夏の名残に

 彼に初めて会ったのは、むくむくと湧き上がる入道雲が純白に輝き、うかつにも見上げた瞳の奥に紫の影をいつまでも焼き付ける、そんな夏の盛りのある晴れた日だった。


 その日は王都から毎年恒例の合同演習のため他の騎士団から一個小隊がやってくるとのことで、うちの若手の騎士たちは朝からピリピリしていた。

 なぜなら派遣されて来る第二旅団は軍警察としての性質も持つ警邏けいら部隊で、合同演習は名ばかりの、事実上の監査であることが明白だからだ。

 そんな時に新米従騎士の俺はしょうもないヘマをやって、師匠を激怒させてしまったのだ。


「ふざけんな!! 俺らにとって胸甲は生命線なんだよ!! それをこんな雑な扱いしやがって……っ!!」


「すいません。ちょっと手が滑っただけなんです」


 手を滑らせてちょっと胸甲を落としただけなのに、正騎士叙任を受けたばかりのマスターは怒り狂って俺の五本の三つ編みをまとめて掴んで引きずると、倒れ込んだ俺の事を容赦なく殴る蹴るしている。


 先月入隊させられたばかりの俺には、まだ右も左もわからない。

 いや、北部の山岳地帯を縦横無尽に生きる遊牧民チュルカの俺にとっては、平地の人々の価値観や生活習慣そのものが分からないことだらけだ。

 だってつい一か月ほど前までは、このまま死ぬまでずっと馬や羊と共に山を駆け巡って生きていくものだとばかり思っていたのだもの。


 従騎士叙任なんて詭弁きべんに過ぎない。チュルカの有力氏族であるクレシュニク氏族長の末弟の俺は、ある日突然人質として軍に所属することを求められた。

 拒絶すれば氏族を反逆者として掃討すると通達され、悩み苦しむ兄に俺は自分から軍に身を置くことを申し出た。

 俺一人が我慢すれば氏族のみんなが平和に暮らせるなら安いものじゃないか。だから多少の理不尽は黙って耐えなければ。


 どのくらい暴行が続いていただろうか。

 受け身を取ることも、頭をかばうことも許されず、鈍い衝撃音とともに増える一方の痛みに、もはや痛覚はおろか視覚も聴覚もまともに働いてはいない。

 いつまで耐えれば良いのか、もうものを考えるのも嫌になってきたころ、不意に温かく柔らかいものに抱き止められて意識が浮上した。心なしかいいにおいがする。


「おい、邪魔するな。今こいつを指導してやってるんだ」


「指導のためなら、ちゃんと理解できるように口頭で説明しないと。この子、もう痛みと恐怖で混乱して、何を言われているか全く頭に入ってませんよ」


 耳元で柔らかなメゾソプラノが響く。

 師匠の蹴りを右腕一本で難なく受け止めつつ、左腕で俺をしっかり抱きかかえたその人は臆する事なく言い切った。

 快活でまっすぐな言葉に揶揄する色はなく、純然たる事実を言っているだけのように聞こえる。

 そのせいか、師匠の暴力もぴたりと止まった。


「誰だよ、手前ぇは??」


 不機嫌極まりない声でいぶかし気に誰何すいかされると、その人は俺を抱えたままの姿勢で背筋だけ伸ばして片手で敬礼する。


「王都警邏隊第二中隊付、ヴィゴーレ・ポテスタース准尉です。合同演習のためただいま着任いたしました」


 恐る恐る顔を上げた俺の眼に飛び込んできたその人の姿に思わず息を飲んだ。


(うわ、こんな可愛い子初めて見た。合同演習に派遣されてきたってことは、この歳で、しかも女の子なのにもう正騎士なのか)


 人懐っこい笑顔に、高く澄んだ柔らかな声。

 ルビーのように輝く鮮やかな真紅の髪を三つ編みにして、腰の当たりまで垂らしている。子猫のような丸い琥珀色の瞳は陽光を孕んでキラキラと輝き、まるで黄金のよう。

 こころなしか甘い香りがするようで、抱きかかえられているのが何とも落ち着かない。光を浴びた宝石のような印象の人物は、自分たちとほぼ同じ……いや、少し年下だろうか。

 銀の縁取りが鮮やかな青藍色の騎士服、すなわち第二旅団の正騎士の制服に身を包んでいた。


 俺たち遊牧の民は女性にも強さを求める傾向があり、強く優しく勇敢な女性は憧れの的だ。しかも今まで見た事がないほどの美少女。

 まさに理想が軍服を着て現れたようなものだ。

 俺が思わず見惚れている間にも、その人は師匠とにこやかにやり取りしてさっさとその場をおさめてしまった。


「ちっ、お客さんかよ。第二の連中の宿舎はあっちだ。さっさと行っちまえ」


「かしこまりました。ついでにこちらの従騎士の手当てもしてしまいますね。骨折と……この様子だと腱も痛めているようだ。早く手当てしないと使い物にならなくなりますよ」


 そう言ってその人が俺の手を握ると、ふいに全身を襲っていた激しい痛みがすぅっと消えた。俺が慌てて立ち上がろうとすると、優しく抱き止められる。


「急に動かないで。実は痛覚を遮断しただけで怪我は治してないんだ。無理に動くと本当に治らなくなるからおとなしくしててくれる?」


「痛覚を遮断?」


 薬を打たれた様子もないのにそんな事ができるのだろうか?

 唖然あぜんとしていると疑念が顔に出ていたのか、微苦笑しながら「身体操作魔法の一つだよ」と教えてくれた。

 そのまま俺を俵担ぎにして医務室まで運んでくれる。


「ちゃんと抱きかかえられれば良かったんだけど、僕チビだから。こんな運び方でごめんね」


「い、いえ。お手数をおかけして申し訳ありません。えっと……ポテスタース卿?」


「ヴィゴーレでいいよ。年齢も近いし、まだ叙任を受けたばかりの新米だからね」


「新米だなんて、こんなに強いのに。俺はバルディリス・クレシュニクです。バージルとお呼び下さい」


「そんなにかしこまらないで。軍で同年代の人と会うのは珍しいから、仲良くしてくれると嬉しいな」


 医務室に着くと、痛覚遮断を解かれて悶絶する羽目になった。

 俺のあまりの痛がりように、ヴィゴーレ准尉も気遣わし気に眉尻を下げている。


「術者だけじゃなくて、術をかけられる側にも負担になるから、あんまり治癒魔法には頼らない方が良いんだけど……後遺症が残ると困るから、さすがに腱だけでも治しておいた方が良いね。ちょっとだけじっとしてて?」


 軽く手を握られると、さっきから全く動かすことができなかった肘の痛みと腫れが嘘のように引いていく。


「うっわ……噂には聞いてたけど本当にその年齢でそこまで使いこなすんだ。ちょっと引くんですけど」


「師匠の薫陶くんとう賜物たまものですよ。ここの骨折の処置は固定するだけで良さそうですか?」


 連隊付きの軍医殿がちょっと引き気味に感心しているところを見ると、どうやらこの人はとんでもない事をやってのけているらしい。

 俺とたいして年齢が変わらない……むしろ年下に見えるくらいなのに凄いんだな。しかもこんなに可愛い女の子なのに。

 そう思うと、下らない失敗のせいで大怪我をしている自分が少しだけ情けなくなる。


「で、いったい何をやらかしたの?」


「その……マスターの胸甲を手入れしようと思ってうっかり落っことしちゃって。でも、ほんのちょっとだけで、すぐ拾ったんです」


 医師と手分けして手際よく手当てしながら、何でもない事のようにさらりと訊かれた。あんまり自然体だったので、俺も思わず素直に答えてしまう。


「あっちゃ~、それはやらかしたね。君たち重装胸甲騎兵でしょ? 落として表面の線彫りを汚したり、形が大きく歪んだりしたら胸甲に彫られた魔法陣が歪んで常在型の防御魔法がうまく作動しなくなるよ」


「え?」


「もしかしてただの飾りだと思ってた? 知らなかったみたいだから今回は仕方ないけど、次から気を付けてね」


 にっこり笑って教えられ、俺は何が悪かったのかようやく理解した。


「後でちゃんとマスターに謝罪します」


「うん、それがいいよ。重装胸甲騎兵にとっては胸甲の防御力は生命線だから。魔法や火器をぶっ放しながら、いの一番に敵陣に突っ込んで行かなきゃならない。防御魔法が正常に作動しなければ生命に関わるよ」


「はい、ご指導ありがとうございました」


 朗らかな笑顔で穏やかに諭されて、年齢は大差なくても、この人にはかなわない、と心の底から思った。


(いつか絶対、嫁にする)


 ほとんど一目惚れだった。

 その相手が、実は二歳年上の同性だったと知って盛大に失恋したのは、その翌日の事である。あの時のショックは生涯忘れられそうにない。


 あれから丸五年。

 昨年俺も叙任を受け正騎士となった。自分なりに精進を重ね、わずかなりともあの人に追いつけるよう励んでいるつもりだ。


 チュルカの有力氏族長の弟であり、辺境伯家の頼子でもある俺は王都に行くことは滅多にない。俺自身にそのつもりがなくても、俺の言動はすべて氏族や辺境伯家の総意の結果だとみなされてしまうから。

 せめて年に一度の合同演習で会えるのを心待ちにしていたのだが、今年は何かあったのか、別の隊員が派遣されてきた。次の演習では会えるだろうか。


 あの日と同じ澄み渡る青空に目をやると、山育ちの俺の眼をもってしても見通すことのできない王都にいる友に思いを馳せた。

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