不安と焦燥と謎の魔導具

 ヴィゴーレが帰投したと聞いた翌々日、さっそくまた殿下からの呼び出しがかかった。おそらくフレベリャノ氏の捜査情報を訊くためだろう。


 ほぼ一か月ぶりに会うヴィゴーレは張りつめた印象こそ相変わらずだが、案じていたほどやつれているわけではなかった。ただ、ふたたび髪は短く切り落とされており、顔色もすぐれないので、色々と無茶をしたのは間違いなさそうだ。。


 むしろクセルクセス殿下の方がやつれ気味で覇気がなく、目の下も黒ずんでいて、よく眠れていない様子だ。

 兄同然に慕っていた人の失踪がそれだけ心身に悪影響を及ぼしているのだろうが……特定の人物にここまで傾倒してしまうのは、未来の王太子……ひいては国王としてはいささか気がかりではある。


「ポントスがいなくなってからもう一か月近く経つと言うのに、何の報せもない。お前らはいったい何をしているのだ?」


 苛立たし気に言う言葉も不安と疲労が滲んでいて、咎める気にはなれない。

 なれないのだが……あまりの不安定さに見ている俺たちまで不安になってきそうだ。


「申し訳ありません。今は僕からご報告できることは何もないのです」


 ヴィゴーレも心苦しそうに答えるが……

 ふと何かに気付いたように眉を寄せるとわずかに小首を傾げた。


 そのままつかつかと殿下のもとに歩み寄ったかと思うと、いきなり胸元に顔を寄せてすんすんと体臭を嗅いだ。一同、あまりの事に凍り付いたように身動きが取れない。


「な、何をする。近すぎるぞ」


 殿下の顔は今にも湯気を噴きそうなほど真っ赤に染まっている。ヴィゴーレは全くそれに構わず手を取ると、ピンクの舌を出して掌をぺろりと舐めた。


「……っ……っ!!」


 もはや殿下はまともに言葉も出ない。

 俺も頭の中が真っ白だ。たった今目にした光景を脳が理解するのを拒否している気がする。


 その間もヴィゴーレは殿下の手を握りしめたまま何やら眉間にしわを寄せて考え込んでいたが、ふと何かに納得したかのように顔を上げた。


「殿下、そのピアスはどうされたんですか?」


「な、何のことだ?」


 そのまま全くいつもと変わらぬ調子で全く脈絡のない事を訊いてくる。

 その様子はつい先ほどあんな暴挙に及んだ人間とは思えないほど自然で、さっきの出来事は俺たちの錯覚だったのではないかと思いたくなった。

 しかし、ヴィゴーレは相変わらず殿下の胸元に顔を寄せたまま、手を握りしめたまま。話をするには明らかに距離がおかしいのだが、本人はいたって真面目な顔をしている。


「殿下がお召しになっているピアスです。弱い魔法がかかっていますが、どこで手に入れられたものですか? いつも身につけていらっしゃるのですか?」


「あ、ああ。これはポントスが入学で侍従を辞す時に餞別としてくれたものだ。貰ってからはずっと大切に身につけたままだが何か?」


 殿下もあまりの事に思考停止しているのだろう。矢継ぎ早に訊くヴィゴーレに珍しく素直に答えている。


「なるほど。そちら、調査したいのでお預かりしても?」


「良い訳あるか! これはポントスが俺のために用意してくれたものだぞ」


 何を思ったのか、ヴィゴーレは急にピアスを調べたいと言い出した。

 混乱して怒り出すクセルクス殿下。こいつの事だから何か理由があるんだろうが、あまりに説明不足で何を急に思い立ったのか、さっぱり訳が分からない。


「それではご一緒いただけますか? かけられている魔法について早急に調査しませんと」


「だからなぜ? これに魔法がかかっているなど、聞いたことがないぞ」


「ヴィゴーレ、急にどうしたんだ? そのピアスに不審な点でも?」


 このまま彼に任せていては埒があきそうにない。

 仕方がないのでヴィゴーレを引き寄せて殿下から離すと、詳しく事情を訊くことにした。


「うん。殿下が異常に不安と緊張の臭いをさせておられるからおかしいなって。普通、前線で敵に完全包囲でもされてなければここまでは臭わないよ」


「臭い?」


「そう。生き物って感情や健康状態によって臭いが変わるんだ。汗の味もね」


「汗の味……もしかして、それでさっき掌を舐めたのか?」


 いきなり何をやり出すのかと思ったが、真顔のままだったから本人は診察しているつもりだったのかもしれない。


「うん。亡くなった師匠ならそこまでしなくてもわかったんだろうけど、僕はまだ未熟で、汗を舐めたり直接手を握って身体感覚の一部を共有しないと相手の体内の状態を完全には把握できないから。掌と足の裏の汗は不安や緊張の影響を一番受けやすいんだ」


 何だかとんでもないことを言われた気がするんだが……

 他人と身体感覚を共有して体内の状態を把握する? こともなげに言っているが、そんな事が可能なのか?

 なるほど、王室が逃したがらない訳だ。


 ただし、何の説明もなく唐突に他人の体臭を嗅いだり汗を舐めたりするのは色々と誤解を招くのでやめてほしい。いきなり足の裏を舐めなかっただけまだマシなのかも知れないが……。


「それで、殿下の汗から尋常じゃない不安と恐怖の味がしたから、何が原因だろうと思って。よく見てみたらさっきからそのピアスで微弱な魔力が反応していて、そのたびに殿下から不安と恐怖の臭いが強くなってたんだ」


「なるほど、それでピアスを調べたいと言い出したんだな」


「うん。魔導師団に魔道具作りの天才って呼ばれてる人がいて。その方に見ていただけば色々わかると思うんだ。意図的に殿下を不安にさせるような魔法がかかってるはずだよ」


 事実だとすれば恐ろしい話だ。

 何者かが次期王太子である殿下が不安を覚えるたびに、その不安と恐怖を増幅させて精神を不安定化させていた。

 殿下の感情的で身勝手な言動も、そちらの影響があるかもしれない。


「その魔道具が稼働すると、具体的にはどうなるんだ? 殿下が不安や恐怖にかられるだけか?」


「ううん、他の人の不安や緊張、恐怖の臭いは無意識のうちにそれを嗅いだ人の心も不安定にするんだ。殿下が度を超した不安や恐怖を感じていたら、周囲の人も異常にイライラしたり不安に陥りやすくなるはずだよ」


 そう言えば、殿下が苛立ちを露わにしている時は俺もアルティストもやけに感情的になりやすかった気がする。それで何度もぶつかってしまっていた。


「装着者だけでなく、周囲の人間も不安になりやすい人はより不安に、怒りやすい人はより怒りやすくなる?」


「その通り。だから起きなくても良い事故や争いごとが起きて少しずつ周囲との協調がとりにくくなるんじゃないかな。すぐに何かが大きく変わる訳じゃないけど、上に立つ人が常にそういう状態だと、組織の生産性と安定性は大きく損なわれるよね?」


「それは恐ろしいな」


「それだけじゃないよ。長期にわたって極度の不安と恐怖に晒され続けた人の脳は組織が委縮してしまうんだ。そこまで行くと知能や判断力が低下して、しまいにはまともに働けなくなってしまう」


「なんてことだ……」


 確かに地味な効果だし、かけられている魔法も微弱なものらしいが実はかなり恐ろしいものではないのか。

 ゆっくりと時間をかけて、装着者やその周囲の人々の評価や評判をじわじわと下げて行く。王族やその側近たちがそんな状態に陥れば、当然民心は乱れて内乱が起きかねない。


 いっそ急な変化なら何者かによる攻撃かと警戒するだろうが、長い時間をかけてじわじわと侵食するならば気づく者も少ないだろう。強い魔法がかかっていればどのような魔道具かを誰かが調べるかも知れない。

 今回ヴィゴーレが気付かなかったらどうなっていたことか。一刻も早く道具を調べてどのような影響があるのか、誰が作ったものなのか調べなければ危険だ。


「殿下、そのピアスはフレヴェリャノ氏が誰かに騙されて殿下に贈ったものかもしれません。それに、調べることで彼の行方を知る手掛かりがつかめる可能性もあります。早く魔導師団で専門家に調査していただきましょう」


「そ、そうです。もしかすると他にも怖い魔法がかかっているかもしれません。早く調べてもらいましょう」


 釈然としない表情の殿下に俺がとりなすように言うと、アッファーリも慌てたように同調した。

 殿下にとってみれば赤子の頃から家族同然に暮らしていた人々が自分を裏切って洗脳していたと言われたようなものだ。にわかには信じ難い気持ちもわかるし、だからこそ見え透いた気休めを口にした。


 殿下は助けを求めるようにアルティストを見やるが、彼はヴィゴーレが語った内容が恐ろしかったようで蒼ざめているだけで何も言わない。


「調べてみて何もなければ逆に安心して身につけられますし……アルティストも早く調べた方が良いと思うだろう?」


 黙ったままの彼を再度促すように問いかけると、さしものアルティストも意を決したようにうなずいた。


「それじゃ、すぐに専門家に見ていただきましょう。みなさんこっちへ」


 ヴィゴーレはなぜか王城外宮の魔導師団本部ではなく、俺たちを連れて学園内のとある一室にむかっている。いったいそんなところに「専門家」がいるのだろうか?

 俺たちは首をひねりながらも、早足で彼の後を追うより他はなかった。

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