戦禍と虐待と心的外傷

 ヴィゴーレとの話が終わった後、「何か訊きたいことはないか」ともちかけてきた彼の上官。おそらく、ヴィゴーレ本人には聞かせたくないような「事情」も俺には踏まえておいてほしいのだろう。


 本人のあずかり知らぬところで彼の秘密を聞いてしまう後ろめたさは、彼を守るためという大義名分の前にはあっけなく消えていった。

 後から考えると、俺はただ「誰よりもヴィゴーレのことを理解し、頼りにされる人間」になりたかっただけかもしれない。遠い辺境伯領にいる遊牧民の友人よりも。

 それでも彼が気がかりで、少しでも力になってやりたい気持ちだけは本物だった。


「改めまして、アフリム・アーベリッシュ中尉です。ポテスタース准尉の所属する第二中隊第一小隊をお預かりしています。彼の師匠が戦死してから叙勲するまで、一時的ですが師として彼の指導にあたっていました」


 俺と向き合うようにソファに腰掛けた士官は、侯爵家の子息にすぎない俺にも丁寧に名乗ってくれた。見た目はごついが、きっと懐の深い人なのだろう。

 この人が今のヴィゴーレの指導役らしい。


「コノシェンツァ・スキエンティアです。今日は急にお邪魔したにもかかわらずご対応いただきありがとうございます」


 俺も軽く頭を下げて名乗ると、簡単な礼を言った。


「こちらこそ、急にお呼びたてしたのにすぐお越しくださってありがとうございます。まさか今日のうちにお運びくださるとは思いませんでした」


 アーベリッシュ卿は白い歯を見せてにっかと笑った。貴族らしくはないが、実直そうな彼にはよく似合う、頼もしげで気持ちの良い笑顔だ。


「それで、何からお話ししましょう?」


「すみません。気になることは色々あるのですが、何から伺って良いかわからなくて」


「なるほど。今日の准尉の様子を見て、何やら不審そうにしておられましたが」


 ああ、やはり大人の目はごまかせない。それともこの人が特別に人の心にさといのだろうか?

 きっと俺の考えていることなど、いちいち聞き出さずともお見通しだろう。ここは素直に答える方が良いように思う。


「はい、北部に向かう前とあまりに違うので。明るくなったのは良いですが、無理をしていないか心配です」


「変わりすぎていて不自然?」


「いえ、そこまでは申しませんが……北部が楽しかっただけにしては不思議だな、と」


「なるほど、よく見ておられる」


 うまくは言えなかったのだが、素直に思う所を言葉にすると、柔らかく微笑んで肯定された。どうやら俺の思い過ごしではなかったらしい。


「それに、彼があんなにはっきり喜怒哀楽を表に出すとは思いませんでした」


「それは、あなたに会えるのがよほど嬉しかったのでしょう。今日いらっしゃると知らせをいただいてからずっとそわそわしていたんですよ、あの子は」


「そうなんですか?」


「ええ。仕事の合間もちらちらと門の方を見ていました。彼があんなに浮かれていたのは、ここに来てから初めてです。すぐにお越しくださったのがよほど嬉しかったのでしょうね」


 微笑ましげに言われて少しこそばゆくなった。応接室に駆け込んできた時の弾むような足取りと輝くような笑顔を思い出す。


「そんなに喜んでくれていたなら私も嬉しいです。でも、それだけではないように思うのですが」


「と、おっしゃいますと?」


 アーベリッシュ卿の目がすぅっと鋭くなったのが少し怖い。


「彼、楽しそうにしていても時々とても昏い眼をするんです。すぐ自分を否定するし。いつも歯がゆく思っていたんですが、今日は全くそんなことがなくて。もちろん、北部に行った経験や新しい友人のおかげで抱えていたものを乗り越えられたなら良いのです。でも……」


 素直に喜びたいのだが、何かが不自然すぎて引っかかる。

 うまく言えなくてつい口ごもってしまった俺に、アーベリッシュ卿が困ったように笑いかけた。


「やはりお気付きでしたね。おそらく、あなたの考えている通りです」


「どういうことでしょう?」


 どうやら俺の嫌な予感が当たったようだ。


「殿下たちに術をかける前に、安全に術が使えるかどうか試すことになりまして」


「まさか、自分に術を?」


「はい。ちょうどマリウス殿下が公務でモエシアに向かわれた時だったので止められる者もおらず」


「そんな……なんということを……」


 怒りのあまり、手が震えてしまう。侯爵家の跡取りがこんなに感情をあらわにしてはいけないのに。

 王族に特殊な魔法を使うのだ。万が一のことがあってはならないと言われるのは仕方ないが、術者本人を実験台にするとは。それもまだ入学前の子供に。

 ぎりりと歯を食いしばる俺を見やるアーベリッシュ卿も沈痛な表情だ。


「本来ならば王室と近衛のごく一部しか知ることの許されない通路を通ってしまったので、そちらの記憶を処理せよとの仰せでした」


「それだけではありませんよね?」


「はい。この機会に、彼にとってトラウマとなっているいくつかの記憶を曖昧あいまいにさせました。北部に行く前日です」


 記憶操作の話を聞いた時から感じていた嫌な予想が当たってしまった。


「そんな、大丈夫なんですか? 万が一のことがあったら……」


「リスクはあります。しかし、それ以上におぞましい記憶を抱えたまま入学を迎えさせる方が危険です」


「そんなにまで?」


「あの子がここに来てから半年近く経っているのに、術をかけるまでほとんど眠れていませんでした。いつもうなされてばかりで。昼間は明るく振る舞っていますが、かなり無理していたようです」


 食ってかかる俺をなだめるように、アーベリッシュ卿は穏やかに話してくれる。


「それは……やはり戦場でのことが?」


「そうですね。優しい子ですから、助けられなかった人や救助や治療を拒否した人のことを思い出してはよく苦しんでいました」


「ああ、やはり」


 戦場やイスコポルの話題が出るたびに、彼は痛みをこらえるような顔で悲しそうに微笑んでいた。

 心優しい彼にとって、なすすべもなく人が死んでいく姿を目の当たりにするのはどれほど苦しかっただろう。まして、他人を手にかけねばならなかったなんて。


「それだけではありません。これは他言無用ですが、あの子は最初の師匠から日常的に虐待を受けていまして」


「なんですって?」


 ヴィゴーレは師匠についてあまり語ろうとはしなかったが、口にするのは感謝と尊敬の念ばかりだった。ふとした言葉の端々から受け継いだ知識と技術に対する誇りと敬意が感じられるのに……

 その師匠から当たり前のように暴力を奮われる日々を送っていたなんて、とても信じられない。いや、信じたくない。


「あの子には人を恨んだり憎んだりするという発想がありませんから」


 だからこそはけ口にされてしまったのでしょうね、とアーベリッシュ卿。

 原因を自らの至らなさに求めてしまって、他者のせいにしようなどとは夢にも思わない子だから、と。


「特技が特技ですから、痕が残らないでしょう? だから師匠が亡くなるまで誰も気がつかなかった」


 師匠が亡くなって、他の指導者に引き取られてから挙動がおかしいことでようやく発覚したらしい。それで短期間に何人もの指導者のところをたらい回しにされたそうだ。

 あまりの卑劣さに言葉にならない。

 逆らえない立場の相手を一方的に暴力のはけ口にするとは。それだけでは飽き足らず、被害者本人に虐待を隠蔽いんぺいさせるなんて。

 彼はあんなに小さな身体で、どれほどの苦痛に耐えてきたのだろう。


「困ったことに虐待自体は軍の一部で知られてしまったので、すべて忘れさせることはできません。それでも繰り返し浴びせられた罵倒ばとうなどは具体的に思い出せないよう暗示をかけさせました」


「たったそれだけで、あんなに変わるんですね」


「今日のヴォーレは明るくて素直だったでしょう? 人懐っこくて、くるくると表情が変わって。あれが本来のあの子なんです。暴力も人を壊しますが……何より人格を、人としての尊厳を否定されるのは心を根本からゆがめてしまう」


 今日の彼が本来の姿だとすれば、今までどれほどの心ない言葉たちに蹂躙じゅうりんされてきたのだろうと思うと胸が痛む。見も知らぬ彼の師匠とやらに本気で殺意が湧いた。とっくに亡くなっているというのに、皮肉なものだ。

 これで本当に彼が本来の自身に戻って生きることができるならば、それはそれで良いのだが。


「でも、この術は時間経過とともに効果が薄まるんですよね? 強い刺激を受けて解けてしまう可能性もある」


「はい、何かの拍子にすべて思い出してしまう可能性はあります。似たような状況に直面するなど」


「そんな……軍の風紀はそんなに乱れているんですか? あなた方の部隊は軍全体の綱紀粛正も担っているはずですよね?」


「もちろん、部隊にいる間は絶対に同じことが起きないと私が責任を持ってお約束できます。でも、学園内ではそうはいかない。何かあっても、学園側からの要請がない限りは我々は一切干渉できません。だから……」


 なるほど。ようやくアーベリッシュ卿が俺を引き留めた理由がわかった。


「だから、私についていてほしいのですね? 何かあった時にこちらに協力を要請できるように」


「はい。学生から要請があればすぐに駆け付けられます」


「その役目を、なぜ私に?」


 彼の実家なり、部隊の関係者なりでもっと適任者はいないのだろうか?


「そうですね。あの子にとって、損得勘定抜きにつきあえる同年代の友人が今のところはあなただけだから」


 なるほど、幼い頃からずっと軍と関わって来たから他に知り合いがいないのか。


「何より、なかなか人に気を許さない彼が、あなたの事はよく話すんです。とても嬉しそうに。それに、今日だってご相談があるとお願いしたらすぐに来てくださったでしょう?」


 だから貴方ならあの子の力になって下さると思ったのですよ、と微笑まれて何だか見透かされた気分だった。


 結局、俺は「学内ではできるだけ彼と一緒に行動する」とお約束して連隊本部をあとにすることにした。

 どうせクセルクセス殿下の側近候補として、長い時間をともに行動しなければならないのだ。一緒にいる理由が増えたところで大して何かが変わるわけでもない。

 殿下も居丈高な言動の原因となっていた洗脳が解け、その記憶も曖昧になっているならばさすがに似たような問題は起こすまい。


 俺は能天気にもそう考えていた。数年後にもっととんでもないことをやらかすとは夢にも思わないまま。

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