その女

森林公園

その女

 『その女』を初めて見たのは、由紀ゆきが結婚をして夫婦生活を始め、数週間経ったころだった。その日、夫は出張で遠出していて不在だった。由紀はわずかばかりの開放感と寂しさを味わいながら、夜一人で床に就いた。普段は隣に敷いてある布団が一組ないのは、何だか違和感すらある。


 二人が住んでいるのは『コーポ』と呼ばれるような二階建ての簡素な集合住宅である。二階に人が住んでいるので、一人で過ごしていても妙な安心感があった。でも上のご家族は小さな子どもがいるせいか、夜は早く就寝するようである。


 人がいるのに夜半は静かだ。由紀は普段結構遅くまで夜更かしをする自由な主婦であったが、その日は不思議とすぐ眠たくなった。何だかもぞもぞしながらも、日中の疲れからか簡単に眠りの底へ落ちてゆくのを感じる。そのまま、由紀はぐぅぐぅと寝入ってしまった。


 深夜、急激な喉の乾きに由紀は目を覚ました。半目を開けると誰もいないはずの空間(夫の布団を敷く辺り)に、何かカーテンのような布切れが天井から落ちているのが見えた。下からなぞるように目線を上げて、由紀は「あっ」と思わず声を上げそうになった。


 カーテンかと思った生成りの布はワンピースで、うえに上がるとともに黒い絡まった長い髪が見え、その遥か天井近くに『顔』があった。行き当たった女性の頭は、誰もいないはずの室内、空間に、ふらりとまるで浮いているように感じられた。


 自分以外いないはずの寝室に、大きな女が一人で立っているのだ。由紀は、声を出しては駄目だと唐突に感じて唇を噛み締めた。恐ろし過ぎて目をはっきりと開けることができない。長く黒い髪はまるでゾロゾロとこちらに向けて伸びてくるようにも思える。


 女はとても大きく、天井に到達するほどであった。首を少し傾けて、どうにか部屋の中に納まっている。腰ほどまである髪の毛はワンレングスで、彼女が首を前に差し出すと、おでこの真ん中から少しずつ鼻が露出していった。


 顔を見た、目を見た。その、まるでテレビで観た深海魚……いやダイオウイカの瞳のように、黒く、大きく、ぞっとする黒目を見た。何も感情を孕んでいない、熊や猪のような獣の瞳にも似ている。


「ぎぃ……」


 それに続く悲鳴も上げられず、その女の顔を見て息を呑むと、由紀は気を失ってしまった。



* * *



 朝起きると畳の空間には何もおらず、その女の顔も思い出せなかった。由紀は単なる夢として片付け、その後出張から帰った夫を暖かく出迎えた。そんな夢のことも忘れた数ヶ月後、夫が実家の用事で県外に帰省することになった。


 女のことを思い出したのは由紀が布団に潜り込んでからだった。夫が布団を敷くスペースにヌイグルミか何か置こうという考えが、チラリと脳裏を掠めたが、結局睡魔には勝てずにそのまま目を瞑る。だが、それがいけなかった。


 夜半に、やはり夫が毎日眠る場所に誰かが立っているのだ。畳の上に乗る足は大きくて、青白く、かさついていた。見上げた女はゆらゆらとわずかに揺れていて、それが部屋の空気を震わせているようだ。夏なのに寒い、それを意識したら由紀の歯がガチガチと音を鳴らしはじめた。



* * *



「それは、酷く強い者が家にいたことだねぇ」


 会社のとある先輩は、いわゆる『視える人』と言うやつで、実は最初にその女を夜中に目撃した翌朝にも、由紀は彼女に報告していた。腕には天然石のブレスレットを幾重にも重ねてつけ、エキゾチックな化粧をいつもしていた。


「もうどうしたらいいのか分からなくて……」

「分かるわー、強大な力って太刀打ちできそうにないと泣き寝入りするしかないものね」


 彼女はそう言って、普段後生大事に持っている怪しい海外の本を捲った。布張りの表紙に、金色の箔が押されている。紙面には何やら読めない文字が羅列している。由紀はわずかながらに怪訝な顔をしてしまいながら、しかし黙って先輩の次の言葉を待った。


「そう言う時はね、サクっと白旗上げちゃえば良いの。私だったら『味方になってください、ミカタになってください』って念じるかなぁ」

「味方に……ですか」

「そうそう。そんな存在が自分の味方についたら、心強いでしょ?」


 先輩は何でもないことのように相槌を打つと、勢い良くその書籍を音を立てて閉じた。由紀はその音に吃驚してしまって、椅子に座ったまま少し肩を揺らせる。「あら、駄目だ」と、何か変なことを先輩は一人でゴチて、また由紀に向き直った。


「失敗したら、また私に話してちょうだい、聞くくらいだったらできるから」


 そう言って先輩は、由紀の肩越しで誰か他の社員と目が合ったのか、怪し気に笑んだ。その顔は怪談話をする個性派の女優のようにも見える。由紀は振り返るが、それが誰に向けての表情だったのか、ついぞ分からなかった。


 しかし由紀は、その先輩の言う通り、その夜やはり現れた『その女』に向かって、『ソレ』を実行したのだった。



* * *



 足が見える。それは青白く、良く見ると粉を吹いてひび割れていた。もしかしたら夫の足よりも大きいのではないか……そして何気なく指の数を数えてぞっとした。『その女』には足の小指が片方なかった。思わず悲鳴を上げそうになって、唇を指先で抑える。しかし会社の先輩と話した昼間のことは覚えていて、指を外して短く声を上げた。


「お願い、私の……味方になって」


 すると、女は大きく動いたようだった。そんな風に動けるとは思わなかった。大きな身体をゆっくり、ゆっくりと。だが確実にこちらへ向けて、かがめていった。顔との距離が縮まってゆく。意外にも美しい顎や白い口元が、髪の間から現れる。その唇がはくりと開いた、酷く汚れた歯が並んで見えた。


「嗚呼……喋るしゃべる」


と、由紀はその口元を凝視しながら脳内で思った。女の青白い肌と同系色の唇がわずかに戦慄く。それと同時に、食器棚や夫の硝子張りのプラモデルのケースがガタガタと揺れ始める。家中のビニール袋が一斉にパリパリと音を立てて総毛立つ。


「シ」


 し? 由紀の喉がごくりと唾を飲み込む。



「シィイィラ、ナイワヨォオオオオオオオォ」



 女は、この世で聞いたこともないような濁ったしゃがれ声で絶叫すると、その場で由紀を踏みつぶすがごとく地団駄を踏み始めた。怪異の発狂だ、大暴れだ。由紀はその光景の恐ろしさに、その場でまたしても失神してしまった。



* * *



 上手く行かなかったことを告げても、会社の先輩は笑うばかりで取り合ってくれなかった。ただ、何か言いたげに由紀の後ろばかりチラチラ見ている気がする。先輩をあてにしていては由紀の身が持たない……。


 結局、由紀は夫に泣きついて引っ越すことにした。ちょうど賃貸の更新時期だったし、夫はそれを快諾してくれた。引っ越しについて、例の先輩には報告しなかった。しかし、悪夢はそれで終わらなかったことに、転居後、すぐに気づくことになる。


 新しい賃貸で初めて旦那不在の夜。二人はダブルベッドを購入していた。だから……今度は近いのだ、天井の女との距離が。



「……何だ、私に憑いているのね」



 当たり前のようにベッドの傍らに現れた女の姿に、やっとその真実に気づくと、由紀は諦めてゆっくりと目を閉じた。


<了>

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その女 森林公園 @kimizono_moribayashi

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