第2話 天帝の神眼



 箒を片手に男が見たのは池の水ではなく、目もくらむような真下にある下界だった。山が森が平原が広がり、大きな河が蛇行だこうして水面をきらきらと輝かせながら流れている。


「これは驚いた!」


 景色を上から見下ろすということを初めて経験した男はそうつぶやいて、その身を乗り出した。目をよくよく凝らせば豆粒のようではあるが、空には鳥が群れ飛び、平原には疾走する大きな角を持った獣の姿も見えた。


「ありゃあ、なんと見事な大鹿ではないか」


 再びつぶやいた男だったが、森の中から姿を現して大鹿を追いかける生き物を見て、その目を疑った。


「うん? あれはなんだ?」


 自分と同じ姿をした二本足で走る生き物たちが、大鹿を追っている。獣の皮で申し訳ていどに体を覆ってはいたが、皆、裸に近い。そして彼らは手に細長い木の棒らしきものを持っていた。


 思わず男は自分が手にしているほうきに目をやった。形は似ているが、どう考えても、あの生き物たちが下界を掃除しているようには思えない。眺めているうちに、二本足の生き物が立ち止まり、手にしていた細長い木の棒をかまえて投げた。木の棒は大鹿の腹に突き立って、失速した大鹿がばたりと横倒しになる。


 うわっという叫び声とともにほうきを投げだした男は、その場で腰を抜かした。




 男が下界に見たという二本足で走る半裸の生き物のうわさは、やがて天帝の耳にも入った。


「我が父上の御代みよに、天上界を真似た世界を下界に造ったという話は聞いている。その後、森には獣を、平原には虫を、川には魚を、そして空には鳥を放ったとも聞いてはいたが。我らの姿を映した生き物を作ったとは聞いていない。この目で確かめねばならないな」


 そう言って、天帝はおもむろに玉座から降りた。


 その後ろを神妙な面持ちで神々が従った。本来であれば、このようなことは天帝の耳に入る前になんとかしておきたかった。どうせ、酔ったついでの誰かの悪戯いたずらであろう。しかし、もし勝手に下界の生き物を始末してそれが後で天帝の知ることとなれば、その怒りが倍増するであろうことも容易に想像できた。


「このあたりで見たと、下僕げぼくは申しております」

 下界の箱庭を見下ろす穴のそば、投げ出されたほうきがあるあたりに天帝を案内した家臣は言った。

「しかしながら、わたくしどもが後から調べた限りでは、そのようなものの姿は見当たりませんでした。たぶん、下僕げぼくは大きな猿でも見たのでございましょう……」


「黙れ!」


 そう一喝した天帝は下界を見下ろした。

 ゆっくりと、額の真ん中にある神眼しんがんを開く。遠く離れていても、見たいものをすべて見通すことの出来る神眼は、天帝の位を受け継いだものだけが持つことが出来るものだ。二本足で大鹿を追って走るものが出て来たという森を、彼はその神眼で見渡した。


 見落としそうなほど薄く細い煙が、繁る木々の間から立ち昇っていた。天帝は神眼を集中させる。


 森の木を何本か切り開いた場所の真ん中で、焚火は燃え煙は上がっていた。神の姿を真似たものたちが、夕餉ゆうげにと狩った獣の肉を焼いているのか。しかし神眼が見た光景はそのようなのどかなものではなかった。火の中で燃えているのは切り落とされた頭だ。そしてまわりには頭のない半裸の体がいくつも転がっている。

 

 焚火のまわりで勝利の雄叫びを上げる男たちの前に、女たちが集められていた。若い女が抱いていた赤子が奪われて、無慈悲に火の中に投げ込まれる。平和に暮らしていた小さな集落が、他の集落のあぶれた男たちに襲われた。これから男たちは自分たちが新しい所有者であることを、女の体に教える。


 悠久の時の流れの中で薄まったとはいえ、神々の体の中にもそのような行為を欲する血が流れている。この宮城から遠く離れたところに住む蛮族ばんぞくの神々には、まだそのような行為をしようとするものもいる。そのために今でも、天帝は神軍を派遣せざるをえないのだ。


「愚かなこと!」


 天帝が右手を前に差し出すと、その先にぽっと青白い炎が生まれた。小さな炎はしだいに大きくなり、やがて掌の上で稲妻の走る青い球となる。天帝はそれを下界めがけて投げ落とした。惨劇の舞台となっていた森は瞬時に焼け野原となった。


「いったい誰がこのようなことを?」


 振り返った天帝の怒りを含んだ声に、傍らにいた神々は恐れおののきひれ伏した。ただ、一人の男の神がこの場から立ち去ろうとした。昔々にしたたかに酔って丸めた土塊つちくれを下界に投げ入れたことを、彼は思い出したのだ。だが、天帝の神眼を前に逃げ切れるわけがない。


「鏡を見ているような気になるに違いないとは、よく言ったものだ。このものを捕らえて、牢に放り込め」

 そしてゆっくりと額の神眼を閉じると言葉を続けた。

「下界が見えぬように、この穴を埋めてしまえ。そして塀で囲み、以後、何人の出入りも禁じる」




 そしてまた悠久の時が過ぎ去り、再び、天帝の御代みよが変わった。


 高い塀に囲まれたこの場所の真ん中には、ふたで覆った小さな井戸がぽつんと一つあるのみ。その蓋をずらせば、昔々に神々の無聊ぶりょうを慰めるために造られた下界の箱庭を覗き見ることができるという話だ。


 しかしながら、今では、その井戸の蓋が開けられることはめったにない。時おり、罪を犯した神が放り込まれて、天上界より放逐された。自分が神であったことを忘れて、罪が許される日を待ちつつ、彼らは下界をさまよっているらしい。

 そして信じがたいことだが、自ら下界に飛び降りた神もいた。

 

 




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