はじまりとおわり

 ズキン、ズキンと波打つように襲ってくる痛みに額を押さえる。

 自分が保健室のベッドの上にいるということは、目を覚ましてすぐにわかった。頭が重い。身体中痛い。だけど、階段から落ちたのに目立った外傷はなかった。


 ケガがなくて幸いだけど、汐里は……。隣のベッドを確かめようと、カーテンを少し開く。

 けれど隣のベッドは空っぽで、綺麗に整えられた真っ新なシーツには誰かが横になっていた気配すらなかった。


 まさか私だけ無傷で、汐里は病院に……。血の気が引いて、頭がクラクラする。

 一旦心を落ち着けようと、額を押さえてベッドに身体を倒したとき、保健室のドアがガラガラと乱暴に開いた。


「失礼しまーす。あれ、先生いねーじゃん」


 聞き覚えのあるセリフに、ドキッとする。カーテンの隙間から見えたのは中尾くんで。その姿に、思わず呼吸が止まりそうになった。


 体操着姿で保健室に入ってきた中尾くんは、私が手当てをしてあげたはずの左腕を押さえてきょろきょろとしていた。

 保健室の先生を探して困っている彼は、私が汐里と階段を落ちる前──、よりももっと前に見た彼と全く同じ行動をしている。


 どういう、こと……? 


 ベッドの上で茫然としていると、中尾くんがガサゴソと勝手に保健室の棚を漁り始めた。


「適当に消毒とー、あと絆創膏貼っときゃいっか」


 左腕から水滴こそ垂れていないけれど、中尾くんの独り言にも棚を漁る背中にも既視感がある。彼の背中を見つめていると、「わっ!」と悲鳴が聞こえてきて、棚から保健室の備品がガラガラーッと一斉に落ちてきた。


「うわ、最悪……」


 床にしゃがみ込んだ中尾くんが、頭を掻いて顔を顰める。

 消毒液や絆創膏の箱、包帯、脱脂綿など……、周囲に散らばった備品を掻き集めて救急箱の中に乱雑にぶち込む中尾くんの姿は、もう既視感なんてものではなかった。

 私は、これと全く同じ光景を何時間か前に目にしている。これは、私が中尾くんとキスする前に見た光景だ。


 ズキン、ズキンと波打つような痛みが頭を襲う。もしそうだとしたら、もうすぐ汐里が保健室にやってくる。

 ひとりで散らばった備品を片付けた中尾くんが棚の引き戸を閉めたとき、保健室のドアが静かに開いた。


「あれ、尚平がいる」


 カーテンの隙間から覗き見えた汐里が、中尾くんに嬉しそうな笑顔を向ける。そこにいる汐里は階段から落ちた様子なんて全くなかったし、傷付いた顔もしていない。普段どおりの、いつもの汐里だった。


「汐里こそ、何してんの?」

美弥ミヤが保健室で寝てるからお見舞いに来たの」

「あ、吉崎さん寝てたんだ? 気付かなかった」


 中尾くんが、ベッドのほうを振り返る。焦った私は、カーテンの隙間から目が合わないようにぎゅっと目を閉じた。


「あれ? 尚平ケガしたの?」

「あー、うん。体育でサッカーしてたとき、敵チームとぶつかってコケた」

「え、大丈夫? 傷口、ちゃんと洗ったほうがいいよ」

「あー、うん」


 カーテンの向こうから、何時間か前に私が中尾くんと交わしたような言葉のやりとりが聞こえてくる。


「尚平、水垂れてる。ちゃんと拭いて」

「えー、面倒」

「もう、ちゃんと拭きなって。拭いたら手当てしてあげるから、そこ座って」

「ありがと」


 中尾くんがそう言ったとき、ベッドで眠ったフリをする私の脳裏に、彼の無防備な笑顔が蘇ってきた。


 中尾くんに傷口を洗うように促すのも、だらしなく腕から水滴を垂らす彼に注意するのも、ケガの手当てをして笑いかけてもらうのも……。何時間か前は、私の役割だった。それとも、あれは夢だったのかな。


 だとしたら、よかった──。私は、汐里や中尾くんを傷付けずに済んだんだ。


 何事もなくてほっとしているはずなのに、どうしてか胸が痛い。


 夢のはずなのに、何時間か前に中尾くんと交わした会話や触れた唇の感触が耳や肌に生々しく残っていて。涙が出そうだった。


 頭が痛い。身体が痛い。だけど、一番胸が痛い。


 ズキン、ズキンと波打つような痛みを堪えて布団の中で身体を丸める。そのとき、スカートの中で何かがカサリと音を立てたような気がした。

 ポケットに手を突っ込むと、紙屑のようなものが入っている。取り出してみると、それは絆創膏を剥がしたあとのゴミだった。


 これって──。ばっと起き上がってカーテンを開くと、汐里にケガの手当てを受けていた中尾くんが驚いたように振り返る。


「あ、吉崎さん」

「美弥、具合どう? 頭痛、大丈夫?」

「起こしてごめん。お大事にね」


 中尾くんが、私を気遣うように他人行儀に笑いかけてくる。彼の眼差しからは、私に対する熱も切なさも全く感じられない。

 でも、私は現実に中尾くんのケガの手当てをして、彼に抱きしめられてキスされた。そのことを、ここにいる中尾くんは知らない。


 階段から落ちて意識を失う間際、あの瞬間ときまで戻ればいいと願ったのは私なのに。中尾くんが熱のこもった目で私を見つめることはもう二度とないのだ。そう思うと、切なさで胸が張り裂けそうだった。


「え、吉崎さん?」

「美弥、大丈夫? 泣くほど頭痛いの?」


 中尾くんと汐里の焦った顔が少しずつぼやけていくのに気付いて、頬に手をあてる。

 泣いているつもりなんてないのに、私の目からは勝手に涙が零れ落ちていた。


 今頃気付いたって遅い。

 どんなに想っても、私に好きだと伝えてくれた《彼》には、もう会えない。


fin.

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あの瞬間の、君に会えない 月ヶ瀬 杏 @ann_tsukigase

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