2、
玄関にはオレの靴しかない。父さんは年度末で大学の業務が忙しいらしく、卒業式にすら来なかった。時々見かける母さんの派手なミュールも、今はない。
「お邪魔します」と言って沼崎が擦り切れたローファーを脱ぐ。何かを気にしているように目を伏せながらも、目が露骨に家の中を観察しているのがわかる。やるならもっとうまくやればいいのに、沼崎はこういうところが本当に下手だ。
家に入るとすぐ、沼崎はオレの三倍くらいの時間をかけて手を洗って、自前のハンドジェルで消毒をした。
沼崎を自分の部屋に通して、オレは別室に向かった。放課後に女子と二人になるのは久しぶりだけど、やらしい気分がみじんも湧いてこないのが不思議だ。相手があの沼崎だからかもしれない。綾音が家に来た時には、あんなに性欲を持て余してどぎまぎしていたのに。
母さんの化粧品をあさる。ポーチを開くと、お目当てのものはすぐに見つかった。あの人がいつもつけている、引くほど真っ赤な口紅。
沼崎は身体を小さくしてちょこんと座っていた。オレは画材を用意して、スケッチブックを開いた。新しいものを買ってすぐ書かなくなった大判のスケッチブックは、一枚目を除くと真っ白だった。
椅子は一つしかないから、沼崎にはベッドに座ってもらった。これをつけてほしい、と口紅を渡すと、「なんでこんな高い口紅持ってるの?」と驚かれた。母親のだと言うと、「永野くんってお母さんいたの?」とさらにびっくりされ、それから申し訳なさそうに目を伏せられた。「ごめん」と言う声はやっぱり蚊の鳴くような細い声だった。
「家にお父さんしかいないって言ってたし、父子家庭なのかと思ってたから……」
「間違ってねーよ」
オレはぶっきらぼうに答える。気まずさに耐えかねた沼崎は、じゃあこれつけてくるねと、逃げるように洗面所に向かった。
人にはあまり言っていないけど、オレの家は少しばかり複雑だ。オレが父さんと呼んでいる人と、母さんと呼んでいる人は、血縁的には兄妹にあたる。別に近親相姦ってほどドロドロした事情ではない。母さんは昔から男にだらしなくて、オレを孕んでも育てられないからと、産んですぐ父さんに預けたのだ。だから父さんは正確にはオレの伯父だ。けど、オレはずっと彼に育てられていたし、物心ついたときから父さんは父さんだった。
母さんは不器用で、精神的に不安定で、すぐ男に依存する。母さんとまっとうな子育てとは相性が悪かった。だけど母さんは母さんなりにオレを愛しているらしい、ということはわかる。
母さんは最初、オレにとって「時々部屋に遊びに来ては、服や雑貨を大量に置いていくお姉さん」だった。彼女のことを、最初は親戚か、父さんの恋人くらいに思っていた。あの人が本当の母親だと知らされたのは中学に上がってからだ。当時は事実を受け止めるには幼すぎて、感情を何度も爆発させた。あの人が親なら、どうして父さんが面倒を見ているのか。母さんはオレのことなんてどうでもいいのか。どうしてオレの家は普通じゃないのか。僕は父さんに何度も言葉をぶつけた。
父さんはオレの八つ当たり淡々と受け入れて、「親」としての役目を文句も言わずにこなした。反発をするエネルギーも尽きて、どこか突っ張るのが恥ずかしくなってからは、父さんに対する反骨精神は徐々になくなってきた。今ではなんとなく、自分の家族の形を受け入れられている。高校生になってからは自分で料理もするようになって、父さんは絵の時と違って、屈託なくオレの飯を褒めてくれた。
オレの家はこうだからしょうがないのだ。父さんは美大の教員だから帰りが遅いし、絵の品評はいつもそっけなくて厳しいし、母さんは時々家にくる変な奴だけど、オレは二人が存外嫌いではない。
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