31杯目 きっと意味があるなんて

「悪いな、夕映。テスト終わりなのに呼び出して」

「ううん、明日から休みだし」


 7月1日、金曜日。午前中に残りの期末テストをやり、長めのお昼休みを取って、午後は普通に授業があるという変則的な日程を終えた。


 6月を終えたことで名実共に完全に「夏」になったものの、悠然と進む巨大な雲のせいで、今はちょうど、太陽が悔しそうに一瞬だけ身を隠していた。


「この1ヶ月半で見違えるように部屋っぽくなったのね」


 南校舎3階の西端。奥まった場所の、更に一番奥。部室を見回しながら自画自賛する彼女に、俺も「だな」と同調する。



 木製の棚には各段の底板にターコイズカラーのクロスが敷かれ、彩り鮮やかな家具になった。


 上の方の段には哲学・倫理に関する本と、インテリア代わりの空のワインボトル。「どうやって調達したかナイショよ」と彼女は言っているが、本人が飲んだに決まってる。



 中段と下段には焼酎やウィスキーのボトルに袋のおつまみ、多種多様なグラス、スプーン・フォークなどのカトラリーが置かれ、いつでも飲めるように万全の体制が整っている。中段にぽっかり空いているスペースは、将来電子レンジを置くためと言ってたっけ。アースとか大丈夫? 電気工事する気なの?


 そして小さいネイビーの冷蔵庫にもたくさんのお酒と俺が飲むためのお茶が入っている。彼女の言う通り、部室ではなく完全な「趣味の部屋」だった。



「…………」

「………………」


 黙っている俺に合わせるように、夕映も黙ったままでいる。活動休止のことをどう切り出そうか迷っている俺に、「話したいこと、なんとなく分かってるよ。ちゃんと待ってるから」と言わんばかりに、彼女は静かに本を読んでいる。



 教室机を2×2でくっつけてテーブルクロス大きなテーブルを挟んで向かい側に、俺の好きな人は座っている。同じクラスの男子と二人っきりなんてことも気にも留めずに、手元の本に夢中になっている。意識してもらえないことが歯痒くもあり、そんなマイペースなところも好きなんだと再認識もしたり。 


 俺だけがこっそり緊張感を吐き出し、部屋の中の静寂に吸収される。部屋の時計が規則正しく秒針を刻む音と、彼女が紙を捲る音だけが響いていた。



「悩んでた件、さ」


 意を決して話しかける。夕映は、本をパタンと閉じてテーブルに優しく置いた。


「まだ、しんどい感じ?」

「そう……かな」


 視線を合わせず、彼女は答えた。


「一度意識しちゃうとダメだね。SNSでみんなが大学楽しんでる投稿見ると、『置いてかれてるな』って感じちゃう。高校卒業に3年かかっても6年かかっても、どっちが正解とかないって、なるべく思うようにしてるんだけど、今はネガティブでいっぱいになるな」

「……うん」


「もちろん、病気が治ったんだから喜ぶべきなんだけどね。でもこの差ってずっと縮まらないじゃない? 私が今のみんなみたいに大学2年生になる頃には、卒業して就職したりしててさ、ずっと後ろ追いかけてるのよ。このままずっと遅れを取って、劣等感持って生きてくのかなって考えたら、ちょっとね」

「……うん」


 彼女の話に、ひたすら首を縦に振って相槌を打っていた。



 初めて彼女とこの部屋で会ったときの彼女の言葉を思い出す。


『どっちが正解とかなくて、その期間の間に何をしたか、何を学んだかが重要だと思うから』


 でもやっぱり、時折こうしてマイナスの渦に飲み込まれるのだろう。それは仕方ないことの気もする。


 かつて自分と同じように生活していた友達が2歩も3歩も先を進んでいる。年齢が一緒なのに、自分はみんなの影も見つけられないような後ろにいる。

 学校にいるときは気付かなくても、仮に彼らと一緒に過ごす機会でもあれば、話題についていけない自分をイヤでも自覚する。美術の授業のあとに筆洗いの中に溜まっている水みたいな濁った感情が、掬っても掬っても心に堆積するのだろう。


「まあどうしようもないってことも分かってるんだけど、部活の気分にならなくてね。だからやっぱり、うん、活動休止かな。長引くようならここも少しずつ片付けていかないとね。あ、そうだ」


 そう言って立ち上がり、冷蔵庫の前に行く。そしてゴトゴト音を立てたかと思うと、棚に寄って帰ってきた。


「花の金曜日だし、今日はグレープフルーツサワーで」

「なんでだよ」


 真面目な話をしようとしてるのに淡々と飲もうとする彼女に拍子抜けしてしまう。


「ほら、これ思い出の酒よ? 葦原君が私が飲酒してるのを目撃した。ほら、同じ会社が出してるノンアルコールも1缶だけ用意してあるから、テスト終わりの打ち上げしましょ」

「あ、ホントだ。『サワー気分』って入部の時に飲んだな、懐かしい」


 グレープフルーツの絵の横に「果実感アップ!」と赤いマークが付いていた。


「じゃあ注ごう注ごう」


 彼女の斜めの場所に椅子ごと移動し、2つの缶をプシュッと開けてトットットッと互いのグラスに勢いよく注いでいく。炭酸の爽やかな泡の音が細長いグラスの中で反響し、弾けた泡から柑橘の香りが漂ってきた。


「じゃあ葦原君、おつかれさま。今日でしばらく、ここで飲むのもお休みだしね」

「……夕映もおつかれさま」


 残念そうな彼女の言葉には敢えて反応せず、カチンと音を立ててチアーズ。

 飲んだ瞬間、口の中に広がる柑橘系の爽快な甘みと、グレープフルーツ独特の仄かな苦味。美味しい……と思いきや、最後に口に残るのは、きっとお酒に似せようとした結果の、グレープフルーツとは違う苦味だった。



「……やっぱりジュースでいいな。酒っぽさは要らない」

「まったく、この苦味が良いのに。味覚が子どもね」

「3つ下だっての」


 ツッコミを入れると、彼女は口に手を当て、どこか寂しそうに口元を緩める。この部屋に、この部室に未練があることが、目を細めた表情から痛いほど伝わってきた。



「あ、肴どうしようかな」

「ああ、夕映。今日は俺が用意してきてる」

「え、ホント?」


 自分のリュックから、赤色のパッケージを取り出す。丸太を小さくしたかのような赤茶色の肉が美味しそうに写真に撮られ、パッケージの表に映っていた。


「カルパスね」

「そう、今日会った時に飲むかもしれないと思ってたからさ。昼休みに百貨店行って買ってきたんだよ。俺からのプレゼントだ」

「え、ホントに? わざわざ遠いところまでありがとう」


 彼女は座ったまま深く頭を下げる。テスト最終日でいつもより昼休みが大分長かったことに感謝だ。


「じゃあ早速頂くね」

「どれどれ、俺も一つ」


 キャンディーのように包まれたビニールの両端をきゅっと引っ張ると、くるくると回転して中の肉が出てくる。ポンッと口に放り込んでむぎゅっと噛むと、肉の旨味がぐわっと広がった。


「美味いなこれ!」

「そうね。噛むたびに程よく脂が溢れ出てくるから、一番始めに口いっぱいに広がる塩気を中和してくれるのがいいわね。ここにグレープフルーツサワーを合わせると、鼻から香水みたいなグレープフルーツの香りも抜けながら、べたついたカルパスの後味を綺麗に流してくれるから、すごくいい取り合わせだと思う」

「相変わらず的確なコメントだな」



 さすがに趣味で会報を書いてるだけある。彼女と一緒にいると、もっと色々なものを食べたり飲んだりしたくなる。



 だからこそ、今日で終わりじゃない。



「カルパスって、サラミと何が違うか知ってるか?」


 幼稚園児が使った後のクレヨンみたいに、机に5、6個散らばっているおつまみを指して夕映に尋ねる。それは、彼女のいつものスタイルに則った話を真似する合図だった。


「ううん、知らないわ」


 彼女は真っ直ぐに俺を見る。その目には、これから何が始まるのかという、期待と不安が同居していた。


「まずはサラミだな。サラミは、豚か牛の挽肉を原料にしてるドライソーセージって種類でイタリア発祥なんだってさ。加熱せずに2~3ヶ月乾燥熟成させて作る。で、その中で水分が35%以下のものをドライソーセージって呼ぶらしい」


 視線を外さないまま、彼女は何度も頷いた。


 そんな風に聞いてくれるなら、俺も調べた甲斐がある。

 昨日の夜、エナジードリングと友達になりながら、製法をそらんじられるよう覚えたり売り場を検索したりした甲斐がある。



「で、一方のカルパスってのは、豚・牛の他に鶏挽肉でもオッケー。ロシアで生まれたセミドライソーセージっていう種類なんだ」

「ふうん、原料が違うのね。セミドライってことは乾燥の期間が違ったりするの?」


 やっぱり酒好き、しっかり食い付いてきた。そして良いところ突いてくるな。


「いや、期間は2~3ヶ月で変わらないけど、サラミの方が乾燥の仕方が緩いのかもしれない。カルパスの水分は55%以下って決まりになってて、35%以下のサラミと大分違うんだ。確かにサラミよりカルパスの方がちょっと柔らかいイメージがあるよね」


「うん。サラミってピザに乗ってる薄切りならいいけど、太いままだと硬すぎるもんね。あれ、そういえばペパロニっていうちょっと辛いのが乗ってるピザもあるよね? あれはサラミと一緒?」

「さすが夕映、そしてさすが俺。その質問来ると思ってちゃんと調べてるぜ」


 彼女はクックッと笑いながら「お見事」と4本の指先だけで小さな拍手をした。


「見た目はほぼサラミだし、製法とかは違いがないらしい。発祥はイギリスみたいだけどね。一番の違いは、赤唐辛子みたいな香辛料が練り込んであるかどうか。サラミには入ってないからな」

「なるほど。似たものでもイタリアとロシアとイギリスで違うのね」


 彼女は興味深そうに腕を組み、目に好奇心を宿している。この後の言葉を受け入れてもらえるか、憂慮と緊張でゴクリと唾を飲んだ。



「……カルパスはさ、ペパロニともサラミとも似てるけど、微妙に違うんだよ。人間みたいだろ? 同じ年に同じように生まれても、ちょっとした差で違うものになる。でも、その差にはきっと意味があるはずでさ」

「意味……」


「夕映もそうなんだよ。3年間休んだことに、きっと意味がある」

「ん……」


 彼女は、クチナシのように清らかでどこか悲しげな笑顔を浮かべた後、僅かばかり俯いた。


 それはそうだろう。「意味って何? どんな意味があるの?」なんて疑問しか浮かばない、こんな中身不明のプレゼントみたいな曖昧な言葉、俺だって言われたら納得できないに違いない。



 だから、その続きまで伝えなきゃダメなんだ。



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