薬物中毒と治療方針
「間に合ううちに治療を始めないと、王族どころか普通の人としての生活ができなくなっちゃう」
「そんなに危険なのか……」
こともなげに言ったヴィゴーレの言葉に殿下も俺たちも凍り付いた。
一方、唖然とする一同にパラクセノス師とヴィゴーレは不思議そう。どうやら彼らにとっては当たり前のことだったらしい。
「そうですね。もう既に吐き気や呼吸抑制、傾眠、慢性的な便秘などの症状が出ているのでは? このままですとそろそろせん妄や幻覚、手足の震えが出て来るかと」
「呼吸抑制?」
「呼吸がうまくいかなくてずっと息苦しい状態のことだよ。脳に充分な酸素が行き渡らなくなって頭痛もひどくなる」
「息苦しさに頭痛、手足の震え……」
蒼ざめた顔で呟くところを見ると、どうやら並べられた症状にお心当たりがあったらしい。
「他にも感情のコントロールがつきにくくなって不安や恐怖にかられたり、知覚過敏になって、ちょっとした音やにおいが耐えられなくなったり。少し触れられただけで激しい痛みを感じる人もいるね。更に悪化するとろれつが回らなくなってまともにしゃべれなくなる」
「……想像するだにおそろしいな」
「うん、一刻も早く薬の影響を抜かなきゃ。と言っても治療を急ぎすぎると離脱反応が起きるから慎重にしないといけないんだけど」
専門用語を並べても理解されないということにようやく気付いたヴィゴーレがわかりやすい言葉で症状を説明してくれたのだが、確かに恐ろしい。
王侯貴族としてどうこう以前に、人としての社会生活を維持するのも難しいと言われたのも納得が行く。
「ヴィゴーレ、お前薬物中毒の治療は可能か?」
「はい、前線ではよくあることでしたからある程度は経験があります」
パラクセノス師の問いかけをヴィゴーレが事も無げに肯定した。
前線でよくある、というのは一体どういう事だろう? そんな疑問が顔に出ていたのか「戦場では不安や不眠の解消に薬を濫用する人がどうしても出るんだ」と苦笑しながら教えてくれた。
そんな薬に頼らなければならないほどの不安や恐怖を常に感じなければならない場所が前線というものなのだと。
「常に魔導具が作動していた訳ではないのが幸いしましたね。まだ深刻な症状は出ていないようですし、慎重にやれば離脱症状も軽く済ませられると思います」
「問題はそこだよな。命に別状はないとはいえ、この系統の薬の離脱症状は苦しいから」
離脱症状とは何だろう?
これも不思議そうな顔をしていると「薬物中毒の患者さんが急に薬を絶つと起きる副作用みたいなものだよ」とまた教えてくれる。
汗や涙、鼻水が止まらなくなったり、胃の痙攣などの症状が出るらしい。すさまじく苦しいそうだが、それ自体は致命的なものでも後遺症が残るようなものでもないのだとか。
放っておいても十日ほどで治るのだが、苦痛が大きいために耐えられずまた薬に手を出す患者が多いと言う。
「自律神経症状ならある程度は抑えられますよ。六時間おきくらいに術をかけなおさなければならないし、患者の状態を診ながら慎重に調整しなければならないから十日ほど僕がつきっきりになる必要がありますが」
「お前、そんな事も出来るのか」
「離脱症状の緩和は薬物中毒治療の基本でしょう? 離脱症状が苦しいからと治療を避けるために脱走してまた薬に手を出す人も後を絶たないようですし」
「いや、その通りなんだが……普通はそんな事できないぞ。体内の薬物を除去するくらいのことはやると思っていたが、聞きしに勝るな」
正直、何を言っているのかさっぱり分からないのだが、パラクセノス師の反応を見るにすごい事なんだろう。
自分ではそれなりに勉強しているつもりでも、知らないこと分からないことだらけでいささか自信喪失しそうだ。
「僕は師匠から受け継いだだけです。知識と技術を磨いて継承してきた先達のおかげで出来る事もありますが、まだまだ未熟です」
「お前、謙遜がすぎると嫌味になるぞ」
「謙遜ではないのですが……師匠や先輩はもっとずっと優れていたんです」
「お前な……もっと自信を持てよ。お前がそうやって萎縮してたら、お前に知識と技術を残してくれた師匠や先輩も軽く見られるぞ」
「……はい、気を付けます」
師の賛辞を頑なに否定するヴィゴーレに少なからず引っかかりを覚えてモヤモヤしていると、師も同感だったらしく苦笑交じりにたしなめた。
ヴィゴーレは咎められたと思ったのか表情を昏くして俯いてしまう。何だか痛々しい姿に、師も軽く嘆息するとあえて明るい声を出して話題を変えた。
「でもまぁ、離脱症状の緩和ができるなら、思っていたよりも早く治療ができそうだな。本人が意図して薬物を摂取していたわけではないから依存への対処もやりやすそうだ」
「不幸中の幸いですよね。ご自身ではどうやって薬物を摂取していたかご存知ないから、薬物への渇望のきっかけが出来にくい。最初の離脱症状が強い間は僕がつきっきりで状態を診ますが、体内の薬物が抜けて一週間経てば通常の治療で充分だと思います」
ヴィゴーレの表情も心なしか和らいだ。薬物中毒の治療としては、比較的見通しが明るいらしい。
発覚を防ぐために魔道具の発動条件を厳しく設定していたうえ、放出される薬物も最小限度の量だったのが幸いしたのだと言う。
「それで……俺はいったいどうなるんだ……?」
それまでずっと黙りこくっていた殿下が蚊の鳴くような声で訊いた。
不安のあまり、何も言えずにいたらしい。
「大丈夫。しばらく自室で安静にしていただく必要はありますが、ちゃんと治療すればすぐに治ります。僕も症状を和らげられるようにつきっきりで診ますから安心してください」
あまりに心細げな様子にほだされたのだろう。ヴィゴーレは殿下の両手をとってふわりと微笑んだ。
思わぬ行動に殿下の顔は真っ赤になっている。
さっきの臭いをかいだり掌を舐めたりと言った行動も含め、ヴィゴーレは人との距離感が若干おかしいようだ。
「良かった、治療のめどは立ったようですね。殿下は安心して身体を治すことに専念してください。フレベリャノ母子のことは完全に元気になってから考えましょう」
俺はヴィゴーレを軽く引きよせながら、殿下と目を合わせてできるだけ柔らかく言った。そのまま部屋の隅にヴィゴーレを連れて行く。
「お前な、距離感がおかしいぞ。いきなり臭いを嗅いだり掌を舐めたり」
「え、それは身体の状態を調べるためで」
「もちろん純粋に診察のためで、悪気や下心がなかったのはわかる。ただ、一言断ってからにしろ。理由がわからなければあらぬ誤解を招くぞ」
「誤解って?」
どうやら本気でわかっていないらしい。きょとんとしているヴィゴーレに思わずため息をつく。
「色仕掛けで殿下に取り入って寵愛を受けるつもりはないんだろう? それとも夜のお相手でもするつもりか?」
「い……色仕掛け……っ!?」
あまりにあけすけな言い方は好まないが、鈍いこいつにはこのくらい言わなければ通じないだろう。
ヴィゴーレはよほど驚いたのか、ただでさえ大きな目を丸くしてぶんぶんと勢いよく首を振った。耳まで真っ赤になっている。
「まさか側近って、そういうお務めもしなきゃいけないの……? そういえばみんなやたらと綺麗な顔してるよね……」
涙目で恐る恐る訊いてくるので思わず吹き出しそうになってしまった。幼少時からずっと騎士一筋で生きてきたせいか、軍の外に関してはよほどの世間知らずらしい。
「そんな訳あるか。単なる政務の補佐だけでなく、友人として精神面でも支えになることは求められているが、そういった『お世話』は別に教育係がつくから心配しなくて良い」
「良かった。小隊長がそういう事は好きな人以外とはしちゃいけないっておっしゃってたから。やれと言われたらどうしようかと思った」
心底ほっとしたように息をつくヴィゴーレ。
その小隊長の指示も随分とずれているような気がするのだが、軍というのはそういうものなのだろうか?
「ごめんね、全然気付かなかった。教えてくれてありがとう」
はにかんだように詫びる姿に再度吹き出しそうになった。
「お前、色々とすごい事ができる割には、変なところが抜けてるんだな」
「う……ちっちゃい頃から修行三昧だったからね。色々とずれてるのはわかってるんだ。自分でも馬鹿だなって嫌になっちゃう」
しょんぼりと言う姿はなんとも頼りなげだ。
「もしまた何かとんでもないことしでかしたら、今回みたいに教えてくれる? その……君が嫌でなければ、だけど」
上目遣いにおずおずと訊かれたので、俺は笑って頷いた。
「ああ、気が付いた時はフォローしてやるから安心しろ」
「ほんとっ!? ありがとう」
ぱっと目を輝かせて嬉しそうに笑う顔はやはり年齢よりもやや幼くて、大真面目に任務や医療の話をしている時の大人びた表情とは別人のようだ。
どちらも彼のありのままの姿のはずなのに。
「おい、内緒話はそろそろいいか? 王宮や宮廷医師団と連携して治療計画を立てねばならんから早く来い」
「はい、今行きます。 ……それじゃ、約束だよ?」
それとなく俺たちの会話を聞きながら頃合いを見計らっていたのだろう。
殿下と何か話していたパラクセノス師がやたらと良いタイミングでヴィゴーレを呼んだので、彼は踵を返しかけ……一瞬だけくるりと振り返ると悪戯っぽく笑って言った。
(あいつ、こんな表情もするんだな)
少なくとも無理に作った笑顔よりはずっと良い。怯えと諦めの入り混じった哀し気な笑顔よりは。
次に会う時はどんな表情が見られるのだろうか?
ふとそんな事が気になりながら、俺も殿下たちのもとへと向かった。
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