分かち合うささやかな幸せ
※Twitterの企画で陰東 愛香音さん(TwitterID:@kageazuma)にヴォーレを描いていただいたので、そちらに合わせての番外編です。
時系列としては本編終了の三か月後(ヴォーレとコニーが十八歳の九月末)です。
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まだまだ暑さが残るとはいえ、少しずつ日が暮れるのが早くなってきたこの頃。ようやく法務補佐官としての業務にも慣れて残業せずに帰れるようになって来た。
退庁時間、今日の業務に抜けがないか上司にチェックしていただき、お許しがでたのでそそくさと支度して事務所を出ようとしたところ、廊下の角で赤い尻尾が揺れている。
「ヴォーレ!」
慌てて声をかけると尻尾が一瞬引っ込んで、代わりにキラキラした琥珀色の瞳が顔を出した。
「コニー、今帰り?」
「ああ、お前は?」
「うん、ちょうど報告書を出しに来て帰るとこ。今夜は非番だからちょっと遠回りして市場寄るんだ」
この嬉しそうな顔を見るに、また何か甘いものをしこたま買い込むつもりだろう。小柄で一見華奢に見える彼は無類の甘党の上にとてつもなく大喰らいなのだ。
いつも俺の倍の量は食べているくせに、全く太らない。それだけ仕事で消費しているのだろうが……実に羨ましいことである。
「一緒に行く?」上目遣いに問う彼に「もちろん」と返して隣に並ぶ。
迎えに来てくれた馬車には先に帰ってもらうことにしよう。
そろそろ日が暮れかけた
こんがり揚がったミートパイ、しっかり煮込んだシチューにこんがり焼いた串焼き……夕陽に照らされた市で、空気ごと珊瑚色に染まった人々が思い思いの食べ物を買い込む姿はとても楽し気で、見ているだけで心が浮き立つようだ。
「あ、こっちで
「うわ、もう
「タラのフライもあるよ。かかってるソース何だろう?」
ヴォーレはあちこちの屋台を眺めては何を買おうか思案中。誘惑が多すぎて何にするかなかなか決められないらしい。
「あっちに
クルミの蜂蜜漬けがぎっしり入ったどっしりしたパイは彼の大好物だ。
屋台からは蜂蜜とバターの香りが濃厚に漂ってきて、嗅いでいるだけで腹が膨れてきそうだが、ヴォーレはかえって食欲を刺激されたらしい。
「うわ、美味しそう。大きいの一つ下さい」
油紙に包んでもらったバクラヴァを嬉しそうに抱えている。他にもほうれん草がたっぷり入った
あれを全部食べたら絶対に喉が渇きそうなので、ミントとキュウリの入った
早めの夕飯だろうか? 広場の一角にしつらえられたベンチで職人や行員、作業員風の人々が思い思いに休憩しながら屋台で買ったものを口にしている。
我々も空いているベンチに並んでさっそくいただくことにした。
「うわ、熱々で美味しい。コニーも一ついる?」
さっそく揚げたての
三角形のサクサクしたパイにはひき肉や玉ネギの他にも俺の好物のヒヨコ豆がたっぷり入っていて、食べると肉汁とともにクミンやカルダモンの爽やかな香りが口いっぱいに広がる。
スパイスのおかげで体がじんわりと温まって心地よい。
「たしかに美味いな。仕事の疲れが溶けて行くようだ」
「ね、美味しいよね。こっちの
「どれどれ、フェタチーズが良い香りだな」
「うん、いくらでも入っちゃいそう。一緒に食べると幸せだね」
ヴォーレは次々と買い込んだものを口に運んでいる。
「
一体この細い身体のどこにこれだけの食糧が入っているのか不思議でならない。まさかとは思うが、どこぞのゾンビ女神の養分になっているのだろうか?
「さて、と。いよいよバクラヴァだ。いっただきまーす」
うきうきした顔で大きなバクラヴァにかぶりつくヴィゴーレ。屋台のおやじさんがたっぷりと蜂蜜をかけてくれたらしく、一口ごとに蜜があふれ出している。
「うわ、手がベタベタになっちゃった」
「口の周りも蜂蜜がついたままだぞ」
ちょうど食べ終わるタイミングで用意しておいたハンカチを渡すと、少しだけ頬を赤らめながら慌てて拭いていた。どうやら食べるのに夢中で蜂蜜があちこちついていたのに気付いていなかったらしい。
「さすがに食べ過ぎたかな? 喉かわいちゃった」
「そう言うと思って買っておいたぞ」
「うわ、
彼が嬉しそうに受け取ったので、俺も自分の分に口をつける。よく冷えたヨーグルトとレモンの酸味とミントの香り、シャキシャキした胡瓜の食感が口の中をさっぱりさせてくれる。
「ああ美味しかった。それじゃ、そろそろ寮に戻らないとお夕飯食べ損ねちゃう」
「お前、あれだけ食べてもまだ食べる気か?」
「うん。その分も考えて量はセーブしておいたもの。今夜は
にこにこと嬉しそうなヴォーレ。そうか。あれでも量を控えていたのか。
隣のベンチでパイをぱくついていた港湾作業員らしき二人連れも目を丸くしてこちらを見ていて、少しだけ恥ずかしいのは内緒だ。
「さて、と。ドレインやエドン達にもお土産買っていかなくちゃ。あ、ハンカチ洗って返すね」
喉が潤って一息ついたのか、軽く手を払って立ち上がったヴィゴーレは、
「こちらの胡麻のやつ二つ下さい。あとこっちのピスタチオも一つ」
「はいよ。お嬢ちゃん可愛いからちょっとおまけしておくよ。こっちの松の実のも持って行きな」
「おばちゃん、僕おとこ……」
「ありがとう、感謝する」
屋台主の好意に余計な事を言いかけたヴォーレを遮って包みを受け取ると、商人の女性はにやりと楽し気に笑った。
「おや、デートだったのかい。せっかくイイ男つかまえたんだ、彼氏の前であんまり食い意地張るもんじゃないよ」
「デートじゃないよ。二人とも仕事の帰り」
むぅ、と頬を膨らませて言うヴォーレ。その拗ねた表情がとても二十歳近い大の男には見えないのがわからんのだろうか。
「おや、お仕事お疲れ様。それでこんなに買い込んでいくんだね」
「これは職場の後輩にお土産だよ。みんなで分けようと思って」
「いい心がけだ。それじゃ、こっちのアーモンドのやつの切れ端も持って行きな」
「うわ、ありがとう。また来るね」
気の良さそうな女性は「次は後輩も連れておいで」と笑って手を振ってくれた。
「良かったな、色々試せるぞ」
「うん。みんなきっと喜ぶね」
そろそろ帰ろうと広場を出かかった時のことだ。
日が暮れて藍色の闇が覆い始めた空の上、月が急速に欠け始めた。
「あれ? 今日って月蝕だったっけ?」
「いや、満月だとしたらまだ月が見える時間じゃないだろう」
ここはイリュリアの中心にある丘の西側の港なのだ。月はまだ丘の向こう側に隠れているはずの時間だ。
「……ということは……」
「ああ、お出ましだろうな」
「あらあらあら、よくわかりましたね」
ふと気付くと周囲は真っ暗になっていて、ただ紅く染まった月に巨大なトウヒのシルエットが照らし出されている。
そして鈴を振るようにふわふわとした可憐な、それでいて凛とした気品に満ちた声が。
「お久しぶりです。
ふと気付くと目の前に、首にボロボロのロープを巻いた、黒髪のお下げの少女(?)が佇んでいた。
「なんだか楽しそうですね。それに美味しそう。二人だけでずるいですよ」
かわいらしくふくらませた頬は腐って一部ドロドロと液状化している。
拗ねたように小首を傾げた拍子に大きな瞳が零れ落ちそうになった。物理的に。
相変わらずすさまじい腐敗臭である。
「そう言えば最近お供えしたか?」
「……すっかり忘れてた……」
実はヴォーレは普通の人間ではない。
三か月ほど前、この世界の創世神である
それ以来、気が向いた時にこの
何やら彼女は生贄として人間が手をかけて作ったものを捧げられる事で力を増すらしい。
食べ物や工芸品も『生贄』と呼べるのかどうか、はなはだ疑問ではあるが。本人(?)が満足しているならそれで良いのだろう。
「えっと……良かったら召し上がります?」
ヴォーレがおそるおそるおまけにもらったアーモンド味のハルヴァを差し出すと、この世界の礎であるところの
「あと松の実のもいただきますね。どうせおまけにもらったものですし」
女神は実に嬉しそうに菓子をもう一つつまむと、あっという間に平らげた。
「たまには一緒に美味しいもの食べましょうね。約束ですよ?」
すっかり満足したらしい女神は小首を傾げる仕草と声だけはどこまでも可愛らしく言うと、いつの間にやら落としていた瞳をさりげなく拾い上げ、ふいっと姿を消した。
「何と言うか……あっという間だったね」
「ああ、月蝕と言うよりは嵐のようだった」
取り残されて唖然とする俺たち。
「そう言えば、おまけにもらった分だけ召し上がってたね」
「……そうか、食べ物というより、人間の好意や善意を食っていたのかもしれんな」
見た目は邪神としか思えないが、実は善良で心優しい彼女らしい。
「それじゃ、お土産早く持って帰ってあげなくちゃ」
「そうだな、せっかく女神が見逃してくれたんだから」
「うん、今日はつきあってくれてありがとう。また来ようね」
ようやく丘の端から顔を出した月に照らされながら、二人並んで歩く家路はいつになく心地の良いものだった。
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