春を呼ぶ竜
「ふぅ、今日も冷えるね」
深夜の巡回中、思わずぼやいてしまった。
三月のイリュリアは寒暖の差が激しく天気も崩れがちで、
今日は市街地の中心を東に外れ、畑や草地の中にゴミや下水などの処理場などの施設が点在するあたりの担当だ。
街灯もなく自分たちの持つランタンの灯りだけが頼りの状態はいつにも増して心細く、夜明け前の冷え込んだ空気が余計に身に沁みる気がする。
「花冷えだな。風邪をひかないうちにさっさと帰投してすぐに着替えた方が良さそうだ」
珍しくエサドが弱音を吐いた。
二人とも
きちんと防水処理された
「うん。きっとドレインたちがコーヒー淹れて待ってくれてるよね。風も強くなってきたから心配してるかも」
北東から吹く風も次第に強くなってきていて、ますます体感温度が下がってきたようだ。
今日は街の西側の担当でなくて本当に良かった。海岸沿いの崖を巡回している時にこんな強風に見舞われたら、風に煽られて大変なことになるかもしれない。
「ああ。さすがに街のこちら側ではそうそう事件も起きないだろう。早く帰ってあいつらを安心させてやらないと」
二人でぼやきながらも巡回はしっかり続け、街の外れのし尿処理場にさしかかった。汚水の最終処理場でもある遊水池ではみっしりと生えたクレソンとミントが白い小花を無数につけていて、夜の闇の中でもほのかに浮き上がって見える。
「やっぱりどうしても臭うね」
「ああ、その代わり少し温かいがな」
堆肥の発酵熱であたりの空気が少し温められ、処理場の周辺だけ寒さが和らいでいる。
おかげで周囲の道端や草地にはクロッカスや待雪草といった早春の花だけでなく、
代わりにすさまじい臭いが辺りに漂っているので、ゆっくり花を愛でるには向かない場所ではあるのだが。
「プランタジネットの田舎では堆肥を地中に埋めて発酵させて、その熱で温室を温めてるところもあるんだって。埋めちゃうと少しは臭いもマシなのかな?」
「どうしてここではそうしないんだ?」
「処理しなければならない量が全然違うからね。発酵にかけられる時間も違うし、充分に空気に触れさせて早めに完熟させないと」
「つまり田舎でなければ出来ない方法だと」
「うん。プランタジネットでも首都ルンデンヴィックは人口も密集してるから屎尿の量も莫大で、処理場を作る場所もないからそのまま川に流してるみたい」
実は大陸西部のオクシデント地方ではし尿を堆肥として処理している都市はあまり多くない。大抵は下水でそのまま河川や海に流してしまっているのだが、お陰で大都市を流れる川はどこも汚染されて酷い悪臭を放っている。
最近ではそれが感染症の流行の原因になっているのではないかという問題提起がなされるようになって、各国の政府を悩ませているらしい。
「それ、大丈夫なのか?」
「川が汚染されてコレラや赤痢が
「……シュチパリアが小国で良かったな」
「うん。ちなみにイリュリアで屎尿を堆肥として利用する習慣が根付いているのは砂漠王国オスロエネの支配が長かったからだよ。おかげで市内は比較的清潔に保たれているんだ。それでも五十年くらい前に地下下水道を作った時はイリュリアでも汚泥を川に垂れ流したせいで、やっぱり感染症が蔓延して大変なことになっちゃったんだけど」
「それでこんな大規模な処理場を作る事になったのか。もし人口が急増してまた処理許容量を超えたらえらいことになりそうだな」
今では街の区画ごとに沈殿槽を設けて汚泥を取り除くようにして、最終的に処理場でろ過した汚水を周辺の湿地帯に設けた遊水地に流している。
遊水地では水質浄化作用があるとされているクレソンとミントを栽培しており、収穫したものは薬の材料として使われる。
もちろん除去した汚泥もそのまま埋め立てる事はなく、発酵させてから公衆浴場の燃料として焼却し、灰を肥料として加工して農家に安価に販売しているのだ。
「うん。もし人口が一気に増えたらイリュリアでも処理しきれなくなりそうだから今から対策を考えとかないとね」
今後も処理能力を超えた下水のせいで病気が蔓延して苦しむ人が出ないように、人口増加に備えた処理場の拡充のみならず、汚水の能率の良い処理方法の開発を急がねばなするまい。
そんなとりとめもない話をしながら遊水地を一通りまわった時のことだ。
「あれ?何だろう?」
「どうした? ……何だあれは?」
繁茂したクレソンの茂みの中に何か大きなものがうずくまっているのを見つけた。暗くてよくわからないが、かなりの大きさだ。
二人でそっと近づくと、その何かは急に立ち上がった。
グァアアアアアアッ!!
獣の
大きい。ゆうに三メートルはあるんじゃないだろうか。
ランタンのわずかな灯りを反射して鈍く光る、金属のような光沢のあるウロコ。背に腹はコウモリのような一対の翼があり、目はギラギラと黄金色に光っている。
「何あれ?熊……にしても大きすぎない?」
「それに体型が全然違う。羽まで生えているとは、いったいどういう事だ?」
とっさにランタンを道端に置き、二人で武器を構えて警戒するが、その黒っぽいモノは意に介さずこちらに突進してきた。巨体に似合わず実に素早い。
すぐに飛びのきながら
「何これ、硬い……っ!!」
がきりと鈍い音がして
そのまま振り回して振り切るように弾き飛ばすと、そいつは今度はエサドに飛び掛かった。
「ぐっ!! なんて硬さだ!?」
がッと重いものがぶつかり合うような鈍い音が響くと、ソレの爪を剣で受け止めたエサドが相手の腹を蹴飛ばして距離を取る。
間近に見たソレは蜥蜴のような爬虫類独特の瞳や鱗を持つものの、体型も大きさもまるで違う。むしろそれはまるで伝説に出て来る……
「まさか……ドラゴン……!?」
「にわかには信じがたいが……」
そう。ドラゴンそのものだ。
そう言えば年に一度、春分の頃に姿を現すドラゴンがいて、その年に最初に出くわした者を食い殺すという伝説があったような。そうして生贄を喰らい尽くすと凄まじい南風に変化して春を連れて来るのだ。
その竜は黒光りする鱗に黄金の瞳、太い四肢に小さなコウモリのような翼……
そう。ちょうど今僕たちの眼前にいるこの生物のような姿をしているという。
「やだ……本当に
訳の分からない存在を前にして、ついひるみそうになる。
伝説の通りならば生贄を喰らい尽くすか
こいつが僕たちを春を招くための生贄にするつもりなら、おとなしく喰われた方が市民のためになるのだろうか。
「まだ
冷静なエサドに諭され乱れかけた呼吸が元に戻った。
異様に硬い鱗に弾かれなかなか攻撃が通じそうにないが、何か工夫してダメージを与える方法を考え出さなければ。
「ヴォーレ! ぼうっとするな!!」
エサドの
飛びのきざまに
もう
そう考えて、軽く息を吐きながら斧部分の重さと柄の長さを活かして遠心力で振り回した。
「……っ」
狙い過たず愛用の槍斧は尻尾を振りぬいて若干バランスを崩した
奴が態勢を立て直す前に手元に引き戻した槍斧でさらに頭を横殴りにすると、さすがに脳震盪でも起こしたのか
ギャァアアアアッ!!
その分、
伝説通りならばここで毒を大量に含む涎をふきつけてくるところだが、その隙を与えず
そのまま大きく開いた口に左手で抜き払った
グアァアアアアッ!!
のたうち苦しむ
「くぅっ。あと少しなのに」
「だいぶ弱っているようだ。何とかして口の中に再度斬りつけられれば……」
二人で竜をけん制しながら奴が体力を消耗しきるのを待っていると、雨が小降りになってきて、東の方の空がやや明るくなってきた気がする。
「もう夜明けか……随分長くかかってしまったな」
「急がなくちゃ……農家の人が仕事に出る間に片を付けないと巻き込んじゃう」
コッケコッコ~~~~ッ!!!
「に、ニワトリ!?」
鋭く響く雄鶏の声がしたかと思うと、鮮やかな赤や金、黒の色彩のふわふわした塊が飛んできて暴れる
そのままギラギラと光る黄金色の目を鋭い嘴でつつくと、
そうこうするうちに次第に
時間にするとほんの数分の出来事だったと思う。東の空がすっかり明るくなり、夜の闇が薄れた頃には
コッケコッコ~~~~ッ!!!
誇らしげに響く雄鶏の声。
すると不思議な事に
「うわ、すごい風!!」
「それにしても温かい風だな。伝説の通りだ」
そう言えば、伝説では
吹き荒れる風に雨雲も吹き飛ばされてしまったのか、いつの間にか空は綺麗に晴れ渡っていた。
「お前、まさか
とりあえず武器を収めて誇らしげに胸を張っている雄鶏に問いかけると、元気に「コケーッ!!」と鳴いたが、これはいったいどう解釈すれば良いのやら。
そのままバサバサッとこちらに飛んでくるので慌てて抱きとめると、上機嫌ですりすりと擦り寄って来た。
「うわ、ふわふわであったかい」
思わずサラサラした手触りの羽毛をそっと撫でると、雄鶏は気持ちよさそうに「ククク……クルルルル」と喉を鳴らした。
「うわ、可愛い。鶏って飛べないんじゃなくて、飛ぼうとしないだけなんだね」
「今の一部始終から出て来る感想がそれか?」
「いやなんかあまりに現実離れしてて、何を言ったらいいのやら」
ランタンを拾いあげたエサドと共に何とも締まらない会話をしながら連隊本部への帰路につく。ふわっふわの鶏をしっかり抱きしめたまま。
いや、すぐ放さなきゃと思っていたんだけど、なんだか上機嫌で大人しくしてるものだから、つい下ろすのが可哀そうになってそのまま抱っこしたまま忘れてて……
気がつくともう連隊本部に帰り付いていただけなんだけど。
「証拠も何も消えてしまったし、こいつに証言してもらうか?」
「……この子、人語しゃべれるかな?」
「コケーッ!!」
結局、雄鶏は上官に向かって熱心に「コッコッコッ、コケーッ!!」と話しかけていたが全く意味が通じるはずもなく。
小隊長は、エサドと僕の説明に首を捻りながらも「今朝は春一番が吹いたから
大人しく小隊長の命に従って宿舎に戻った僕たちの後をついてきた雄鶏は、結局どこかに帰ることなくそのまま連隊本部に居ついてしまった。
彼はのちにのちに「
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