テルマエ・イリュリア(コニー視点)其の四

 いささか食べ過ぎたので、食後は腹ごなしをかねてしばらく中庭アトリウムを散策することにした。


「うわぁ、綺麗だね。この赤や黄色の花はハイビスカス。薬草茶にもなるんだよ。風邪の予防や疲労回復のために使われるんだ。甘酸っぱくて美味しいよ」


「さすがだな。他にも薬になるものがあるのか?」


「あそこの緑色の花が咲いてる樹、シナモンだよ。樹皮がスパイスや風邪薬の材料になるんだ」


 のんびり歩きながら薬草にも詳しいヴォーレがそこここに咲き乱れる花について教えてくれた。

 どうやらここで栽培している植物は薬草か果樹が多いようだ。この中庭アトリウムは訪れる保養客を楽しませるだけでなく、有益な植物を育てて様々な研究にも用いられているらしい。


「あそこに生ってるのはマンゴーだって。天涯山脈の向こう側の、ずっと南東の国の食べ物だよ」


「そんなに遠い国の植物まで育てているのか」


「すごいよね。処理場で充分に発酵した堆肥をここの炉で燃料にして、残った灰を肥料にするんだって。炉で沸かしたお湯で建物全体の温度を管理しているから、この中庭アトリウムも一年中温かく保つことができて南方の植物も元気に育つんだそうだよ」


「堆肥……」


 確かに優れた技術だとは思うが、何だか聞き捨てならない単語が聞こえたのは気のせいだろうか?


「うん、市内の下水を処理場でろ過や沈殿して汚物を分離して、それを発酵させるんだ。充分に発酵させたあと、ここで燃やすと寄生虫などの病気のもとが死滅するからね。農産物からの感染症を大幅に減らせるんだよ」


 なるほど、燃料の確保と感染症予防の一石二鳥の策なのか。素晴らしい事ではあるが、聞かなければ良かった気もしなくもない。


「しかし、この街で水洗化されているトイレは貴族や富裕層の屋敷と市街地にいくつか設置されてる公衆トイレくらいだろう?街外れの汲み取り式しかない家はどうなっているんだ?」


「そういうところは定期的に業者が回収に来るんだよ。それで、集めた屎尿しにょうをまとめて処理場で発酵させるの。昔は民間でやってたから回収してないところがあったり発酵が不十分だったりして、サナダムシや赤痢が蔓延する原因になってたんだって。だから今は行政で管理してるんだよ」


 官営化することで回収漏れや作業の手抜きによる事故を防いでいるらしい。


「しかし平民は費用の負担が重すぎるんじゃないのか?」


「それは大丈夫。貴族や富裕層からは下水の利用料を取るけど、平民の使う公衆トイレと汲み取りの分はここの施設の利用料やレストランの売り上げから捻出してるから。入湯料だけだと安いけど、貴賓室や劇場で贅沢するとけっこうかかるでしょ? ホテルもあるし、会議室もいつもいっぱいだし」


 この公衆浴場テルマエには時間貸しの会議室や、豪華な個室が用意されている。特に貴賓室は人気があって、そこでゆったりくつろぎながら飲食やゲームを楽しむのが貴族や富裕層のステータスともなっている。

 また、別荘を持たない海外からの観光客向けの宿泊施設も併設されており、海に沈む夕陽を見ながらくつろげると人気を博している。

 それらから得られる利益は決して馬鹿にはならない額なのだろう。


 それを街の公衆衛生に充てる。

 そして衛生状態の守られた街だからこそ、安心して海外から金持ちが多数訪れてたくさんの金を地元に落としていくという仕組みだ。

 この街は金もモノも循環しているらしい。


「昔は薪を燃やしてたらしいけど、木をどんどん切ると土の保水力が落ちて地滑りなどの原因にもなるし、感染症の予防にもなるから堆肥を燃料に使うようになったんだって。残った灰を肥料として売れば経費の一部をまかなえるし、農家の人は安定して高品質の肥料を安く手に入れられるからお互いに得になるよね」


 随分とよく考えられたシステムのようだ。そう言えば、昔は赤痢やサナダムシが蔓延して大変だったと聞くが、少なくとも俺が物心ついてからはそんな大規模な感染症の流行は起きていない。


「他の国では公衆浴場テルマエで感染症が蔓延するからと廃止されたところが多いらしいが……イリュリアではこうして管理しているから清潔を保てているのか」


「う~ん。今話したのは、どちらかと言えばイリュリア市民の公衆衛生の問題かな?お客様はあちこちの国からいらっしゃるからね」


「そうか。いくらイリュリア市内で衛生管理していても、訪れる観光客の本国が必ずしも清潔とは限らないな」


「うん。公衆浴場テルマエ内の衛生管理については、こまめな清掃と消毒が大事だね。廃止された国ではほとんどが一日中営業していたんだ。そうなるとお湯は入れっぱなしでたいして掃除できないし、湿度も高いまま換気しないから病原体が増え放題」


「なるほど、高温多湿のまま換気をしないとカビが生えたりものが腐りやすくなるものだからな」


 当然、病気にもなりやすい環境になってしまう。一日中入れるのは便利かと思ったが、実はデメリットが大きいようだ。


「イリュリアみたいにオスロエネ文化の影響が強いところは日の出から日没までしか営業してないでしょ。だから営業終了後に水をしっかり抜いて浴槽や浴室、パイプを清掃してから一晩乾燥させるんだ。この時点でかなり病原体は死滅する。更に始業前にももう一度清掃して消毒するから清潔が保てている。営業中もこまめに器具は消毒してるよ」


「それは随分と管理の行き届いたことだ。それにしても、思っていたよりオスロエネの影響は大きいんだな」


「うん。良くも悪くも長い間支配されてきたからね。ちなみに、あちらでは炉の余熱でパンも焼くらしいよ。逆に消毒薬は西のプランタジネットで発明されたものを使ってる。医療器具を消毒するようにしてから院内感染が劇的に減ったんだって」


 それは寡聞かぶんにして知らなかった。「ところ変われば品変わる」とはよく言ったもので、国によってさまざまな文化や技術があるらしい。

 我が国が規模の割に豊かなのは、東西の様々な文化に接して良いところを積極的に取り入れることで発展してきたからなのだろう。


「オスロエネで夜の営業をしなくなったのは、もともとは衛生的なものより風紀の問題だったみたいだけどね。夜は悪霊が現れるからって言ってるけど、実際には深夜に一人で来たお客さんが事件に巻き込まれることが多かったからなんだって」


「なるほど。さっきのように絡んでくる奴がいると危険だしな」


「そうそう。コニーうかうかしてると連れて行かれちゃうよ」


 くすくすと笑いながら言われて「それはお前の方だろう」と言いかけたが、こいつの技量ならお持ち帰りされる前に返り討ちにする気がする。それはそれで色々と問題にはなりそうだが。


 そんな事をつらつらと考えながら歩いていると、とある果樹に目を留めたヴォーレが歓声をあげた。


「あ、バナナ生ってる! あれ美味しくて栄養価高いんだよね。さっき出て来なかったけど食べたいな」


「まだ食べる気か?確かここで採れたものは売店で買って持ち帰れるはずだから土産にしてはどうだ?」


「いいね、それ。エサドやドレインたちにも買って帰ろう」


 まったく、あれだけ食べたものは一体どこに入っているのだろう?

 もともとよく食べる奴だったが、一度死んでからますます大量に食べるようになった気がする。まさか、食べた量の半分くらいどこかのゾンビの栄養源になっているのではなかろうか?


 少々怖い事を考えてしまい、慌てて頭をふって恐ろしい想像を追いやった。

 今日はおかしなことを考えずに楽しむことにしよう。


 ちょうど中庭アトリウムをほぼ一周すると、貴賓室棟の入り口についた。

 こちらの建物には一階に広々とした休憩室と美術館、二階に図書館が設けられており、女性棟の中庭アトリウムからも入ることができるので待ち合わせに利用する人も多い。


 二階と三階は個室利用できる貴賓室、更に上層階には宿泊施設が整っている。

 港近くの斜面に建っているこの建物からは西側の海を遮るものなく見渡すことができるので、海外から訪れる観光客はもちろん、地元の貴族や富裕層からも人気のスポットだ。

 特に晴れた日の夕焼けは空も海も白亜の街も、全てが鮮やかなコーラルピンクに染まり、思わず息をのむほどの美しさだ。

 その一日わずか数分の光景を見るためだけにこのイリュリアを訪れる観光客も少なくない。


「どうする?図書館か美術館に寄っていくか?」


「そうだな、解剖学の本で新しいのが入ってないか見たいから図書館行きたい」


 貴賓室棟は精緻な彫刻が施された柱と柱の間の漆喰で塗られた真っ白な壁に、いくつもの芝居などのポスターが貼られている。


「ね、来月テュレリアからオペラが来るって。これ観てみたいな」


 色鮮やかな絵が描かれたポスターは見ているだけで楽しくなる。

 海外の劇団やオーケストラが出演することも珍しくなく、興味のあるものを全て観ていたら毎日劇場に通い詰める羽目になりそうだ。


「よし、来月もまた来るか」


「ほんと!? よし、頑張ってお休みいただかなくちゃ」


 瞳を輝かせて喜んでいる友人の姿に来月も必ず来ようと決意する。父に頼んで桟敷席でもおさえてもらおうか? それともボックス席の方がゆっくり楽しめるか?


 図書館は広々とした空間で、書棚には光を当てすぎて本を傷めないように配慮しながらも窓際に広い閲覧スペースを設けていて開放的な雰囲気になっている。

 蔵書はどちらかといえば一般向けの解説書や芸術関連のものが多く、やはりヴォーレや俺が読むような専門書は外宮の国立図書館の方が揃っているようだ。


「う~ん、残念。何か小説でも借りて行こうかな?」


「俺も。職場の女性職員たちの話題に全くついていけんからな」


「意外だなぁ。コニーもそういうの気にするんだ?」


「雑務を手伝って頂けなくなると大変だからな。一応、気は使うぞ」


 書類の作成や整理などは法務官、法務補佐官で行わねばならないが、清掃や来客の対応などの細々とした雑務は女性の事務員が行っている。

 彼女たちの機嫌を損ねると届いた郵便物を紛失されたり、自分のデスク周りだけ掃除の手を抜かれたりして厄介なのだ。


「うちは男所帯だからそういうのはないなぁ」


 二人で適当に小説を借りて図書室を後にしたところ、前方からどこかで見たような三人が現れて思わず目をそらしたくなった。


「お、ヴォーレもうあがったのか?これから飯でもどうだ?」


「いえ、今ちょうどいただいたところで」


 コットス少尉だったか。がっしりとした体躯に士官服をまとった姿はなかなかに貫禄がある。


「まあ、そう言わず。果物くらいは入るだろう?」


 親し気にヴォーレと肩を組みながら「すまん、助けてくれ。ラハムはヴァリャーギ語ができんので使い物にならん」と小声で囁いている。

 先ほどは無理強いしようとする大尉をなだめてくれていたし、どうにもならなくなって助けを求めてきたのだろう。


 ヴォーレは困ったようにしばし眉を下げて考え込んでいたが、やがて思い切ったように「それではご馳走になります」と答えた。


「ごめんねコニー。またゆっくり来ようね」


「ああ、来月は劇場の席をおさえておく」


 残念だが、仕事となっては致し方ない。

 武官外交は国防上とても重要で、立ち回り方一つで諜報に関わるような情報も得られれば、ちょっとした行き違いによる紛争一歩手前のトラブルも穏便に解決できたりもする。当然、その逆もあり得る訳で。

 まだ軍に慣れていないうえに言葉すらおぼつかないラハムでは全く役に立たんのだろう。


 申し訳なさそうにしょげているヴォーレの頭を励ますようにあえて乱暴にわしわしと撫でると「行ってこい」と背中を押した。


「ね、次のお休みは国立図書館行こう」


 先に歩き出した少尉たちを追おうとしたヴォーレがくるりと振り返り、笑顔を見せる。


「ああ、帰りに何か美味いものでも食べよう」


 ぱっと表情を輝かせて元気を取り戻してひょこひょこと跳ねながら去っていく三つ編みを眺めると、俺も家に使いを出すために受付に向かうのだった。


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※地図を見直したら生えてきた公共浴場を紹介しようとしたら思いのほか長くなってしまいました。

いつまでもお家に帰れそうにないので、今回はこの辺りで。


回りきれなかったところはディディ&エリィに回ってもらいます(;´д`)

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