苦痛と忍耐とトラウマと
その後、殿下は六時間近く熟睡した。
その間に俺は王弟殿下とパラクセノス師に連絡を取り、薬物中毒治療のあらましと注意点を教えていただいた。
ようやく目を覚ました殿下は身を起こすと落ち着かぬ様子で部屋の中を見回し、途端に不安げな表情になる。
「奴はどうした?」
「奴、でございますか?」
「ああ、ヴィゴーレだ。俺を放っていったいどこに行ったのだ?」
あれだけ「危害を加えられた」と大騒ぎしていたくせに、姿が見えないと不安になるのか。
そう言えば、さっき発作を起こして錯乱気味だった時も、彼に抱きかかえられて優しく声をかけられたとたんに大人しくなって縋りついていたな。
「彼なら下がらせました。殿下がご自分に危害を加えるとおっしゃっていたので」
「そんな……それでは、またあれが始まったら俺はいったいどうなるんだ……」
つい嫌味を言うと、殿下はこの世の終わりのような顔をして心細げにぽつりと言った。いったいどの口が……と言いたくなるのを密かに深呼吸して懸命にこらえる。
「先ほどの発作の事ですか? あれはヴィゴーレの仕業だったのでは?」
「知らん! とにかく奴が俺の手を握っていると苦しいのがなくなっていくんだ。奴がいなかったらあれがいつまでも続くのか……」
ぶるりと身震いするクセルクセス殿下。
この人は、ヴィゴーレが離脱反応の苦痛を和らげていることを分かった上で、あんなに罵っていたのか。八つ当たりにもほどがある。
彼が何も言わないからと言って、なんと理不尽な。
「彼は殿下の発作をおさえるために自分の生命を削って魔法を使っていました。おそらく殿下の感じるはずの苦痛をいくらか肩代わりしていたのでしょう」
そんなこと、いちいち説明されなくても彼の消耗具合を見ればわかるだろうに……いくら治療が苦しかったからとは言え、本当に自分のことしか見ていなかったようだ。
それとも、それがわかった上で甘えているのだろうか。彼があんなにもボロボロになっているというのに、まだ自分のために更なる犠牲を強いようと言うのか。
「さすがに身体が限界の様子だったので別室で休ませています。何かあればすぐ呼びに行く約束になっています」
事実を聞いて、今度はあからさまにほっとした顔になる殿下。
「だったらすぐに呼んで来い」
当然のように言い放つと、すぐにアッファーリが部屋を出ようとした。
「お待ちください。彼を起こすのは発作が起きてからで大丈夫でしょう。ろくに休息がとれない状態でむやみに魔法を使わせると彼の生命が危険です」
「そんなものはどうでもいい。早く奴を……」
「殿下の発作は命に別条のないものです。それに引き換え彼の魔法は自分の命を削って発動させるもの。使いすぎれば彼自身が生命を落としかねません」
すぐに引き留めたがやはり通じないようだ。どうでも良さそうに彼を呼びに行かせようとするのを遮って丁寧にたしなめた。
「それがどうした」
「この国に高度な治癒魔法を使える人間がいなくなる、ということです。マリウス殿下のお話では、あのレベルの術者は近隣諸国を含めてもヴィゴーレ一人だとか。その彼に万が一の事があれば、その後はどうするのです?」
「……」
どうやら想像すらしなかったらしい。
ここまで言わなければ、自分の要求している事の意味を考えようともしなかったのか。湧き上がる呆れと失望を押し隠すのはなかなか難しい。
「今回は苦しいだけで命に別状はありません。放っておいても数日で治るそうです。しかし、次に殿下が直面する危機は一刻も早く術を使わなければ生命を落としかねないものかも知れません。その時に、彼がいなかったらどうするのですか?」
「それは……」
彼の魔法は無限に好きなだけ使える便利な道具ではない。
極めて貴重な知識と技術であるのみならず、その代償も大きいのだ。
その場の気分や目先の欲で安易に使ってしまって良いものではない。
「代わりが効かないんですよ、彼の生命は。それを消費させるのです。それだけの価値がある事なのか、今使ってしまって良いものなのかよくお考え下さい」
「しかし……」
「少しは自分でも耐える努力をしてみて、それでもどうしても耐えられないなら彼を呼べば良い。ただし、その都度彼の生命を削っている事、そして殿下が感じなくなった分の苦痛は彼が肩代わりしていることをゆめゆめお忘れなきよう」
「そんなものは臣下として当然……」
「今、彼の生命を使い切ってしまえば次はありませんよ? 殿下も王族である以上、いつ生命の危険に晒されるかわかったものではないのに」
「……」
この調子を見るに、彼が自分の苦痛を代わりに感じているという事実だけでは殿下の心は欠片も動くまい。
それでも、彼の生命が失われれば、次には助けてもらえなくなる。その可能性をつきつけられて、ようやく自分が要求しているものがはたして妥当かどうか、自分にとってどうするのが利益になるのか考えを巡らせ始めたようだ。
「彼の様子を見てきます。アッファーリ、また発作が起きたら呼んでくれ」
殿下が黙り込んで何事か考え始めたので、俺は侍従に頼んでヴィゴーレのところに案内してもらった。
彼は殿下の寝室のすぐそばの、侍従見習いが使う部屋をあてがわれていた。
侍従見習いと言ってもそれなりの格の貴族子弟が務めるものなので、部屋は豪華ではないものの調度も寝具も良いものを使っていて落ち着いた雰囲気だ。
彼はその部屋の隅の寝台で、幼子のように身体を丸めて眠っていた。
すぅすぅと寝息を立てていう顔は安らかで、殿下のものとも自分のものともつかない体液でドロドロに汚れていた服も清潔なものに替えられている。
ボサボサになっていた髪が少しだけ艶を取り戻し、微かに湿っているところを見ると湯を使わせてもらったのかもしれない。
こころなしか色を失っていた頬に微かに血色が戻っているようだ。
「責任感の強い方ですから、ずっと殿下につききりで。お休みになる時も椅子に座ったままでしたので……ようやくまともに休んでいただけて助かりました」
侍従の少年がほっとしたように言う。
どうやら彼もヴィゴーレの衰弱した様子にに気をもんでいたようだ。
「義務や責任もあるのでしょうが、怯える殿下を放っておけなかったのでしょう。お優しい方です」
「そうですね。優しいし、賢いし、誰にも真似できない力も持っている。これでもう少し自分を大切にしてくれれば言う事はないのですが」
聡明で心優しく才能に溢れ、容姿だって愛らしい。高位貴族の子弟なのだ、これだけ揃っていれば持ち上げられて天狗になっていても不思議ではないのに、何故か彼は異様なまでに自己評価が低い。
だからこそ「自分が求められている」「自分にしかできない」という事に固執しているのだろう。
『あの子はね、期待を裏切るのが怖いんだ。期待に応えられなかったら見放されるんじゃないか、嫌われるんじゃないかってどこか不安なんだろうね』
マリウス殿下の言葉が脳裏をよぎる。
なぜか自分自身には価値がないと思い込んでいるヴィゴーレ。
そのくせ、大抵の事は頑張ればできてしまうから、期待に応えようと無理をして我が身を削り続けてしまう。
『我が身を削って、他人のために差し出し続けて……そんな生き方をしていれば、行き着く先がどうなるか』
王弟殿下の言葉を思い起こし、恐ろしい未来を想像してしまって背筋がぞくりと震えた。目の前の憔悴しきった姿を見るに、その未来予想図があながちただの妄想ではないようだ。
せめて生命力だけでも分けてやれれば良いのに。
思わず手を伸ばそうとして……ぱちりと開いた琥珀色の瞳と視線が合った。
「あれ?スキエンティア令息……?」
まだ寝起きで意識がはっきりしないのだろう。とろんとした瞳で舌ったらずに呼ぶ俺の名は、声変り前のメゾソプラノと相俟ってどこか幼く甘やかに聞こえる。
「すまん、起こしてしまったか?」
「ううん、自然に目が醒めちゃった。何だかすごくすっきりしてるもの」
上体を起こしながらあどけなく微笑む顔は、確かに休む前のボロボロの姿に比べるとだいぶ生気が戻っている。
何よりぼんやりとして虚ろだった瞳にしっかりとした意思の輝きが戻っていて、俺は心底ほっとした。
「そうか、ちゃんと休めたならよかった」
「ありがとう。僕、どのくらい寝てた?」
「約六時間といったところだな。今は夕方の五時だ」
「え、そんなに寝ちゃったの!? 殿下は大丈夫!?」
時間を聞いて慌てだすヴィゴーレ。
「大丈夫だ。殿下もついさっきお目覚めになったばかりだが、心身共にだいぶ落ち着いておられた。何かあればすぐに報せがくるようになっている」
「でも……」
「お前の処置が良かったんだろう。お休みになる前よりもだいぶ元気になっておられたぞ」
殿下の無事を伝えると共にさりげなく彼の処置を褒めると、彼は「そっか、良かった」と照れたように微笑んだ。
「毎日何度もあんな発作があるのか?パラクセノス師から伺ったお話だと、放っておいても一週間程度でおさまるそうだが」
師から届けられた説明を読んでどうしても解せなかったのはそこだ。
離脱反応と呼ばれる薬物が急速に体内からなくなることによって起きる様々な症状は、放置しておいても一週間から十日で消えるらしい。
ならばヴィゴーレが魔法で負担を軽減している殿下はそろそろその反応がなくなっていてもおかしくないはずだ。
にもかかわらず、先ほどは日頃の傲岸さがまるで別人のように苦しみ、心細そうにヴィゴーレに縋っていた。
「最初あまりに離脱反応が強かったのと、何より殿下が苦痛に対する耐性が低すぎて。仕方がないからごく微量の快楽物質を使って徐々に体内の薬の量を減らしたんだ。その時に、快楽物質だけじゃなくてあえて悪酔いするような薬も一緒に投与して、薬物を身体が嫌なものだと認識するようにしたんだけど……その副作用がトラウマになっちゃったみたい」
「どういう事だ?」
「たぶん本当の離脱反応はほとんど残っていないんだけど、不安からそれまでの治療中の発作の記憶が呼び覚まされて、疑似的に離脱反応がフラッシュバックしちゃってるんだと思う。自律神経を鎮める物質を生成するとすぐ落ち着いてくれるんだけど……四時間くらいで分解されちゃうから」
「なるほど。つまり薬物や治療の影響と言うよりは、殿下のトラウマの問題なんだな」
実際にはあれは発作と言うよりも不安から苦痛を思い出して追体験しているということか。
「うん。フラッシュバックの原因となっている不安を取り除ければ発作はおきなくなると思う」
「つまり、殿下の不安を取り除くのが肝心なんだな」
「そうだね。さて、と。僕もすっかり元気になったからもう行かなくちゃ」
軽く伸びをして寝台を降りるヴィゴーレ。先ほどのふらつきもすっかりおさまり、いつものきびきびした動きを取り戻している。
そこに控えめなノックがして、おずおずとアッファーリが入って来た。
「もしかしてまた発作!?」
「違うんだ、慌てさせてごめん」
顔色を変えるヴィゴーレにアッファーリが慌てて訂正する。
「実はマリウス殿下がいらっしゃって、クセルクセス殿下とぶつかっちゃって。アルティストじゃ全然お相手にならないから、あれでは流石にクセルクセス殿下が可哀そうで……」
どうやら俺が問い合わせたせいでマリウス殿下が様子を見にいらっしゃったらしい。そこで殿下が余計な事を言ったようで、容赦のないお説教が始まったのだと言う。
俺にも原因の一端がないとは言えないのですぐに向かう事にする。
起きたばかりのヴィゴーレと共に殿下の寝室に入ると、ちょうど蒼褪めて項垂れるクセルクセス殿下が頭をかかえて震えはじめたところだった。
また例の発作だろうか?
俺たちは顔を見合わせて頷くと、すぐに寝台へと駆け寄った。
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