4、

 オレは沼崎のシャツに手をかける。ネクタイを外して、ボタンをはずそうとするが、なかなかうまくいかない。

 AVでは前戯をしながらもっと滑らかに脱がせていたのに。あれ、服ってどうやって脱がすんだっけ。頭が真っ白になって、ますます動きがぎこちなくなる。とりあえずキスをして、慣れない手つきでボタンをはずす。沼崎はされるがままで、人形みたいにじっとしている。

「緊張するね」

 沼崎がキスの隙間で笑った。最初は気になっていた口紅のにおいも、いつしか薄れていた。

「皆がクラス会で楽しくしてるときに、こんなことするの、すごく悪い気分」

 沼崎がそんなことを言うから、腹の底にある熾火がぶわりと煽られる。

 やっとシャツのボタンが外せて、オレはゆっくりと袖を抜く。つるりと白い、滑らかな肌。キャミソールの下に淡いピンク色のブラジャーが見えて、身体がぎゅっと反応してしまう。

 キャミソールは耳が引っかかったし、ホックは片手では外せない。うまくいかないなあ、と思いながら、愛撫らしきものを繰り返していく。首にキスをしたら、僕の唇についていた赤色が、首に小さな丸をつくった。

 これが本当のキスマークってか。……いやいや。

 沼崎は女優みたいに喘いではくれない。ふふ、とか、くすぐったいねとか囁く声が、耳に近くて、背中がぞくぞくする。

 ぱちん、とホックが外れる。小ぶりだけど形のいい乳房があらわになる。乳首は思っていたよりも茶色いし、お腹には思っていたより肉があるし。現実と理想との差に戸惑いながらも、それがなおさらリアルな気がして、オレは唾をごくんと飲み込む。

 胸を揉んでも、沼崎は反応しない。「気持ち良くないの?」と恐る恐る聞くと、「うん。触られてるだけって感じ」ときょとんとされた。「男の子って本当におっぱい好きなんだね」と言われて恥ずかしかった。乳首をつまんだら感じるかと思ったら「痛い」と顔をしかめられるだけだった。ごめん、とオレは沼崎みたいに謝った。

 キスが初めてならセックスも初めてだろう。最初は女の子はなかなか気持ちよくなれないと聞いたことがあるけれど、これほどまでなのだろうか。どんどん自信がなくなっていく気がする。少しずつ手を下に伸ばしていく。沼崎の吐息が少しずつ温度を増す。不安になったけれど、パンツの中に手を入れた途端、ぬかるみのような感触がして、興奮の津波がどろりと押し寄せた。指を入れたばかりの時は少し顔をしかめた沼崎は、オレが恐る恐る指を動かすと、小さく、熱っぽい吐息を漏らした。

 オレのものは愛撫なんていらないくらい固くなっていた。

「準備、していい?」

 沼崎はこくんと頷く。ねとねとする手を引き抜いて、オレは勉強机に向かう。保健体育でもらったコンドームを取り出す。今の今まで眠っていた小さな正方形。

 ゴムをつけるだけで、ぬめっとした感触に息が漏れそうになった。下半身を出した間抜けな格好で、ベッドに戻る。沼崎はベッドにあおむけになったまま、じっと身を固くして待っている。

「足、開くよ」

「いちいち言わないでよ」

 真っ赤になった顔を、沼崎は腕で覆い隠そうとする。それを無理やり剥がして、キスをした。

「いいの? 初めてが『ドブ』で。それこそ『ドブに捨てる』じゃん」

 いれようとする直前になって、沼崎が震える声で言った。

「卒業したんだからもう忘れれば」

「忘れられると思う?」

 胸がずきりとする。そんなことを言われて、先に進む勇気はオレにはなかった。痛いほどだった身体の中心から、少しずつ力が抜けていく。ごめん、と身体をどかそうとしたら、沼崎がオレの肩を掴んだ。

「今だけでも忘れさせて」

 余裕のない、甘い囁き。

 その瞬間、血がどくどくと下半身に流れ込む音がした。

 沼崎の中は、思っていた以上に狭かった。苦労しながら割り込ませたら、沼崎は痛みをこらえるために自分の袖口を噛んでいた。そのしぐさがやたら興奮を煽った。全身が敏感になっているのがわかる。女の人の中はあたたかくて、ぎゅうと締め付けられる感触に、オレは歯を食いしばる。

 オレの苦労も虚しく、ろくに腰も動かさないうちにオレは果ててしまった。いくら止めようとしても、身体から流れていくものは止めようがなかった。電流に似たものが走って、全身が心臓になったみたいに脈打った。あ、と女の子みたいな弱々しい声が出た。しばらく身体が動かせなくて、すべて出し切ってしまってから、急に力が抜けた。

 ずるりと身体を引き抜く。クリーム色の膜の外側に、沼崎のべたついた血がついていた。それを見るなり、オレは急に冷静になった。沼崎は放心した様子でオレをじっと見ていて、なおさら恥ずかしかった。

 オレはいそいそと服を直した。なんの言葉もなかった。セックスってもっと甘美で素敵なものだと思っていたのに、これじゃ自慰と変わらないじゃないか。それよりもいっそう悪いことをしでかした気分だった。気まずい、どころの話じゃない。つき合っている男女ならあるはずの甘やかなピロートークもない。男女になってしまったらこうも面倒くさい空気になるのか。

 沈黙の重さに耐えかねたのか、沼崎はアルコールティッシュで顔と身体を拭うと、お母さんが心配するから、とそそくさと帰ってしまった。ふがいないやら恥ずかしいやらで、オレはまともに口がきけなかった。これって合意だったよな。レイプとか言われないよな。保身でいっぱいのオレはとことん情けなかった。

 しばらくの間、そのままベッドの上で呆然としていた。枕は沼崎の頭の形にくぼんでいる。マットレスにはまだぬくもりが残っている気がした。好きだった、わけじゃないよなあ。オレは自問する。高校生最後の日に、好きでもない女子とセックスをした。自分の青春の終わりがやけに薄汚れてしまった気がした。

 そのままオレは寝落ちしてしまったらしい。すっかり外が暗くなった頃、玄関のチャイムの音でオレは目を覚ました。急いで起き上がり、頭を掻きながらドアをあける。扉の向こうには母さんが立っていた。

 まさか父さんよりも早く来るとは。「なんで」と目を見開いた僕に、「なんでって、慶太の卒業式でしょー、お祝いしなきゃじゃん」と母さんは言う。いつも通りの若すぎる格好と、派手な化粧。赤い唇は沼崎よりも攻撃的な色に見える。

「ケーキと寿司買ってきた。兄貴はまだ?」

「うん。今日も遅いかもよ」

「げ、薄情なやつー」

 母さんにオレの変化が気づかれてはいないか。オレの演技の白々しさに自分で嫌になる。母さんは何事もなさそうに、テーブルにケーキの箱や寿司桶を並べていく。

「そういえば」

 そういって、母さんがじっとオレの顔を見た。厳密に言えばオレの口元を。――あ、口紅、落としてない!

 オレがよほど間抜けな顔をしていたのか、母さんは楽しそうにけらけら笑う。

 沼崎のせいでべたべたになった口元を、シャツで拭う。白い袖は見事に真っ赤な色に染まる。

「そっちも卒業ってかー?」

「うるせー!」

「いいじゃんいいじゃん。青春だねえ。ちゃんと避妊した?」

 あっけらかんとそんなことを尋ねるから、この人の神経は本当にわからない。顔がぼっと熱くなる。

「した!」

 着替えてくる、とオレはリビングから逃げ出した。頭まで口紅に負けないくらい真っ赤になっている気がした。


 結局、寿司もケーキも母さんと二人で食べた。ここぞとばかりに高いお酒を飲んだ母さんは、オレがお風呂に入って出てくると、大いびきをかいてぐうぐう寝ていた。

 父さんが帰ってきたのは、オレが部屋に引っ込んだあとだった。オレは「なんでクラス会来なかったんだよ」なんて小言を言われながら、友達とゲームの通信をしていた。

 こんこん、と音がする。控えめなノックの音があるのが、父さんの母さんとは違うところだ。ゆっくりドアが開く。

「遅くなってごめん。卒業おめでとう」

「うん」

 感情をどかどかぶつけてくる母さんと違って、父さんとは少しだけしゃべりづらい。なんでだろう、とオレはいつも不思議になる。一緒にいた時間が長いのは父さんの方なのに。

 理路整然としゃべる父さん。仮にも息子であるオレの絵を、身内への情なんてまるでなしに、冷静に品評する父さん。オレが反抗期まっさかりでぶつかった時も、冷静に諭してきた父さん。

 オレは父さんのそういうところが、少しだけ苦手だったりする。

「卒業式も、出れなくて申し訳ない」

「いいよ。もう高校生なんだし、そんなもんでしょ」

 オレは父さんといると、妙にものわかりのいい返事をしてしまう。

 父さんはそのまま、何か言いたげにオレの方を見ていたが、結局何も言わなかった。そのまま立ち去ろうとした父さんの目が、不意に、机の前で止まる。

 乾かしっぱなしの水彩。オレは絵を片そうと慌てて立ち上がる。

 父さんの目はじっと絵を見ている。口紅をさした沼崎の絵。今となってはぎこちなくてみっともない感情が強烈に焼き付いてしまった、オレの絵。

 普段の絵を見られるよりよっぽど恥ずかしかった。沈黙が耐え難いほどオレを焦らせた。

「……いい絵だね」

 父さんは一言だけ呟いて、オレの部屋を出た。

 最初に来たのは信じられなさ。次に驚き。喜びが伴うまでには、長い長い時間がかかった。


 それからオレは、沼崎らしき人影を一度だけ見たことがある。大学四年生の春。とんとん拍子に進んでいたはずの人生で、オレは初めての停滞を迎えていた。なかなか内定が出なくて、その上彼女にもフラれて、急に躓いてしまったような気がしていた時。何か普段とは違うことをしようと、オレは例の映画館に足を運んだ。久しぶりに見る映画はあの時上映していたのと同じ洋画だった。あの頃はわけがわからないだけだった内容も、すんなり染み込んでくる程度には大人になっていた。

 現実は映画のハッピーエンドみたいにはいかない。それも仕方ないよなと、オレはどこか諦めている。

 長いエンドロールを最後まで見て、薄暗く照明がついた。その時、突然、消毒液のにおいがふわりと鼻を掠めた気がした。いくら場内を見渡しても、影の主はなかなか見つからなかった。オレは追い立てられるように映画館を出た。

 劇場の外を見回しても、沼崎はどこにもいない。馬鹿な感傷がさせた幻覚だろうか。たどたどしくて恥ずかしいばかりの初体験の相手、なんて、思い出したくもないはずのものが、なぜだか懐かしかった。

 諦めて帰ろうとした時、ふと、赤いものが視界をよぎった。

 オレは気づくと振り返っていた。沼崎が誰かと腕を組みながら歩いていた。冴えなくて、いつも肩身狭そうな、「ドブ」だった沼崎じゃない。卒業式の後、びっくりするほど大人びた顔をした沼崎の顔だった。深い赤色の唇が楽しそうに言葉を紡ぐ。男がそれに応えて笑う。ひらひらとワンピースの裾が翻る。軽やかに鳴るヒールが遠ざかる。オレは呆然としたまま、立ち去っていく彼らを眺めていた。

 きっともう、彼女に会うことはないのだろう。あの時、いじらしいほど不器用だった、高校生じゃなくなったばかりのオレが、やけに幸せだった気がした。

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赤い花が咲いた 澄田ゆきこ @lakesnow

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