赤い花が咲いた
澄田ゆきこ
1、
エンドロールが終わると、消毒液のにおいがした。
オレは弾かれたように立ち上がる。ざわざわと鳴る薄闇。明るくなり始めた映画館の中で、目的の人影はすぐに見つかった。胸の赤い花が目に飛び込んでくる。丈が長めのブレザーが最後まで不格好なあいつ。
「沼崎!」
オレが声をかけると、沼崎灯子はびくっと肩を強張らせた。おそるおそるこちらを振り返る眼差しは、悪戯を見咎められた子供のようだ。立ち止まった沼崎が、映画館から出ていく観客に邪魔そうに押しのけられる。「ごめんなさい」と蚊の鳴くような声。沼崎は教室でもいつもそうだった。それがどこか懐かしいのは、オレたちはもうあの教室に戻らないからかもしれない。
「永野くん……?」
卒業式の後、皆が手ごろなファミレスでバカ騒ぎしている時間に、こんなところで誰かに会うとは思っていなかったのだろう。ただ話しかけただけだというのに、沼崎は泣きそうになっていた。
オレは沼崎の近くへと歩く。ポップコーンのかけらが靴の下でつぶれる。指先が冷たい。告白したときより緊張しているかもしれない。
「あのさ、この後あいてる?」
まるで陳腐なナンパだ。自覚しているのがなお恥ずかしい。
「絵を描きたいんだ。沼崎の」
「わ、わたし……? なんで……」
沼崎は目を見開いて、ますます泣きそうに瞳を震わせた。
帰路。自転車を押すオレの横で、沼崎が歩いている。下校中の生徒に見つからないか、沼崎は過剰に気にしているように見える。天敵を警戒する小動物みたいな所作。自信がないくせに自意識過剰なのが彼女の悪いところだ。沼崎はいつもそうやって怯えていて、まわりの神経を絶妙に逆なでしていた。
「永野くんは、クラス会行ってると思ってた」
「元カノがいると気まずいんだよ」
方便だったけれど、あながち嘘というわけでもない。
「木村さん?」と沼崎は尋ねる。同学年に五人も木村がいるのに、綾音を「木村さん」と呼ぶ要領の悪さは、いかにも沼崎っぽかった。
木村綾音は美術部をやめてからつき合った彼女だった。可愛くて、自分が可愛いことを自覚していそうなあざとい子だった。二年生の二学期からつき合い始めて、それとなくやらしいボディタッチをするところまで行ったのに、続きには進まず別れてしまった。一緒の大学に行きたいという彼女の申し出を断ったことが原因だ。
綾音はクラスの中核にいたから、オレは教室で女子たちからにらまれることになった。「やっぱ女より友達だよな」と言ったことをきっかけに、オレはますます綾音の反感を買うことになる。それでも、オレはさほど不自由なく卒業までを過ごした。
だが、クラスが一堂に会して感傷に浸るとなると、綾音の存在は重かった。
「そっか」と言ったきり、沼崎はなにもしゃべらない。話題を探してはいるらしいが、気を遣っている風にちらちら僕を見るだけだ。
曲がりなりにも「陽キャ」のグループにいたオレと違って、沼崎がクラス会に行かないのは悲しいほど腑に落ちる。
沼崎灯子は嫌われ者だった。
一見普通の大人しい女の子である沼崎は、気づくとみんなからうっすらと嘲笑される対象になっていた。成績はいつも下の方。音読の声が小さくて、先生から注意される。聞き取れないほどボソボソと自信なさげにしゃべる。体育が致命的に下手。始まりは体育祭で足を引っ張ったことだった。悪口の対象になると進展は早かった。沼崎という名字の呼び方が「ドブ崎」になり、名字の原型を残さない「ドブ」になるまでにさして時間はかからなかった。
いじめというほど露骨なものではない。みんなバカじゃないから、大人にわかるほどあからさまなことはしない。少し机を離したり、誰とは言わないようにしながら、時折くすくすと笑うだけ。彼女はいつも孤立していた。それでも、直接的な危害を加えられてはいない。「いじめに関するアンケート」では、オレは迷った末にいつも「いいえ」にしか丸をつけなかった。
「いじめられる側にも理由がある」と言うとすごく非道っぽいけれど、沼崎に関していえば、間違いなく要因があった。彼女は何をやらせても頼りなく、どんくさい。沼崎の絵が上手いと知っているのは同じ美術部だった奴らだけだ。要領が悪いから自信もない。常にびくびくとしている彼女の態度は苛立ちと嗜虐心を煽るし、いつも過剰に机や手指を消毒する癖も、余計にそれを加速させた。一事が万事気に障ってしまう沼崎は気の毒な個性の持ち主だった。
もともと沼崎と同じ美術部だったオレは、一緒にされたくなくて、露骨に侮ることこそしなくても、彼女から意識的に距離を置いていた。みんながみんなそんな風だった。オレは沼崎をはじいていた「みんな」の一人でしかない。
それでもオレが沼崎に声をかけたのは、どうせ今日が最後だからという気持ちだけではない。沼崎には赤が似合うということを、卒業式の胸の花で確信したからだ。
受験生になってからというもの、長らく絵を描いていない。描きたいと思ったこともほとんどない。中途半端に絵が描けるという特技は、オレにクラスでのまあまあの地位を与えはしたものの、それ以上のものにはならなかった。
けれど、卒業生入場の前にオレの後ろに並んだ沼崎を見た時、どうしようもなく描きたいと思った。胸元の赤が他の人のものより鮮やかに見えて、髪の黒と肌の白が強いコントラストをなしていた。沼崎はきっと赤色の口紅が似合う、とオレは直感した。きっと、血の色みたいな赤が似合う。あの人がつけている口紅みたいな色。
こんなに描いてみたい絵があるなんて、生まれて初めてかもしれなかった。
卒業式が終わった後、「慶太、クラス会行くだろ?」という級友たちを押しのけて、オレは真っ先に沼崎の姿を追いかけた。沼崎は親が来ていなかった。沼崎は下を向いたままのろのろ通学路を歩いていた。駅まで入ると、街中に行く電車へと乗り込んだ。それを背後から尾行しながら、これじゃストーカーだなと自嘲していた。それでもオレは沼崎から目が離せなかった。
沼崎は小さな映画館に入った。上映している映画は一種類しかない。オレは最後の高校生料金でチケットを買い、劇場に滑り込んで、沼崎と同じ映画を見た。緊張と慣れない字幕のせいで内容は半分も覚えていない。
そして、映画館で沼崎を呼び止めて、今に至る。
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