信頼と裏切りと反逆と

 クセルクス殿下の言いつけで側近の二人が私室を離れたほんのわずかな時間に殿下が忽然と姿を消した。

 そしてその部屋の中で書棚がガタガタと振動し、壁の向こう側から何やら断続的に物音が聞こえてくる。


 物音は次第に近くなり……やがてがちゃりと重い金属音が響いたかと思うと、書棚が横にスライドしてぎりぎり人が一人通れるかどうかという隙間ができた。


 そこから転がるように出てきたのはクセルクセス殿下を抱えた人物だった。いやむしろ、しがみつく殿下を左手で支えていると言った方が正しいかもしれない。

 不思議と無理やり殿下を捕えているようには見えなかった。


 空いた右手には異様に湾曲した抜き身の剣を携えている。刃が何かに濡れててらてらと光っているのが生々しい。


「殿下……っ」


「危険だ、じっとしてろ」


 思わず飛び出そうとするアッファーリを無理やり押さえつける。

 相手は武装しているのだ。あまりに危険すぎる。


 闖入者はあわただしく書棚を元に戻そうとしたが、完全に通路がふさがれる直前に小さな影が猫の子のようにするりと抜け出した。

 長く紅い尻尾がひるがえる。


 ヴィゴーレは狭い隙間からくるりと回転しながら躍り出ると、そのまま闖入者に対峙する構えを取った。

 いつも通りの青藍色の軍服姿で、左手に刃の背に独特の突起が並んだ大ぶりのナイフを構えている。

 隠し通路でも激しく戦っていたのだろう、軍服のあちこちがほつれ、頬にも浅い切り傷がある。


「ちっ。本当にしつこい子だね……でも、いつまで保つかな?」


「それはこちらの台詞です。いつまでも逃げ回れません、今のうちに投降してください」


 彼に相対しているのは異様な風体をした野性味のある美丈夫だった。

 強い意思を宿して輝く漆黒の瞳が印象的な顔立ちはきりりと引き締まっていて、バランス良く鍛え上げられた長身と相俟って精悍な印象があり、不思議と人を惹きつけるような魅力に溢れている。

 濃い眉に大きな目、彫が深く顔のパーツは全体に大造りでエルダ系民族の特徴だが、無造作にヒゲと髪を伸ばした姿はもっと南東に住む砂漠の民のようだ。


 特異なのはその服装。

 ゆったりとした麻のシャツプカミサと膝下丈のプリーツスカートフスタネーラは元々は白かったのだろうが、いろいろなもので薄汚れて今は薄茶色に見える。青灰色の緞子のベストピスリは金糸銀糸で繊細な植物柄が織り出された優美なものだが、あちこちに付着したどす黒いシミが不吉な印象だ。

 太めの剣帯の前に太い短刀と短銃を無造作に刺しており、深紅のショートブーツは奇妙に先が尖っていて大きな黒い房飾りがついている。


エルダ山岳党クレプテイン……」


 砂漠王国オスロエネの支配を嫌い、弾圧を逃れて山岳地帯に住み着いた民族主義者……と言えば聞こえは良いが、実態はただの匪賊ひぞくだ。

 エルダ国内のみならず、山伝いにシュチパリアをはじめ、ヴァルダリスやモエシアといった近隣諸国の山岳部にも潜伏し、狩猟や略奪、密輸などで生計を立てている。

 先月のイスコポルの悲劇も奴らの仕業だ。


「違うっ、ポントスはそんな野蛮人どもではない!!」


「ご名答だよ、坊や。俺は生まれた時から……いや生まれる前から誇り高き古エルダの末裔、自由と独立を愛する山の民クレプテインだ」


 思わず漏らした俺のつぶやきに、殿下の否定の叫びと闖入者ちんにゅうしゃの肯定の声が重なった。

 蒼白になって自分がしがみついた男を呆然と見上げる殿下と、ニヤリと野太い笑みを浮かべる美丈夫。

 なるほど、これが行方不明だったポントス・フレベリャノ氏か。


「さてと、セルセは危ないから下がっておいで」


「あ、ああ」


 ポントスが優しく声をかけると、殿下は素直に従って彼の後ろに下がる。

 たった今、自身をエルダ山岳党クレプテインと名乗っていたのを聞いていなかったのか、聞こえていたがそれを受け容れられなかったのか。


「これで心置きなく暴れられるよ、お嬢ちゃん。たっぷりとお礼をしてあげなくちゃね……観念しな」


「僕は男です。それに、観念するのはあなたの方ですよ」


 わかりやすい挑発に、顔色一つ変えないヴィゴーレ。

 ポントスは苦笑しながら腰にいたままだったもう一本の剣も抜き放った。大きく円を描くように湾曲した二本の剣を両手にたずさえ、腰を落として構えた姿には異様な迫力がある。


「そんな事を言ってられるのも今のうちだけだよ」


 奴は大きく床を蹴ると一気にヴィゴーレとの間合いを詰める。

 ヴィゴーレはナイフの背で剣を受けるのだが、受けた瞬間に刃を引かれ、大きな弧を描く湾曲剣ショーテールの先が背後に迫って慌てて身をかわした。


「ふふ、狭い通路では充分に剣をふるえずに苦戦させられたけど、もう遠慮はいらないからね。その小さなソードブレイカーでいつまで受け切れるかな?」


 愉しげな声と共に左右の剣で間断なく斬りつけるフレベリャノ。湾曲した刃が大きく弧を描いた不規則な軌道でヴィゴーレに迫る。


「おやおや、防戦一方だね。もうちょっと楽しませてくれると思ったのに」


「いえいえ、まだまだお楽しみはこれからですよ」


 軽口を叩きながらも、ヴィゴーレは徐々に追い詰められているようだ。

 独特な軌跡を描く斬撃をあるいはナイフの背で受け、あるいは弾き飛ばしてはいるのだが、大きく湾曲した刃がその都度思わぬ角度から襲い掛かり、浅い傷が無数にできているのだ。


「強がり言っちゃって。いつもなら剣を受けたらそのまま刃をへし折れるんだろうけど……ショーテールはそうはいかないからね。受け切ったと思ったところで背後から襲われる気分はどうだい?」


「別に。複数人を相手にしていると思えばどうということもありません」


「おやおや、意地っ張りな子は嫌いじゃないよ。その意地がぽっきり折れた時が愉しいからね」


 いたぶるようなフレベリャノの言葉に淡々と返すヴィゴーレ。

 それでも徐々に傷が増えてきているのはヴィゴーレの方だ。


 優雅に舞うように襲い掛かるフレベリャノに、居並ぶ近衛の騎士たちもなかなか手を出せずにいる。

 意を決して一人が突っ込んでいったが、右手でヴィゴーレをあしらいながら左手の剣でいいように翻弄され切り刻まれ、多数の浅手を負ったところで袈裟斬りにされかけたところをヴィゴーレに庇われた。

 変則的な刃の軌跡が予測できない以上、大勢でかかっていっても同士討ちの危険が増すだけで、足手まといにしかなっていない。


「あはは、可愛い顔がだいぶ見られるザマになってきたじゃないか。やれやれ、こんな子供が正騎士とは、警邏けいらもよほど人手不足なんだね」


「その子供に延々とてこずっているのだから、誇り高きエルダ山岳党クレプテインとやらもたかが知れますね」


「いつまで強がっていられるかな? そら」


 ついにヴィゴーレが大きく腿を切り裂かれ、たまらず膝をついた。


「さて、これでお別れだね」


「コニー、そこの花瓶の薔薇を投げて」


「え?」


「いいから早く!」


 初めて耳にするヴィゴーレの切羽詰まった声に、慌てて傍らの花瓶に生けられた薔薇を丸ごと投げると、次の瞬間目を疑うような光景が出現した。


 ヴィゴーレが抱えた薔薇が急速につるを伸ばし、ポントスに絡みついたのだ。

 小さいが鋭いトゲは先が鈎のように曲がっていて、犠牲者がもがけばもがくほど深くくい込み、逃れることを許さない。


「くそっ! 何なんだ、これは!?」


 ポントスは力任せに蔓を引きちぎろうとするが、薔薇はみるみるうちに葉を茂ららせ、可憐な白い花を無数に咲かせながら蔓を伸ばしてますます彼を締め上げる。

 鋭い棘に傷つけられ、ポントスの血が小さな白い花々を赤く染めた。


「暴れるだけ無駄です、投降してください。僕の薔薇からはダルマチアの騎兵隊も逃れられませんでしたから」


 ヴィゴーレは暴れるポントスに淡々と告げるが、その淡白さがかえって奴の頭に血を登らせたらしい。


「ふざけるな、誰がこんな子供に!! セルセ、何とかしろ!!」


「あ、ああ……ヴィゴーレ、卑怯だぞ。今すぐこれを何とかしろ」


「いいえ。殿下には犯罪捜査にも犯罪者の捕縛にも干渉する権限がありません。危険ですので下がって近衛の皆様の保護下に入ってください」


 激昂して叫ぶのに殿下が応えると、ヴィゴーレが感情を伺わせない平坦な声できっぱりと突っぱねた。

 確かに正論ではあるのだが、この状況でその言い方はまずい。


「ふざけるな! 王太子の命が聞けないのか!? 反逆罪だぞ!!」


「殿下はまだ立太子前の第一王子に過ぎません。それに王太子となられたとしても軍務に直接干渉する権限はありません。従って殿下が何を仰っても正式な命令にはならず、あくまで個人の要望に過ぎません」


 案の定、殿下は顔を真っ赤にして激高したが、ヴィゴーレは淡々と否定しただけだった。


「殿下、落ち着いて下さい。そちらのフレベリャノ氏は本来王族しか使用が許されない隠し通路を利用してこの部屋に許可なく侵入しました。それだけで拘束されても仕方ありません。ヴィゴーレは職務に忠実なだけです」


「俺が許可する! それなら問題なかろう!!」


「いいえ。事前に届け出があればともかく、そうでないならどうしたって事情を取り調べる必要があります。その上で後ろ暗い事がなければ無事放免されるでしょう」


 この状況で、後ろ暗いところがないなんてあり得ない。そんな本音はおくびにも出さずに殿下をなだめようとする。


「言うじゃねえか坊や。そういうお前さんは、『絶対に後ろ暗い所があるに決まってる』と思っているくせに」


「それは私にはわかりかねます。とにかくここで暴れて逃走しても、罪状が増えるだけです。投降してください」


「そいつはできねぇ相談だな!!」


 全身を薔薇の蔓に絡まれ、血を滲ませながらニヤリと笑うポントス。

 舞い散る白い花弁と室内に漂う甘い花の香りが緊迫した状況にあまりにそぐわなくて、ポントスの野性味のある不敵な笑みが何とも言えない胸騒ぎを引き起こす。

 次の瞬間、凄まじい煙が室内に充満した。


「くぁっ!?」


 次いでヴィゴーレの悲鳴。いつも我慢強い彼にしてはあまりに珍しい。


「ヴィゴーレ!?」


「ぐぇっ!!」


 思わず駆け寄りそうになったが、その前にポントスのくぐもった苦鳴が響き、自分が行っても足手まといになるだけだと思い至った。


「大丈夫だから動かないで。窓に近い人は窓を開けてください」


 すぐさま冷静さを取り戻した声に、我に返った誰かが部屋の窓を次々開けるにつれ、室内の煙がみるみるうちに晴れて行く。

 やがて煙がすっかり引いた後に俺たちが目にしたのは、ポントスもろとも薔薇の蔓でぐるぐる巻きになったヴィゴーレの姿だった。

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