ……。アンケートですが、来週の水曜日までにご記入の上、お子さん達から担任の先生達にお渡し頂けますでしょうか」


 白石さんは意図を理解したのか、事前に用意していた言葉を話し出す。


「アンケートの集計ですが――」


 あ。

 そういえば、集計方法は決めてなかった。


「戸塚教頭、アンケート結果の方、集計はどれくらいで出来ますか?」


 白石さんの言葉を遮って、僕は声を張って尋ねた。


「うん。そうだねぇ。その翌週の月曜日にはお渡ししますよ」


「ありがとうございます」


 ふう、セーフ。

 安堵しながら、僕は白石さんに手を振った。口パクで、『しめて』と伝えた。結局用意した資料はほぼ意味をなさなかったが、アンケートの集計をとるという方針は変わらず進めさせるだろう。


「以上で説明……なのかな。をしめさせて頂きます。お時間頂きありがとうございました。ご協力のほど、よろしくお願い致します」


 深々と頭を下げると、会場が静まり返った。

 その時、拍手の音が体育館に響いた。岡野父だった。

 つられて、僕も割れんばかりの拍手を送る。大団円っぽくしめたかった。少しづつ拍手は大きくなっていき、しばらくして、拍手は止んだ。


「ふう」


 大きなため息を吐いて、その場の椅子に腰掛けた。

 いやあ、焦った。ここまでまともな説明会にならないとは。まあいいや。とにかく終わりだ。

 ハハハ。あれだけ白石さんに偉そうなこと言っていたのに、僕も相当舞い上がっていたらしい。忘れていた肩の痛みが再燃しだした。


「……って」


 あれ、これやばくね?

 周期的な痛みが、どんどんどんどん強くなっていく。次いで頭を押えた。強い眩暈を覚えた。しばらくすると、方向感覚すらわからない状態に陥っていた。

 

「す、鈴木君!?」


 遠くで、白石さんの叫び声が聞こえた。何だか周りとざわざわと騒がしい。まったく、静かにしてくれ。こっちは眠いのだ。

 騒々しい辺りを省みず、僕は夢の世界へと旅立った。

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