第28話 七瀬の岐路(1)
そして、その日の夕刻――。
『ずるい』
『ずるい』
『ずーるーいー』
『今度は私も連れてけですよ、レンレンのおごりで』
ラインの画面に乱打の勢いで届くチカからのメッセージに、「こないだの服で金ないから」と返し、冷めたコーヒーをまた一口すすって。
際限なく襲ってくる緊張の波に、手のひらのツボを押し込んで抗い、美少女作家の戻りを待っている俺である。
ところは
今さらだけど、無事に企画が通ったら俺の方こそお祝いに奢ってあげるべきじゃないか……なんて考えながら、再びスマホに目を落とした直後、
『億に一つ、残念な結果だったら、まっすぐ励ましてあげるんですよ』
後輩から新たに届いたその文面に、俺は数秒ほど真剣に見入った。
俺だって、そうなる可能性を考えないわけじゃない。だけど、今日の打ち合わせですぐに企画が通らなくても、その時は引き続き彼女と一緒に改善案や別案を練ればいいだけ。
何より、頑張っている美少女に運命が味方しないはずがない……と、珍しく物書きらしいフレーズを想起しつつ、チカ相手にそんなことを送るとイジられるので、無難に「わかってるって」と返そうとしたところで。
ふいに、後ろからトントンと肩をつつかれる感触とともに、
「お待たせっ、
美少女の明るい声が、ふわりと俺の意識を包んだ。
俺がびくっとして振り返ると、彼女はマスク越しにクスクスと笑って、「長くなっちゃってごめんね?」と胸の前で両手を合わせてくる。
何度も見たその仕草にやっぱりドキリとさせられつつ、この明るさなら首尾は上々ってことか……と思って、俺は「どうだったの」と気負わず尋ねるが。
「まあまあ、いいじゃん、積もる話はご飯食べながらでっ」
そう言って俺に離席を促しながらも、なぜか彼女は、「通ったよ」とか「バッチリだったよ」とか、俺の期待した言葉を口にしようとしなかった。後から勿体ぶったシチュエーションで言うつもりなんだろうか……?
彼女に「はやくっ」と可愛く急き立てられるがままに、カップを返却口に返してカフェを出る。
日の落ちた街を俺と並んで歩きながら、彼女はふふんと楽しそうに微笑みかけてきた。
「尾上くん、なに食べたい? やっぱり、オルフェウスの印税あるし、ナナセ先生が奢ってあげるよー?」
「いやいや、それは悪いって。印税は全国書店巡りの旅費に取っといて」
俺が改めて奢りを固辞すると、以前の発言を覚えていたのが嬉しかったのか、彼女は「そう?」とご機嫌に首をかしげる。
「じゃあ、高校生らしく、お財布に優しいファミレスにしましょー。ドリンクバーがあるとこねっ。尾上くん知ってる?」
「ドリンクバーなんてどこでも……あぁ、イナカ育ちだと知らない系?」
少し余裕を取り戻して俺が言うと、彼女は思った通りに「むぅ」と声に出して。
「私の地元だってファミレスくらいありますー。ただ東京とお店の種類が違うだけですー」
歌うような声で拗ねてみせながら、スキップでもしそうな足取りで、東京ならどこでも見かけるオレンジ色の看板のファミレスへと俺を連れ込んだのだった。
そこそこの喧騒に満ちた店内で、俺が頼んだのはビーフハンバーグ、彼女は海鮮のパエリア。
尾上くんは料理するの、とか、いつか私の手料理を味わわせてあげる、とか、ノーマスクの笑顔から繰り出されるとりとめもない発言にひとしきり動揺させられたあと……。
ドリンクバーから取ってきた食後のコーヒーを自分の前に、紅茶を彼女の前に置いた俺は、「ありがとっ」と弾む声を聴くのも早々に、出来るだけさらっと聞こえるように切り出した。
「それでさ。新作の件はどうだったの」
すると、ミルクを入れた紅茶をくるくると混ぜていた彼女は、そっとソーサーにスプーンを置いて。
「うん? 新作……新作はね。ちょっと、しばらく気にしなくて大丈夫かな」
「え?」
間の抜けた声を返す俺の前で、あくまで笑顔を保ったまま、どこまでも楽しそうな声で言ってきた。
「それより、せっかくこうやって仲良くなれたんだもん、もっと楽しいこと沢山しようよ。私、クラスの皆ともいいけど、尾上くんともカラオケ行ってみたいっ」
想定外の展開に固まる俺の前で、彼女はミルクティーに手を付けもしないまま、饒舌に言葉を並べ続ける。
「映画ももっと色々観たいしー、あっ、それに私、せっかく東京に来たのに夢の国にも行ってないんだよ? 尾上くんは行ったことある?」
「……いや、そういう場所には馴染みがなくて」
「これから馴染んでいこうよっ。それとも、秋葉原のオタクショップとかの方がいい? 私、アキバって結局あの時行ったっきりなんだよねー。尾上くん詳しいんでしょ、案内してよっ」
「まぁ、夢の国よりは……」
「あとあと、東京タワーは上ったけどー、スカイツリーはまだ行ってないし。それに、
「……さぁ」
「あっ、あと、落語も観てみたい。本場の
「ちょっと、藤谷さん、ちょっと待って」
まだまだいくらでもプランを並べ立ててきそうな彼女の勢いを、俺は両手をかざして押しとどめた。
美少女の細い首が、計算され尽くしたような角度で、こてんと斜めに傾けられる。
「レンレンは、私とデートしたくないの?」
「いや……」
その単語の響きに、たちまち脳が沸騰しそうになるが――
「あっ、今は受験でそれどころじゃないかっ。ごめんね、私ったら自分の勢いだけで――」
「そうじゃなくて」
流されそうな理性をかろうじて繋ぎ止め、俺は両の手のひらをテーブルに音もなく振り下ろした。
僅かな振動が飲み物を揺らし、彼女の丸い瞳がハッと見開かれる。
「そりゃ、デートはしたいけど。でも、新作気にしなくていいっていうのはおかしいだろ」
正気を保って静かに言い切ると、彼女は、ぱちり、と目を
……それから、観念したような顔になって、俺の胸元あたりに視線を落とし、「ごめん」と一言謝ってきた。
何があったんだよ、と問いただす前に、美少女作家はぽつりと語り始める。
「……さっき、
「それって……」
「尾上くんのアイデアが悪かったんじゃないよ。あの企画のことは、ちゃんと褒めてくれたの。凄いですね、オルフェウスを超える作品になるかもしれませんよ、って。……でも」
でも、何だよ。
それって、やっぱり、
「……どこまでホントか分からないんだけどね。
ふいに、俺が知るもう一人の編集者……彼女に色目を使おうとしていた不愉快な男性の名前を出され、びくりと意識が張り詰めた。
「あの人のレーベルから、レギオンの上のほうに、ちょっと横槍みたいなのもあったらしいの。受賞作の続刊も出さないで、レギオンから完全新作を出すくらいなら、そのぶんウチに機会を回してくれ……とか」
「……そんなの」
理不尽な話に拳が震える。それが事実なら、横槍と言うよりほとんど嫌がらせじゃないか。
「わかってるよ。ただの意趣返しだよ、そんなの。……それに私、あの人と本なんて作りたくないし」
きっと本音に違いない彼女の言葉を聴きながら、それでも俺は別のことを思っていた。
「俺のせいかな。あの時、俺がついてかなければ」
「違うよ、私からお願いしたんだもん。尾上くんは何も悪くないよ」
伏し目がちだった彼女が、その時だけしっかり俺の目を見つめてきた。涙をこらえているような優しい表情に、このままじゃダメだ、と俺の中の何かが言っている。
このまま諦めさせたらダメだ。俺のアイデアなんかどうでもいいけど、あんなに目を輝かせて頑張ってきた彼女が、このまま報われないなんてことがあっていいはずがない。
だから俺は、思いつくままに、彼女から目をそらさず言った。
「だったらさ、やっぱりオルフェウスの続刊書こうよ。俺がどれだけ役に立てるか分からないけど、頑張ってアイデア出すからさ。それなら菊池さんも、他の人も文句言わないんだろ?」
菊池氏は最初から続刊を出すべきだと言っていたそうだし、堀井のヤツの言い分もそれなら通らないはず――。
だが、俺の提案を聞いた彼女は、何秒か押し黙ったあと、それまでにない切ない色を瞳に宿して。
「……あのお話はね、もう続きは要らないの」
と、同じく切ない響きで、そっと答えた。
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