※ 第一章 ※

泗水

第3話 月明かりの蛾



 来訪を知らせようと荘康記そう・こうきが手をかける前に、かんぬきが外された気配もなく、固く閉じられていた門の戸が動いた。


 てい家の屋敷の敷地は広大だが、寂れていることは夏の夜の月明かりの下でも一目瞭然だ。人の背丈の二倍もあろうかと思われる高い土塀も長年の風雨にさらされてところどころ崩れかけているが、大きな両開きの門もまた黒ずみ板目もささくれだっていた。それが自らの重みに耐えかね、ぎしぎしぎいぎいと耳障りな音を立ててゆっくりと内側へと開いていく。


 重々しく開いた門の正面には、てい家の家令を勤める小柄な男が手燭を掲げた下僕とともに立っていた。


「荘さま、皆さま。華嬢かじょうさまがお待ちかねでございます」


 家令はぼそぼそとつぶやくように言い、突き出した両手の中に頭を沈めてうやうやしく揖礼した。


 この屋敷には夜にしか来たことがないので、康記こうきにはうつむいた男の顔を隠した長く垂れた着物の両袖の色合いまではしかとはわからない。だが、家令のお仕着せにしてはもったいないような上質な絹織り物であることは間違いない。おぼろな月明かりに照らされて、それはあぶらを塗っているかのようにぬめぬめと艶やかに照り輝く。

 そのさまはまるで鱗粉りんぷんをまき散らしながら大きな羽を広げる一匹の蛾のようだ。


 初めてこの屋敷を訪れた時に、康記は家令の名前を聞いたはずだったが思い出すことができない。それでただ「うむ」とだけ唸って返事とした。それもなるべく堂々と聞こえるようにと気を使いながら。


 泣く子もその名を聞けば黙ると恐れられた慶央・荘本家の宗主を彼は父に持ち、母は泗水で交易を手広く営んでいる豪商の娘だった。その母が亡き後すぐに、わけあって慶央の父の元から逃げ出し、泗水しすいのいまは代替わりをしている叔父の家に転がり込んだ。


 だが、居候の身ではあっても豊富に銭を与えられて、毎日、悪友たちとつるんで何不自由なく遊び暮らしている。広くはあるが寂しげな屋敷に住む、素性の定かでない女主人に仕える蛾を思わせる家令の前で、なにもわざわざ見栄を張る必要はない。


 しかしながらそれは、素性の知れぬ女主人・逞華嬢てい・かじょうが妖艶な美女で、彼が彼女にぞっこんでなければの話だ。


 華嬢は康記よりは年上だが、肌の色白く、その表面にはほくろもなければ染みの一つも浮かんでいなかった。それは磨き込んだ象牙のように美しい顔だけではない。しとねの中で体を重ね合う男にしか見えない場所も、蠟燭ろうそくの灯りの下で白々と輝きつるつるとして柔らかい。


 彼女の体で色があるところといえば、豊かな髪と三日月のように細い眉と瞳とそれを囲むまつ毛。どれも漆黒という言葉がふさわしい。そして常に濡れているような唇とたわんで揺れる二つの乳房の先と、康記が彼女の体の中で一番好きな場所である彼女の白い脚の間の割れ目は、血の色のように赤く触れれば火傷しそうなほどに熱を帯びていた。


 そんな華嬢に魂を抜かれるほどに惚れぬいているせいで、目の前の家令に自分がまだ二十歳にもならない若造だとあなどられたくなかった。


 そして彼にはもう一つ、人前で口を開きたくない理由がある。

 慶央にいた時、屋敷内には、父の荘興そう・こうが娘のようにそして三歳年上の兄の英卓えいたくが妹のように可愛がっていた、髪の白い少女が住んでいた。名を白麗はくれいといったが、彼はその少女をだまして誘い出し凌辱りょうじょくしようとして失敗した。


 その時、怒った英卓にまともに顔面を殴られた。

 その衝撃で、前歯が一本欠け落ちた。

 彼は父母から美しい顔立ちと均整のとれた長躯を受け継いでいて、道を歩けば女たちに騒がれるが、それでもやはり前歯が欠けた口元は間抜けて見える。


 康記のそんな心の内に気づいているのかいないのか、家令はぼそぼそと言葉を続けた。


「朝まで、皆さまの馬は大切にお預かりしますれば、ご安心を」


 その言葉に、康記はいまくぐったばかりの門を振り返る。同時に、彼の後ろにいた悪友三人も振り返った。いつどこから現れたのか、数人の下男たちがすでに馬の轡を持っていている。


 家令といい下僕や婢女はしためたちといい、この屋敷の使用人たちは用事のある時だけどこからか音もたてずに現れる。そして決して無駄口をきかない。使用人のかがみといってよい。夫も親兄弟もおらず広い屋敷に一人で住む女の逞華嬢てい・かじょうだが、銭には困っておらずそして使用人へのしつけもよいようだ。


「行き届いた心がけだ」


 胸を張ってふんぞりかえり、慶央の父や兄たちが手下のものたちに言う口調を真似て康記は言った。しかし付け焼刃だったようで、遠慮のない悪友たちがくすくすと笑う。


「おいおい、康記。華嬢さまと女たちをいつまで待たせる気なんだ」

「そうだ、そうだ、康記。使用人とのくだらぬお喋りなど、いい加減にせぬか。酒だ、酒だ。おれは酒が飲みたい」

「酒もよいが……。ここの女もまた、皆、いい味だぞ。ああ、待ちきれん。おれのあそこがむずむずしてきた」


 笑いながら悪友たちが口を揃えて言う。しかしながら若者たちの卑猥ひわいな冗談にも、家令はまったく表情も声音も変えることはない。


「暗くあれば、足元にお気をつけくださいませ」


 そう言って、彼はくるりと背中を見せた。

 下僕が差し出した手燭が康記たちの足元を照らす。




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