土手に住みました

ぺしみん

土手に住みました

 ついにお金が無くなってしまいました。お財布の中をみると、一万円札が1枚。千円札が3枚。小銭で572円。総額1万3572円です。貯金はもうありません。

 とりあえず来月の家賃が払えません。私のボロアパートの家賃は月に2万2千円。とても安いですけれどそれも払えません。いつも優しい大家さん。たぶんお願いをしたら、少しは家賃を待ってくれるかもしれない。でも私、もう収入の当てが無いのです。


 わたしのお仕事は、男性とデートをすることでした。性的なサービスはありません。スキンシップも厳禁です。お客様もしっかりと分かっていてくださって、わたしは嫌な気持ちになる事はほとんど有りませんでした。一緒に遊園地に行ったり、レストランで夕ごはんを食べたり。

 夏に花火大会に行った時、私が浴衣を着て行ったら、とても喜んでもらえました。私もとても嬉しかった。バスツアーでお客様といちご狩りにも行きました。ゲームセンターに行って、どうしても欲しいぬいぐるみがあって、お客様にお願いをしてしまいました。お客様は1万円以上使って、ようやくぬいぐるみを手に入れ、私に手渡してくださいました。私は涙が出た。お客様はびっくりして、私に釣られて泣いてしまいました。そのあと、2人で大笑いしました。その時に取ってもらったクマの大きなぬいぐるみは、私の宝物になりました。でも、それは部屋に置いていきます。


 どんなお客様でも、指名を頂いた時は嬉しかったです。みんなとても優しくて、プラトニックな恋愛をしている気持ちに私はなりました。でも、私は一切お金を払っていない。お客様は私と時間を過ごすためにかなりの金額を使ってくださっている。私はそこに罪悪感を感じたりはしませんでした。私はちゃんと、お客様の気持ちを考えて行動していたし、ご機嫌をそこねないように気を配っていました。嘘もつかないようにしていました。そういうお仕事だったのです。私は一生懸命働いていました。


 一番お給料があった時は、月に30万円ぐらいです。高いプレゼントを貰ったこともあったけど、それを換金することはしませんでした。一緒のお店で働いていた子は、みんなプレゼントをお金に替えていたけど、どうしても私はそれが出来なかった。お客様のプレゼントは私の宝物です。アクセサリー類が多いので、これはクッキーのカンカンに入れて持っていきます。給料3ヶ月分だよ、と言って指輪をくださったお客様がいました。私はやっぱり泣きました。すごく嬉しいのと、悲しいのが一緒だった。お客様は、受け取って貰えるだけで嬉しいよ、と言って下さいました。まるで婚約指輪みたいだった。胸が張り裂けそうでした。


 雨が降った日はご指名が激減します。私はお店の女の子と、控え室でファミコンのゲームをしました。昔なつかしのゲームです。仲良しの女の子と一緒にゲームをしていたら、あっと言う間に時間が過ぎてしまった。お客様の指名が無いと、時給は800円です。800円ももらって、私達はずっとゲームをしていました。だから一段と楽しかったのかもしれない。私は雨の日が好きでした。

 朝起きて雨が降っていると、私は窓から外を眺めてにんまりとしてしまいました。水たまりにたくさんの水滴が浮かび上がって、もっとどんどん降って欲しいと私は思いました。傘をさして地下鉄に乗って、お店まで通勤をします。今日はどんなゲームをしようかな。今日のシフトだと、どの女の子がお店に来ているかな。そう思ってワクワクして、いつの間にか笑顔になっていました。


 私がお仕事を止めたのには理由がありません。ある日、ああ、もう止めようって思ったのです。私のお仕事を、ある意味詐欺のように言うような人もいました。そういう事にダメージを受けたわけではありません。お客様にお金を払わせるのが悪くて、お仕事が出来なくなったとか、そういうわけでもありません。私はこの仕事が好きだった。ただある日突然、もう止めようって私は思ったのです。

 

 お仕事を辞めました。それから半年ほど、私は部屋から殆ど出ずに、スパゲティばかり食べて過ごしました。朝起きてスパゲティサラダを食べる。お昼ごはんは食べません。夕ごはんはちょっと工夫をしたスパゲティを食べる。わたし、スパゲティが大好きなんです。あまりに好きなので、気分がいいときには、一本一本丁寧にスパゲティを食べたりします。ちょっとの量で、すぐにお腹がいっぱいになりました。経済的です。だから私は、半年も仕事をしないですみました。


 途中でお母ちゃんが病気になってしまって、貯金の200万円を実家に送りました。本当はお母ちゃんのそばにいてあげなければならないけど、私はどうしても外に出たくなかった。お母ちゃんは「いいよいいよ」と言ってくれました。手術がうまく行って、お母ちゃんは元気になりました。私が仕事をしてないことを知って、お母ちゃんが「実家に帰って来なさい」としきりに言ってくれました。実家には私の部屋が手付かずで残っています。それもいいかな、と私はちょっと思いました。だけどどうしてか、私は東京を離れたくなかった。下町のボロアパートの中で、ひきこもりの生活を続けたかった。


 食事以外では、私は絵を描いて時間を過ごしていました。水彩画を一杯描きました。窓から見える外の風景を描いたり、昔の思い出をゆっくりと引き出しながら描いたり。デッサンなんて勉強したことがありません。適当です。昔お店で仲が良かった子が、私の家に遊びに来てくれました。彼女が私の絵を見て大笑いしたあと、ワンワン泣きだしました。理由は分かりません。私は彼女の頭をずっと撫でて、泣き止むのを待ちました。それから夕焼け空の下、土手に散歩に行きました。

 引きこもりだけど私、土手の散歩だけは好きなのです。夕暮れ時にほんの30分、ちらっと外に出て土手の土の上を歩きます。アパートが川沿いにあるので簡単です。友達は土手を歩いている間、私の手を力強く握っていました。私は何も訊きません。彼女から話してくれるかな、と思ったけど、何も言わずに友達は帰って行きました。もうたぶん会えないね、と言われた時、わたしもそうだな、と思いました。駅前でお別れをする時2人で握手をしました。時計が止まった感じがして、頭の奥がぞわぞわとしました。


 小さな旅行かばんをさげて私は家を出ます。行き先はもう決まっています。荒川の土手です。その先の予定は何もありません。土手に到着して少し歩いたら、すぐに足が痛くなりました。運動不足です。私は土手の草の上に座って、小さなスケッチブックに絵を描きます。だんだん日が暮れてきます。夕焼けの絵も描いた。空が暗くなるぎりぎりまで、私はいくつも土手の絵を描いた。

 真っ暗になりました。土手の上に座っていると、必ず定期的におまわりさんが自転車でやってきます。このままだと私は目を付けられてしまう。土手の橋のネモトへ行きました。私は旅行かばんから小さな枕を出して、あと、ビニールシートを草の上にしきました。その上に体を横たえて、私は橋の下から上を眺めます。どうやらこの橋は、電車が通る為の橋だったようです。数分ごとに凄い音を立てて電車が通り過ぎます。でも私は全然気にならない。むしろ温かいような気持ちになりました。夜が更けてくるとだんだん電車の数が減ってきて、辺りが静かになってきました。

 怖くない。私の心はむき出しで、身を守るような意識が無くなってしまっています。自暴自棄とは全然違います。直接世界に触れている感じがするのです。そういう意識を持てたことを私は嬉しく思っています。だけどそのせいで、お仕事を止めてしまったのかもしれない。でもそれはしょうがなかったことなのです。自分にもそう言い聞かせました。横になったまま、お腹に手を載せてみたら気がついた。夕ごはんを食べていません。お腹はちっとも空いていません。そのまま私は目をつむって寝てしまいました。

 

 朝起きたら体がベトベトになっていました。季節はもうすぐ夏です。湿度が高いから野宿は結構たいへんです。私はショートカットの髪の毛をしていますけど、髪の毛もゴワゴワになっていました。予想はしてたけど、予想以上に不快な気持ちになりました。だけど、これがお風呂に入らない不快な気持ちなんだな、とじっと味わうように考えてしまいました。こういう状態に慣れる事はあるのでしょうか。でも慣れてしまったら、私はもうここにいられない気がする。

 コンビニでおにぎりを一個買ってきて、土手の上で食べました。それでお腹がいっぱいです。私の食欲はいつも控えめです。お水は大きめのペットボトルに入れて持って来ています。それをお気に入りのカップにいれて、ゆっくりと飲み干しました。土手の景色はやっぱりいいなあ。風が吹いて気持ちが良いのに、体が痒いのがとても残念です。

 腕時計の針が午後3時を示すのを心待ちにしていました。それまでの間、私は相変わらずスケッチブックに絵を描きました。とても良い調子です。朝起きたら体がベトベトだったこと。そのせいで今、体が痒いこと。髪の毛がゴワゴワになったこと。そういう事をテーマにして絵を描きます。土手の風景画です。気持ちがにじみ出て、我ながら良い絵が描けていると思いました。おにぎりを一個食べたこと。ペットボトルの水をコップに入れて飲んだこと。そんなテーマでも絵を描いてみました。ビックリするほど大成功です。これはどういう事なんでしょうか。私は理由が分かる気がする。でも言葉にはできません。


 ようやく3時になったので、いつもの銭湯へ向かいます。番台でお婆ちゃんにお金を払った時、私は少し笑ってしまいました。お婆ちゃん私、今土手に住んでいるんです。朝起きたら体がベトベトで、髪の毛も凄く汚れている。それを綺麗サッパリ洗い流すために、一番風呂の銭湯にやってきたんです。

 お湯をたっぷりと使ってしまいました。体を洗って髪を綺麗にして、お風呂に浸かります。身震いがするほどに気持ちが良かった。理由は簡単で、それほど汚かったからだと思います。どろんこだらけの私が、一瞬でピカピカになりました。気のせいでしょうけど肌もピチピチしている気がします。

 お風呂から出て、脱衣所で私はぼんやりとする。これって迷惑なお客かもしれません。だけど私は昔からこれをやっています。番台のお婆ちゃんも慣れた感じです。いつもはぼんやりと一時間ぐらい過ごして、たまには本を読んだりして。それから家に帰っていました。今日はなんと、もう一度お風呂に入ってしまうことにしました。

 だって私にはお家がありません。銭湯が終わったら、またどろんこの土手に戻らなければならないのです。銭湯を出来るだけ、最大限活用したい。そんな浅ましい気持ちが出て来てしまいました。これが、路上生活者の慣れの第一歩なのかもしれない。そう思いました。でもまだまだ大丈夫。私はとても楽しいから。楽しくなくなったら終わりです。簡単な事です。

 

 湯上りほやほやの体で、また土手に向かいます。お散歩に向かうのではなくて、あそこが私の寝床なのだ。そう思うと不思議な感じがします。アパートに帰る時の寂しさがまったくありません。またどろんこに、ベトベトになってしまうのでしょう。だけど私はまだピチピチです。どうやって、どこらへんから汚れていくのかしら。明日はそれもテーマにして絵を描きたい。私の頭の中からアイディアがどんどん溢れ出てきます。こんな経験は初めてです。銭湯のお風呂に、二度入った事も絵にしたい。ピチピチになっている私も絵にしたい。それをお婆ちゃんの肖像画で表すのだって楽しそうです。

 私は銭湯で牛乳を飲むのを我慢しました。何故ならお金が無いから。その事も絶対に絵にしたい。分かりやすい絵にしたい。

 一人でお風呂に入っている私。湯船にたくさんの牛乳瓶がプカプカと浮いています。私は飲みたいけど、必死に知らんぷりしている。背景の富士山の絵がどーんと私を見下ろしてる。飲んじゃえば? って富士山が言っている。

 他には。風呂あがりに、美味しそうに牛乳を飲んでいるオジサンの背中を、私は素っ裸で蹴飛ばしている。ほとんどドロップキックみたいな感じで。とても悔しくて羨ましいのです。私はけっこうおっぱいがあります。もうそれをブリンとむき出しにして、なぜか男湯に乱入して、オジサンに対して必死の攻撃を繰り出している。可哀想な程哀れに、私にやられたオジサンの顔を描いてみたい。オジサンの手から離れた牛乳瓶。空中で、牛乳が見事に飛び散っています。一方私の姿はとっても格好がいい。勇ましくも悲壮に満ちた表情をしています。

 

 土手に到着してしまいました。今日もあそこで寝るのは嫌だ。とっても嫌。急に怖くなってきました。橋の下に行くのが嫌。土手の上から、昨日私が寝ていた場所を見下ろします。すごく可哀想。あんな所で寝ている女の子は、もう、本当に可哀想。体を縮めて闇に怯えて、電車の音を聴きながら眠りにつくのです。もう新鮮さは失われました。あっという間です。そういえば昔、小学生の時。林間学校でキャンプをして、二日目の生活が異様に気だるかったのを私は思い出しました。野外生活なんて一日で充分なんです。私はお家に帰りたい。体が少し震えてしまいました。

 旅行かばんを横に置いて、荒川の土手で寝るなんて恥ずかしい。本当にみっともない。お母ちゃんがそんな私を見たら、きっと涙を流すでしょう。私は午後六時まで土手にいました。ずっと昨日の寝床を見ていました。ついに耐え切れなくなって、私はかばんをひきずってアパートへ戻りました。部屋の戸を開けて畳の床を見た時に、私は涙が溢れて止まらなくなりました。畳の床に体を押し付けて、毛布をかぶって小さくなりました。とてつもなく安心です。床は柔らかいし、湿った風は吹いていない。

 少ししてから身を起こしました。部屋の中には冷蔵庫と小さなキッチンもある。棚にはスパゲティの袋とミートソースの缶もある。私はまた涙を流していました。土手が嫌いなわけじゃないんです。土手で暮らす事もダメとは言いたくないです。私が弱いとか、度胸がないとか、そういう話じゃないと思います。今日はホームシックになりました。アパートが恋しくなりました。そうなったのは、もっと別の理由があったような気がします。

 私はたっぷりのお湯を鍋に入れて火にかける。塩をパラパラと振ります。沸騰したお湯の中に、スパゲティをそろっと入れました。スパゲティが茹で上がるまで、それをずっと見ていたことは人生で初めての経験だった。ボコボコと沸騰して吹き出している泡が、私の心を少しずつ癒してくれました。出来上がったスパゲティに、暖めたミートソースをたっぷりとかけます。

 

 私は六畳一間の木造の部屋に、今一人で居ます。小さなテーブルの上に、美味しそうなミートソース・スパゲティの小さなお皿。白い湯気がたっている。コップには牛乳を入れてしまいました。私はこれを、勝手に食べていいんです。一気に食べても大丈夫。スパゲティ一本一本を、ゆっくり味わって食べたっていいんです。指先まで嬉しい感じが伝わってきます。私は「お母ちゃん」と声を出して言ってみました。「お母ちゃん」「お母ちゃん」。

 スパゲティを食べながら、私は土手のあの場所を思い出す。時計はもう午後一〇時。今、あそこはひっそりとして誰もいないだろう。昨日は私、あそこで寝たのでした。コンクリートの大きな柱のたもとで、私は横になって少し嬉しそうにしていました。電車がけたたましい音をたてて頭上を通り過ぎるのも、まるで遊園地でジェットコースターをながめているように、ワクワクとして楽しかった。それは、決して嘘ではありません。今こうやって、自分の部屋で安心しているけれど、昨日の私が間違っていたなんて、そんな風には思えない。

 畳をそっと指で撫でてみる。なんて優しい手触りなんだろう。私はお布団もしいてみる。その上に座って天井の電球をじっと見つめる。お布団の手触りも確かめてみる。これと、土の上に敷いたマットと。比較はします。どうしたって比較をします。でも、どちらがいいとか、そういうお話になるんでしょうか。だって私は、昨日あんなに安らかに眠れたのです。朝起きた時に、体の節々が痛みました。それもうんと伸びをして、体をパキパキと言わせてみたら、なんとなく綺麗に収まった感じがしたのでした。

 

 布団に横になって、タオルケットを胸の上に引き寄せます。足元には毛布もあるから安心です。電球の紐を引っ張って電気を消しました。感傷的になって、もう一度紐をひっぱろうかと思った。パチパチと、電気をつけたり消したりしてみようかと思った。でももう、私の中で気持ちが通り過ぎていました。もういつもと同じです。古ぼけたアパートで、私はただつまらなく寝ているだけ。唯一の救いは、土手の事を想いながら、これから眠りに向かうことが出来るということ。小さくため息をつきました。

 明日目が覚めたら……ううん。私はお金が無いんだから、まだ、ちゃんと端っこに立っているんだ。朝起きたら、またすぐに作戦を考えなければいけません。忙しいんだよ、私。どうするのか、ちゃんと決めなければいけません。だから今日は、早く寝なければならないのです。

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