3、

 戻ってきた沼崎を見て、オレは息を呑んだ。

 胸に挿した花と同じ赤色が、唇に乗っている。沼崎の顔は普段よりもぱっと明るく、目鼻立ちがくっきりして見える。そばかすの散った肌の白さがとくに際立っていた。

 想像以上の似合いぶりに、オレはこちんと固まってしまった。沼崎の白い頬に赤みがさす。「やっぱり、わたしなんかには似合わないよ、こんな派手な色……落としてくる」

 立ち去ろうとする沼崎の手を、オレは咄嗟に握ってしまった。

「似合ってる、すごく」

 うわあ、クサい台詞。少しだけ冷静な自分が憎い。慌てて手を離す。

 沼崎はますます顔を赤くして、うつむいたままベッドに座った。

 ここからが本番だ。オレは改めて鉛筆を削り、スケッチブックに置く。アタリをとって、少しずつ細かく書き込んでいく。鉛筆と紙がこすれる音だけが、六畳の部屋の中に響く。

 しばらく沈黙だけがあった。オレと沼崎に共通の話題なんてほとんどない。先生や同級生の話をするような間柄でもないし、沼崎とふざけた噂話をしたって、楽しいとは思えない。

 我慢比べのように黙りこくる時間が続いた。モデルとして沼崎を見ていても、いつものようなとげとげした気持ちは湧いてこない。だけど気まずいものは気まずい。

「どうして、部活やめちゃったの?」

 沈黙に負けたのは、沼崎の方だった。

「永野くん、絵、上手だったのに」

「……そういうのに疲れたんだよ」

 オレはさりさりと鉛筆を動かす。白と黒だけの画用紙を見ていると、デッサンだけは沼崎に勝てなかったことを思い出す。

 沼崎は空間把握と質感の表現が上手かった。鉛筆一本であれほど繊細な表現ができる人を、オレは他に知らない。沼崎は美大を受けるために、美術部の中で誰よりも真剣だった。そのデッサンの賜物で美大には受かったと聞いた。

 デッサンはべらぼうに上手かった沼崎だったが、色彩表現になった途端、沼崎はやはり臆病だった。強い色や鮮やかな色をあまり使いたがらないし、自己主張もしたがらない。オレは沼崎のそういうところが本当にもったいないと思っていた。

「オレの父さん、美大の教員なんだけどさ」

「へえ、すごい」

「うん。すごいけど、その分絵の評価がシビアなわけ。普段学生を見ているのと同じ眼差しでオレの絵を見てくんの。これじゃデッサンがなってないとか、色の使い方がどうとか、焦点が定まってないとか、テーマが伝わらないとか。父さんから褒められたことなんてなくてさ。マジできついぜ、あれ」

 気づくと言葉がするすると出てくる。こんな話、誰にもしたことはなかった。スケッチブックを目の前に挟んでいるからだろうか。それとも、今日が終わればもう会う予定もないクラスメイトだからだろうか。

「それは、つらいだろうね」

 沼崎の声がやけに優しく沁みる。

「そ。父さんは美大に行くの当然みたいな態度だし、『画家になるならこの程度じゃ食べてけない』とかいうわけ。それがプロの言葉だから余計堪えるんだよね。そういうのが嫌で、もう絵を描くのが楽しくなくなっちゃって。美大行くような熱もなかったし、部活がどんどんだるくなって、やめた」

「そっか……」

 沼崎がそっと目を伏せる。その角度がすごくきれいだと思った。「そのまま視線固定しといて」と、照れ隠しみたいに口にする。

「単に自由になりたかったってのもあるよ。帰宅部の奴らみたいに彼女とイチャイチャする時間ほしかったし」

 オレはわざとおどけたけれど、沼崎は笑わなかった。

 べらべらと喋っている間に、鉛筆書きは少しずつ仕上がりつつある。部活でもこうして人物画を描いたことがあったっけ。その時も確か、くじでペアになった沼崎を描いた。顔のパーツがどれも小さくて地味な沼崎は、その時はぱっとしない顔にしか見えなかった。赤が入った沼崎の顔は、力強さと繊細さが同居していて、確かに同じ人間なのに別人みたいだ。

 綾音の目がシャープな線で力強く描くものだとしたら、沼崎の目は何本も繊細に線を重ねた形をしている。つぶらな目に、意外とまつ毛が長いのだと気が付く。頬に落ちた影が憂いっぽくて、妙に色っぽく見えてどきっとした。

 下絵が終わって、色付けに入った。父さんは油彩の専門だけど、オレが得意なのは水彩だ。滲みや淡い色合い、塗り残しも味になるところも楽しい。水に溶かした絵の具を、少しずつ重ねていく。受験で溜まっていた澱が、少しずつ指先から溶けて流れていく。紅を引く瞬間が一番緊張して、胸が高鳴った。


 描き終わった絵を見て沼崎は、一発目に「すごい」と言った。

「すごい。わたしなのに、わたしじゃないみたい」

 上ずった声。テンションが上がっているのがわかる。正直な反応しかできない奴だから、なおさら嬉しかった。オレはかっこつけて「まあな」と返す。

「……永野くんの絵、やっぱり好きだな」

 独り言みたいにいって、沼崎は窓の外を見る。

 静寂がとろみを帯びて、重たい。自分の心臓の鳴る音が聞こえる気がする。西日の差し込んだ自室。たそがれる沼崎。

 放課後。女子とふたりきりの、自分の部屋。寒い部屋にある二つの体温。距離の近さを、どうしようもなく意識してしまう。

「キスしていい?」

「えっ」

 沼崎はぴしりと固まる。

「ごめん、きれいだったからつい」

 何言ってんだオレは。この状況じゃセクハラどころじゃない。冷静になって取り繕うとした途端、いいよ、と声がした。

 ふっと笑った顔が今までになく大人びていた。沼崎はそんな顔もできたのか。

 どくん、と身体の芯がうずいた。

 オレは沼崎の隣に座った。肩に手を置いて、顔を近づける。吐息の感触。間近で見た沼崎の顔は、産毛が夕日に照らされてうっすら金色に見える。

 勇気を出して顔を前に出す。唇は口紅の油っぽいにおいと味がした。べっとりした感触を感じながら、ゆっくり顔を離す。

「……キス、初めてした」

 ぽつり、と沼崎が言った。

「ずっとドブで、男の子に触れられることも一生ないと思ってた」

 沼崎が無理して笑顔を浮かべる。丸い瞳に映ったオレは、どこか強張った顔をしている。

 今まで直接「ドブ」と呼んだことこそなかったが、オレは彼女を傷つける側にいたのに。オレがこんな顔をされていいのだろうか。罪悪感が胸を引っ掻いた。

 それでも身体は情けないくらい正直だった。オレの膨らんだズボンをみて、沼崎の口元が綻んだ。あでやかな微笑。沼崎が肩に手をかけてくる。誰ともなく、オレたちはもう一度キスをした。舌を入れたのはオレの方からだった。沼崎は少しびくっとして、それから遠慮がちに舌を絡ませてきた。唾液と口紅の味がどろどろに混ざっていく。血流が早くなるのがわかる。

 赤色の混ざった唾が糸を引いた。沼崎は顔がとろんと上気していた。

「木村さんとは、どこまでしたの?」

「ちょっといちゃいちゃするくらい。最後までは、してない」

「そっか」

 沼崎がベッドから立ち上がる。スプリングがぎしりとたわんで、オレの周りだけが沈む。

 沼崎はゆっくりとブレザーを脱いだ。

「ねえ、最後までしてみる?」

「な、なにを……」

「えっちなこと」

 わだかまっていた性欲が、ぼん、と音を立てて爆発した。

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