被害者ではあるが、加害者でもあり

 一通りの検査を終えて様々な数値を書きつけた紙を手にしたパラクセノス師は、意図して表情を消したとわかる事務的な顔で「お待たせしました」と平坦な声で言った。


「まず、こちらのピアスですが。サファイアに似せた石の方はどうやら着用者から分泌される不安の臭いが一定量を超えると動作を始め、より不安と恐怖を増幅するようです。そしてもう一方のアクアマリンに似せた石。こちらは睡眠時に一定量以上の不安の臭いを検出すると音声を出力する仕掛けになっている」


 俺たちは一息に言われた情報量があまりに多くて、何を意味するのか一瞬わからずに戸惑った。


「音声?」


「再生してみましょうか」


『貴方こそはこの栄輝たるシュチパリアを治める至高の存在。高貴なるエルダの後継者なのです。恐れることはありません。ダルマチア、スルビャ、ヴァルダリス、モエシア……恐るるに足りません。卑しい蛮族どもに栄えあるエルダに連なるシュチパリア王家の威光を示し、ひざまづかせるのです。決してうさんくさい官僚や軍の言いなりになってはいけません……』


 音量こそかすかだが穏やかで強い意志を感じる、大人の女性の声だ。凛とした落ち着いた響きが耳に心地よい。

 延々と呟かれる言葉の内容はひたすらに選民意識を煽りつつ、官僚や軍、有力貴族たちへの不信感を植え付けるような、いやらしく攻撃的なものだ。

 しかし、あまりの声の心地良さに、内容のおぞましさにもかかわらず、つい聞き入って魅入られてしまいそうになる。


「これはリタイの声だ……そう言えば夢の中でこう言っているのを何度も聞いた気がする」


 なるほど。殿下が不安を覚えると、夢うつつにこれが聞こえてくるのか。

 はっきりと意識があって警戒していてもこれだけ耳障りの良い声なのだ。

 眠っている時に無防備で不安定な心に呼びかけられればひとたまりもなく虜になってしまいそうだ。幼い頃から慕っていたひとの声なら尚更だ。


「この音声を出力すると共に、多幸感を与える物質を放出するようになってますね。四時間弱しか効果が続かない薬ですから、夜間の睡眠中に発動すれば朝までには影響は消えているでしょう」


「不安な時ほど選民意識を煽る言葉を聞かされて、それに多幸感を覚える仕組みですか。なんておぞましい。しかも薬品が朝には消えているから発覚しにくい」


 何やら二人だけ納得しているようだが、我々にはいまいちわからない。

 この二人が仲が良さそうなのは、今までの交流だけでなく、こう言った気質が似ているからかも知れない。


「どういうことだ?」


「つまり、クセルクセス殿下が不安を覚えるとそれをエスカレートさせて精神を不安定にさせるのがこっちのサファイアっぽい石だね。その効果で不安を煽られたまま眠ると、こっちのアクアマリンっぽい石が作動するんだ」


「なるほど、二段階の仕掛けになっているのか」


「うん。それで睡眠中に選民意識と優越感を煽るような言葉をずっと聞かせながら薬品で強制的にいい気分にさせるんだね。それがずっと続けば選民意識をあらわにした言動に強い快感と多幸感を覚えるようになる」


「そういえば官僚や軍への不信を植え付けるような事も言っていたな」


 そう言われてみると、殿下が攻撃的な発言をするときはうっとりと自分に酔っているような表情になっておられて、少なからず不気味に感じていたと思い至る。


「殿下、アハシュロス公女やスキエンティア侯子に対してよくダルマチア王室に連なる血筋を嘲弄しておられますが、そんな時はものすごく気持ちが良いのではありませんか?」


「む……それは……」


 殿下はさすがに認めたくなさそうだが、ヴィゴーレの問いをきっぱりと否定するには心当たりが多すぎるのだろう。

 目元を赤らめて口ごもっていることが何よりの肯定となってしまった。


 言われてみれば、殿下が俺や公女の血筋を罵倒する時、実に愉悦に満ちたいやらしい表情をしておられる。それが投げつけられた侮辱とあいまって何とも言えない嫌悪感を生んでいるのだが……


 あの愉悦と快感が仕組まれたものだとしたら。周囲の人々から殿下への信頼を損ない、敵意を植え付けるには実に効果的だっただろう。

 実際、ここ一年の言動で殿下の王太子としての適性に疑問視する声が多数上がっている。

 ダルマチア戦役の後、その声がさらに大きくなったことは言うまでもない。


「薬品の種類から考えて、魔導具の作動中は相当な多幸感と快楽を覚えていたはずです。そして目が覚めるとまた不安を煽るだけ煽られる。その落差が大きければ大きいほど、心地よい夢に心が惹かれるのは致し方ありません」


「ここちよい、ゆめ……」


「そうです。あくまで夢です。しかし、実に都合がよく良い気分にしてくれる。不安と恐怖にまみれた現実よりもそちらを好むのは、人間の本能ともいえるでしょう。そしてその夢こそが正しい世界だと思い込む。この物質は依存性があるから、この状態が続けば続くほど夢に依存してそちらこそがあるべき世界の姿だと強く思い込むようになるでしょう」


 パラクセノス師が淡々と残酷な事実を突きつける。殿下を見やる眼差しには憐れみがこもってはいるが、並んだ言葉には一切の容赦がない。


「……」


「そうして誤った選民意識に凝り固まって、周囲の人々を侮辱して、官僚や軍人も敵視して……殿下が居丈高に振舞えば振舞うほど、周囲の眼は冷ややかになり孤立していきます。これを作った者たちはそれが狙いだったのでしょう」


「嘘だ……ポントスとリタイがそんな……」


 確かにそうとしか思えない、悪意に満ちた魔導具ではあるが……

 生まれてこのかた自分に愛情を注いで見守ってくれていると信じていた人々がこんな事を企んでいたなんて、どれだけ証拠を並べられたところでそう簡単に受け容れられるものではないだろう。

 殿下はよほどショックを受けたらしく、うわごとのように嘘だ嘘だとつぶやいている。


「実際、殿下はその声に従ってアハシュロス公女を侮辱して、ダルマチア王家の血筋を嘲笑ったわけですが……その結果、どうなりました? あなたはただ彼女を侮辱して自分の立場を上に見せかけたかったそうですが、たったそれだけのために何人死にました? 戦死者の遺族は、決して貴方を許しませんよ」


 ヴィゴーレは現実から殿下を逃すまいと、淡々とした口調で彼の言動とその結果をつきつけた。

 その冷ややかな視線に、先月聞いた悲痛な叫びが蘇る。


『何人死んだと思っているんですか!?』


 瞳いっぱいに涙をためて、絞り出すようにして震える唇に乗せた、血を吐くような言葉を、殿下はあの時まともに取り合わず一笑に付した。

 戦死したという師匠は彼にとって敬愛する師であるのみならず、父親代わりの家族のような存在だったのかもしれない。


『決して貴方を許しません』


 これは彼自身にとって偽らざる心なのだろう。

 そして憐れみを帯びてはいるが、やはり透徹した眼差しで殿下を見据えるパラクセノス師にとっても。


 二人とも、あの戦争で大切な人を失ったのかもしれない。

 その悲しみと憤りはそう簡単には消すことができないことくらいは俺にも想像がつく。


「……知らない。俺は悪くない。悪いのは大きな顔をしてのさばる蛮族どもだ……あの薄気味悪い無表情女だ……」


「いつまで駄々をこねているんですか? 何も知らないうちならまだ貴方は洗脳を受けた被害者だと思う事もできます。でも、今はもう事実が明らかになっている。いつまでも居心地の良い夢にしがみついて同じことを繰り返すならあなたはれっきとした加害者だ。これ以上被害を出さずに済ませるためには何をすべきか、いい加減現実を見てください」


 ヴィゴーレの言葉はどこまでも正論だが、それゆえに容赦がなく、傷ついた殿下の心をますます頑なにするだけだろう。


 戦争で大切な人を奪われた彼にとって、事実を受け容れられない殿下は甘えているとしか思えないのかも知れない。

 しかし、殿下にとっては彼らが自分を裏切るなど、想像だにしなかった事なのだ。彼は今、世界が崩れ落ちたかのように感じているに違いない。

 

「少し落ち着け。ずっと家族同然だと思っていた人たちに裏切られて利用されていたんだぞ。そんな恐ろしい現実と、薬が見せる快楽を伴う都合の良い夢。よほど心の強い人でも、夢の方を現実と思い込みたくなっても仕方がないだろう」


「だからって、現実は変わらないよ。死んだ人は生き返らないし、言ってしまった事、やってしまったことはなくならない。無知そのものは罪じゃないけど、免罪符にもならないんだ」


 血を吐くような言葉は自らに言い聞かせるような響きを持っている。

 唇を噛み締めた顔には、彼自身が自らの無知を恥じてそれゆえの過ちを悔やんでも悔やみきれずにいるような、そんな痛々しさが漂っていた。


「そういう現実をつきつけられればつきつけられるほど、都合の良い夢に逃げたくなるものだろう。お前が重いものを抱えて生き延びてきたのだろうということは想像がつくが、少しだけ待ってさしあげて欲しい。殿下が現実を……ご自身の罪を受け容れられるようになるまで」


「俺の罪……」


 しまった、俺まで殿下を追い詰めるような事を言ってしまった。


「殿下、起きてしまった事と向き合うのはもう少し落ち着いてからにしましょう。今わかっているのは殿下に悪意をもって罠をしかけてきた人々がいるということ、殿下がお召しになっていたピアスはその道具であり、彼らの企みの証拠でもあるという事です。この目の前の事実に早急に対処しませんと」


「……俺に悪意のある罠を……リタイとポントスが……」


「もしかすると、騙されたり脅されて無理やり協力させられているのかも知れませんよ。とにかく、今はその方々の悪意の有無より、危険なアイテムをどうするか考えましょう」


 我ながら無理があるとは思いつつ、少しでも殿下が受け容れられそうな解釈を提示する。

 今大切なのは事実の追求ではなく、危険な魔導具から殿下を引き離してこれ以上問題のある言動を取らないようにする事である。

 事実や背後関係の洗い出しなら操作を担当する警邏の仕事だ。


「スキエンティア侯子?」


「とにかく今ははっきり裏付けが取れていないことを決めつけるのはやめた方が良いかと。それより明確になっている危険から遠ざからないと」


「それはその通りだね。間に合ううちに治療を始めないと、王族どころか普通の人としての生活も送れなくなるよ」


 ヴィゴーレがさも当然のように言い放った言葉に殿下も俺たちも凍り付いた。

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