32杯目 酒に咲け
「え……?」
驚いたような表情で顔を上げた彼女と、思いっきり目が合った。
「まあその、あくまで俺の考え、だけどな。それに、夕映にとっての意味っていうより、周りにとっての意味ってことなんだろうけど」
やや自信がなくなって予防線を張り、気付かれないように深呼吸。気持ちを落ち着かせたいのに、俺の心ごと吸い込んでしまいそうな真っ黒で大きな瞳に、アクセルを踏み込んだかのように心拍数が跳ね上がる。
緊張するけど、昨日ノートに幾つも書き殴ったことをムダにしたくはなかった。
「……1つは、俺達が会えたってこと。優吾やクラスの友達が夕映に会えて楽しんでるし、俺と伊月と夕映は秘密を共有して遊園地に行くくらい仲良くなった。それってさ、俺達にとってはすごいことなんだぜ。3歳差だから、元のまま進学してたらどっちも竹葉学園に入学しても絶対交わらなかったから」
夕映は、肯定も否定もせず聞いている。正解か不正解か分からないことを伝えるのは怖い。ホントは曖昧に濁して褒めて誤魔化したい。でも、それは一番やってはいけないことだということも分かっていた。
「もう1つ……夕映に救われた人がいる。夕映が3年間ドイツにいて、お酒や肴や哲学を好きになったからこそ、俺と伊月は救われたよ」
特殊な自分が辛いという伊月に「私は気にしないよ」と言ってあげた夕映の強さと
「……葦原君も?」
随分時間が経ったと感じるほど久しぶりに彼女の口から出てきた一言は、俺の名前だった。
「救われたよ。望んでない形でアカペラ部辞めてさ。これで良かったのかって、自分なんか辞めて当然だったのかなって何度も思ってたから、夕映の言葉がすごく響いた。今でも覚えてる。『もしまた思い出して、自分には何も無い、って感じるようなら、私がいつでも否定してあげる』ってさ。もう君に聞きに行かなくても、俺の中の夕映が否定してくれる」
「そっか、それなら良かったかな……」
彼女は、安堵したように晴れやかな表情を浮かべる。ダークブラウンの横髪を右手でサッと撫でると、照れているのか少し赤くなった耳がチラリと見えた。
「それに、部活辞めてなんとなくつまんなかったところで、こうやって一緒にさかな研究部やれてさ。毎日飽きないよ、ありがとな。夕映にとって良いことかは分からないけど、君が3年ズレてここにいる意味は、俺にとっては十分すぎるくらいあるんだ……だから、どうしても、部活続けてほしいって思っちゃうんだよな」
一般論で、彼女にとって望ましい答えなんて、出せそうにない。
だから、俺が感じたこと、俺が嬉しかったこと。それだけをぶつけた。
それはきっと、こうしてずっと一緒にいた俺にしかできないことだから。
「……そんな風に言われたら、ズルいなあ。もう少し部活続けたいな、って思っちゃう」
肩の力を抜くように、夕映は腕とぶらんと伸ばす。頬を緩めたその表情は、今日の天気にも負けないくらい晴れやかに見えた。
「そうね、気が沈んでもまた浮き上がってくれば、それでいいのよね。それに、自分ひとりで浮き上がらなくてもいい」
「うん?」
「またダメって思ったときは、葦原君が否定してくれるでしょ?」
「……おう。『そんなことない』って何度でも言ってやるよ」
ちょうど君が、俺に何度も伝えようとしてくれたように。
「うん、それなら良かった」
そう言って、彼女はグラスに入ったグレープフルーツサワーを飲み干し、「ちょっと苦いね」と笑ってみせた。
「はあ、苦いなあ、ホント」
少しだけ揺れた声で呟き、ハンカチを取り出した彼女は、目を軽く押さえる。
ああ、うん。苦かった、ことにしておこう。
「フランスの哲学者のヴォルテールも言ってるぜ。『人生が自分に配ったカードは、ただ受け入れるしかない。しかし、手元に来たカードの使い方を決め、勝機をつかむのは自分自身である』ってね」
「へえ、そんなこと言ってるんだ。私も知らなかった」
それなら良かった。俺も、君にピッタリの言葉がないかと思って昨日夜に目を擦りながらスマホを叩いたのが報われるよ。
そして、もう一つ。
「あとは……『たまたま近い月日に生まれた人と仲良くなるのが幸福なのではない。君といられて良かった、と思える人を見つけられることが幸福なのだ』」
「それもヴォルテールの言葉?」
ほら、来たぞ。言え、さらっと言ってしまえ。
「いや…………葦原南瀬の言葉だよ」
「え……」
瞬間、彼女はパッと唇を閉じる。お酒を幾ら飲んでもここまでにはならなかったのに、行き場を失くした熱が溜まっていくように、頬が季節外れの桜色に染まっていく。目はパチパチと忙しなく瞬きし、発声練習のごとく「え、あ、う……」とア行を口にして狼狽する。
初めて見る、照れる彼女の可愛さといったら、お酒を飲んでいなくなって十分「犯罪」的だった。
「……ふふっ、ありがとね、葦原君。葦原君が一緒の部で良かった」
真向いにいる好きな人と、ばっちり目が合う。レースのカーテンから煌々と光る西日が彼女の頬をさらに照らし、瞳を鮮やかに輝かせた。
数秒じっと見つめ合うと、左脳の白紙に予定していなかった言葉がガチャガチャと打たれ、喉まで一瞬で届く。
(ずっと気になってました。あなたのことが好きです)
喉どころか舌の上まで出かかったその言葉を、ギリギリで呼び起こした冷静さでグッと引っ込め、別の音を乗せた。
「俺も夕映と一緒の部活で良かったよ」
彼女が少し弱っているときに、それに乗じて告白するなんて、なんだかズルい気がして。
伊月も狙っていると知っているからこそ、逆に抜け駆けせず、いつか正攻法できちんと想いを伝えたい。
バカ正直に顔を覗かせたフェアプレー精神が、俺を「仲の良い部活仲間」に押し留めた。
「そっか、『カードの使い方を決め、勝機をつかむのは自分自身』かあ。なんか良い言葉知れた気がする。来週の部活でさ、それ書いて部室に貼っておこうよ。いつでも見られるように」
「運動部のスローガンみたいだな」
でも嬉しい。彼女が気に入ってくれたことももちろんだけど、さらっと「来週の部活」と言ってくれたことが。確認なんて野暮なことはしない。来週からも、放課後ここに来るだけだ。
「よし、飲もう。グレープフルーツサワーお替りする?」
「ああ、飲む……っておい、ノンアルコールのヤツ、1缶しかないって言ってなかったか?」
「さあて、どうかしらね。赤くなった南瀬君も見てみたいなあ」
「ちょっと、夕映! 大丈夫かよホントに!」
南校舎3階の奥の部屋、テスト終わりの金曜夕方。飲んでない17歳とほろ酔いの20歳の2人で、賑やかにグラスを重ねた。
■◇■
登校前。手早くリボンを結んで、SNSの画面をスワイプする。ミュートを誤って解除してしまったのか、友人の大学サークルの投稿を目にしてしまい、なかったことにするみたいにアプリを閉じた。
代わりにメモ帳を開く。先週金曜から何度も見返している、保存したテキストを開く。
『人生が自分に配ったカードは、ただ受け入れるしかない。しかし、手元に来たカードの使い方を決め、勝機をつかむのは自分自身である』
ちょっと気になる友達が教えてくれた言葉。
私の秘密を知ってもそのままでいてくれた彼が、私のために調べてくれた言葉。
そしてもう一つ、私のために考えてくれた言葉。
『たまたま近い月日に生まれた人と仲良くなるのが幸福なのではない。君といられて良かった、と思える人を見つけられることが幸福なのだ』
私が私でいることには、こうして今、20歳の高校生になっていることには、意味がある。彼がそう教えてくれた。
「よし」
始めたばかりのルーティンを終えて、スマホをポケットにしまい、階段を降りていく。今日も元気に、高校生をやるんだ。
■◇■
「ふう、もう消化試合だな」
「期末が終わった後の7月って毎年そんな感じするよな」
週の明けた7月4日、月曜日。暑い中での掃除の時間で失われた水分を補って余りある炭酸を飲みながら、優吾と一緒にまったりした放課後を送る。
もう3週間もすれば待ちに待ちに待ちに待った夏休み。3年生の来年は「受験勉強の天王山」なんて肩書きのついた8月を過ごさないといけないかと思うと、実質これが高校最後の夏休みとも言えそうだ。
「なあなあ、8月とかどうする?」
「どうするって……別に何も決めてないけど」
窓の汚れを掃除するかのごとく「はあああ」と大きな溜息を漏らす優吾。
「お前さ、せっかく坂隙さんや簾ちゃんと仲良いんだろ? その2人に牧野を加えて海へ誘うなんてアイディアは出てこないわけ?」
「ごめん1ミリも考えなかった」
「はあ、牧野と海とか、絶対楽しいだろうなあ。青い空、青い海、ビーチボール、空気入れ、牧野に空気入れでプシュプシュ空気を入れてフワフワ浮かせたいだろ?」
「終盤で変なことになってるぞ」
ビーチボールまでは良かったんだけどなあ。
「ったく、優吾のことだから、どうせ海の家の焼きそばに牧野を混ぜたい、とか妄想してるんだろ?」
「……え、何それ? なんで焼きそばに混ぜるの……ちょっとよく分かんないな……」
「なんで焼きそばだけ分かんないんだよ!」
急に
「とにかく、夏休みも部活漬けじゃないんだろ?」
「そりゃ毎日ってわけじゃないけどさ」
それを聞いた優吾は、ニヤリと悪い笑みを浮かべた。
「だったら今からでも遅くない、海の計画立てようぜ。まずは簾ちゃんから誘って——」
「何の話してるのよ、ニヤニヤしながら」
「おわっ、簾ちゃん!」
俺の数倍は呆れているような表情を浮かべ、伊月がジト―ッとこっちを見ている。その後ろにはきょとんとしたように見ている夕映。やめろ、俺を犯人扱いしないでくれ。
「海とか聞こえたけど、どうせみんなで海に行こう、みたいなこと考えてたんでしょ」
「いやいやいや……あ、さかな研究部って、海の魚の研究してるのかなって」
うまく話をズラした優吾に、夕映は俺の斜め前、自分の席に座りながら「そうよ」と答える。
「魚の生息域とか天敵とか、味とか調べてるわ。日本酒と昆布で作った昆布酒に白身の刺身を漬けると美味しくなるとかね」
機嫌良さそうに答える夕映。なぜ毎回味の話題を出すんだ。
「へえ、面白そう。坂隙さんさ、今日これから部室遊びに行ってもいい? 図鑑とかあるなら見せてよ」
「ええ……良いわよ。ちょっと部室片付ける必要あるけど。ね?」
「あ、ああ」
彼女は俺に小さく目配せする。部室を片付ける=酒を隠すなので、優吾を部室に行く手前でちょっと寄り道でもさせて準備しないといけないな。
優吾と伊月が「俺哲」の好きなシーンについて話しているのを聞きながら隠し場所に悩んでいると、夕映が小さく手で「来て来て」と呼び、耳打ちしてきた。
「よく考えたら今日はビールの気分なんだけど、どうしよう。泡を吹いて消しちゃえばバレないかな?」
「多分バレるっての。っていうかビールを我慢しろよ」
「それは出来ないなあ。私も花の女子高生、飲みたガールだからね」
「どんなネーミングだよ」
2人で顔を見合わせた後、思いっきり吹き出す。
同じクラス、20歳、3つ上。お酒と肴を愛する、年上お姉さん。
割と変な人な気もするけど、好きになっちゃったし、しばらくはこうして夢中になっていようかな。
「よし、じゃあ部室に向けてしゅっぱーつ!」
優吾が意気込んで教室を飛び出し、伊月が「じゃあワタシも行こうかな!」と追いかける。
その後ろを、夕映と一緒にゆっくりと付いていく。廊下の窓から吹き込んだ風でダークブラウンの髪が揺れ、切れ長の綺麗な目にサラリとかかった。
「ねえ、今度また外にお酒飲みに行こうよ、南瀬君」
「ん、いいけど……って、えっ! 今名前で……!」
「ほら、早く部室行こっ」
俺の数歩先でこっちを振り向いた夕映の柔らかい笑顔を見ながら、ファミレスで聞いた彼女の言葉を思い出す。
『特別な人じゃないと名前で呼ばないかも』
一気に、体が熱くなる。お酒でも飲んだみたいに。
「ねえ、夕映ちゃん、なんか今、葦原のこと南瀬君って呼んでなかった?」
「ふふっ、ナイショよ」
「おい南瀬、どういうことだ、説明しろ!」
「はいはい、優吾は気にしない気にしない。夕映、先に3階行ってて!」
廊下を駆け足で昇る。酒と肴で咲いた俺の恋も、夏に向けて走り出した。
〈了〉
酒に咲け 肴に咲かない ラブコメなし ~高2でハタチ、飲みたガールの酒好き坂隙さん~ 六畳のえる @rokujo_noel
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