平穏と寛解と急転直下

 その後、クセルクス殿下の治療は順調に進んだ。

 翌日こそヴィゴーレの姿が見えないと不安がって発作を起こしていたが、それでも彼が手を握って励ますだけで自分でも耐えられるとわかってからは無暗に騒ぐこともなくなった。

 俺たちもできるだけ登城してお話をしたりチェスなどの遊戯に興じるように心がけているうちに次第に発作を起こす間隔も長くなっていった。


 発作の時も、初めのうちはヴィゴーレ一人がなだめていたのだが、アッファーリが一緒に手を握って励ますようになってからは落ち着くまでの時間が驚くほど短くなり、そのうちアッファーリが一人でなだめていても発作が落ち着くようになってきた。

 今では文机に飾られた素朴な白い野薔薇の束の、甘やかな香りを楽しむ心の余裕も出てきたくらいだ。


 そしてあの日から五日目、とうとう全く発作を起こさなくなったのだ。


「これなら白薔薇ちゃんが泊まり込む必要もなくなるね。みんなよく頑張ったね」


 報告を聞いた王弟殿下も満足気だ。


「みんなが協力してくれたおかげです。本当にありがとう」


「そんな、同じ側近候補だろう。役に立てたなら嬉しいよ」


 まだ疲労の色が濃いもののほっとした表情のヴィゴーレが礼を言うと、アッファーリが照れたように微笑んだ。

 手を取り合って喜ぶ二人を見ていて心温まる思いだが、その一方で彼らは本当に高位貴族の子弟だろうかと首をひねりたくなる。


 こんなに素直で純粋な連中に、海千山千の曲者が集う社交界や政界をうまくわたっていく事ができるだろうか?

 つい最近まで戦場にいたせいか、色々な感覚が普通の人間とずれているヴィゴーレはもちろん、お人好しで流されやすい所のあるアッファーリも心配だ。

 もっとも、この二人のまっすぐな優しさが不安と恐怖に苛まれた殿下の精神を癒したことは間違いないので、彼らを側近候補に選んだことはあながち間違ってはいなかったのだろう。


「スキエンティア君もお疲れ様。君がよく目を配ってくれたおかげで色々と気が付くことができたよ」


 複雑な心境で彼らを見ていると、苦笑した王弟殿下に肩を叩かれた。


「お役に立てているならば良いのですが……」


 俺はヴィゴーレのように治癒魔法が使えたり医学の知識があったりするわけでもなく、アッファーリのように純粋に殿下を労わってお傍で励ます事ができたわけでもない。


「君が気付かなかったらセルセも自分で発作に立ち向かおうなんて考えられなかったし、白薔薇ちゃんも無理を重ねて今頃倒れていたんじゃないかな? それにセルセがコンタビリタ君にこんなに心を開くこともなかったと思うよ」


「そうでしょうか?」


 注意深く殿下の話を聞いていれば俺でなくても気が付いたように思うが。


「うん。白薔薇ちゃんはセルセの苦痛を全部取り除く事ばかり考えて余裕がなかったからね。周りが見えてなかったし……コンタビリタ君もアハシュロス君もセルセの癇癪に目が行っていて、それがどこから来るのか考えが及んでいなかった。もちろん俺もね」


 だから君がいてくれて良かった、とさらりと続いた言葉は、音よりもだいぶ遅れて俺の頭と心に入って来た。

 そうか、俺も役に立てていたのか。クセルクセス殿下にとってもヴィゴーレにとっても。


「ありがとうございます。そうおっしゃって頂けると嬉しいです」


「セルセの側近になるのが優しくて良い子たちでほっとしたよ。ちょっと難しい子だけど、これからもよろしくね」


 頼りにしてるよ、と言い残して王弟殿下は執務に戻られた。

 社交辞令だろうが、それでも嬉しい。


 その後しばらくは穏やかな日々が続いた。

 ヴィゴーレは治療を宮廷医たちに引き継いで原隊に戻り、俺たちは交代で登城して殿下のお相手をする毎日。

 初めのうちはヴィゴーレの不在を不安がった殿下も、アッファーリの励まされ、アルティストに持ち上げられるうちに自信を取り戻し、精神的にも驚くほど安定してきた。


 このまま何事もなく入学を迎えられると無邪気に信じていられたのはつかの間のことだった。

 少しずつお互いの話をしながら手探りで距離を縮めて打ち解け始めた頃の事だ。


 また殿下の様子がおかしくなった。

 以前のようにすぐに激昂すると言う訳ではないのだが、何かを隠しているような、怯えているような。

 何とも嫌な予感がするが、具体的に何がどうおかしいと指摘できるわけでもなく、誰にも相談出来ぬうちにその日が来てしまった。


「どうしよう、殿下がどこにもいらっしゃらないんだ」


 アッファーリから取り急ぎ登城して欲しいとの文が届き、取るものも取り合えず駆けつけると、すっかり取り乱したアッファーリが飛びついて来た。


「殿下、まだ身体がすっかり戻った訳ではないのに……どこかで発作を起こしておられないだろうか?」


「落ち着け、アッファーリ。王弟殿下にはお知らせしたのか?」


「うん……でも心配要らないっておっしゃるだけで何も教えて下さらなくて……」


 「きっとお一人で辛い思いをしておられる」と涙を浮かべて心配している。


「マリウス殿下がそうおっしゃるなら大丈夫だろう。それにしても一体何があったんだ?」


 すっかり狼狽えているアッファーリに訊いても埒が明かんとアルティストに話を向けてみる。


「俺にもよくわからん。殿下がアッファーリに厨房まで言付けに行かせたんだ。小腹がすいたから軽くつまめるパイでも持ってきてくれと」


「わざわざ厨房まで? 侍従殿はどうしたんだ?」


「今日は休暇だそうだ。アッファーリと俺がいるから大丈夫と昼間は里帰りさせたそうだ。あの方も治療が始まってからずっと根を詰めておられたから」


 確かに侍従殿も殿下につきっきりだったはずだ。ヴィゴーレほどではないにせよ、かなり疲労がたまっておられたに違いない。


「それで、アッファーリがいない間に王弟殿下にお伝えしたいことができたからと、手紙を届けるようにと俺も言付かって……」


「殿下がお一人になったんだな」


「ああ。まさか殿下の私室で何かあると思わなくて……」


 アルティストもだいぶ参っている。

 どうやら殿下は適当な口実をつけて私室で一人きりになる機会を作りたかったようだ。

 そして二人が戻ってくるまでのごくわずかな時間に姿を消した。


「部屋のすぐ外にいる歩哨は俺たち以外に誰も出入りしていないと……」


「なるほど。にもかかわらず、殿下が忽然と姿を消した……」


 となると、これは室内から外部につながる抜け道でも使ったのだろう。

 何も珍しい事ではない。どこに城にもいざという時のために要人の私室や執務室から外部への抜け道が用意してある。

 かく言う俺も領地の居城に戻れば、私室に抜け道が隠してある。


「王弟殿下が心配要らないとおっしゃるなら、第一王子が抜け出そうとする事をあらかじめ見越しておられたということだろう」


 それにしても一体何故?

 気をもみながら話しているうちに、書棚の一角がガタガタと揺れて音を立てている事に気付いた。


「な……何……!?」


「落ち着け。とにかく表の近衛に声をかけて来い」


 狼狽えるアッファーリを落ち着かせながらアルティストに人を呼びに行かせる。

 耳を澄ますとバタバタとせわしない足音や人の声の他に何か金属同士がぶつかり合うような音も混じっている気がする。

 なるほど、この書棚が抜け道への出入り口なのだろう。物音は次第に近付いてくる。


「危険です。下がっていて」


 駆けつけた近衛兵に言われてできるだけ書棚から離れて様子を伺う。

 傍らで青ざめて震えるアッファーリの手を宥めるように握りしめたが、怖いのは俺も同じだ。しっかりと握り返してくる手の温もりに縋るような思いでことの成り行きを固唾を飲んで見守った。


 物音はますます近くなり……やがてがちゃりと重い金属音が響いたかと思うと、書棚が横にスライドしてぎりぎり人が一人通れるかどうかという隙間ができた。

 そこから転がるように出てきたのはクセルクセス殿下を抱えた異様な風体の人物だった。

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